……とうとう、本当の私に戻れる……
川のほとりで竜胆(りんどう)は思いました。
川面には、自分の姿が映っています。
青みがかった長い髪の凛とした美少女。けれど、これは本当の竜胆の姿ではありません。
……本当の私は男なのだ……
そう、竜胆は生物学的には男です。しかし、生まれてから今日まで、ずっと女として育てられてきました。村の誰もが、竜胆の事は女だと信じています。竜胆自身10才になるまで自分は女だと思っていました。里長である犬飼家のしきたりで、長男は16才になるまでは女として育てられるからだと両親は言います。
そして、今日、ついに16才の誕生日を迎えました。これで天下晴れて男に戻れるのです。
……私の人生は、今日からはじまるのだ。
竜胆は、かつてないほどの開放感を味わっていました。
家に戻ると、そこには見知らぬ客が居て、竜胆を待っていました。年の頃30ほどの全身黒づくめの隻眼の男です。
……だれだ? この人?
いぶかしげに見つめる竜胆に、男はうやうやしく頭を下げました。
「お初にお目にかかります。それがし、日下部家剣法指南役、柳生十兵衛三厳と申す者」
「柳生十兵衛様?」
柳生十兵衛と言えば、『柳生新陰流』で葦原藩にその名を轟かせている名剣士です。しかし、そんなたいそうな人が何の用事でこんな村に? 首をかしげる竜胆に向かって十兵衛と名乗る男はいいました。
「あなたをお待ち申し上げておりました」
「わたくしを待っていた? なぜ?」
すると十兵衛は言いました。
「それがしが主家、日下部家の家督を継いで頂くため」
「はあ?」
「聞き取れませんでしたかな? 日下部家の新しい主になって頂くためと申しました」
「ちょ……ちょっと待って下さい」
竜胆はうろたえながら答えました。
「日下部様といえば、確か、葦原藩の書院番番頭をつとめるお方……」
書院番とは、本来は将軍家の親衛隊。葦原藩では藩主の親衛隊となります。その番頭とは親衛隊の隊長で、有事のおりには真っ先に兵を動かす権限を与えられています。日下部家はその番頭の一翼を担っているのです。
「それだけでなく、当主の重宗さまの武勇はわたくしの耳にも届いております。殊に若い頃の国元での邪鬼ヤーヴェとの戦いは、幼き頃、父より幾度となく聞かされました。そのような立派な方が、なぜ、私のような一介の村娘に後を継がせるなどと……?」
「ふむ。そのわけですか。実は、重宗様はこの春よりずっと床に伏せっておられましてな。必死の介抱も虚しく、医師もついに匙を投げてしまいました。重宗公自身も自分の命が長くない事を覚悟され、ついに家督を譲ろうと決心されたのです」
「しかし、なぜ縁もゆかりもないこの私に? 重宗様は次男の藤麻様に後を継がすおつもりと聞いております」
「確かにそのはずでござった。ところが、その藤麻様がひと月ほど前に行方をくらませてしまったのです」
「行方を……?」
竜胆は驚きました。
「しかし、藤麻様が行方をくらませられても、日下部家には嫡子の刹那様がおられるはず……」
「ふん。刹那殿に後を継がせるのは無理です。あの方の奇行の噂はここにも届いておりましょう?」
「……はい。本当か嘘かは知りませぬが、たいそう残忍なお方で、10の時に刃をふるい多くの人を殺めたと………」
「その噂は事実でございます。刹那殿には邪鬼の呪いがかけられているのです」
「邪鬼の呪い?」
「そうです。事の起こりは16年前。ご存知のごとく、重宗公は国元で邪鬼ヤーヴェと戦い、これを殺す事に成功しました。しかし、肉体は滅べども魂は死なず。ヤーヴェは重宗様にに対し激しい恨みを抱き、そのご一族へと呪いをかけたのです。肉体より放たれた邪鬼の魂は怨霊と化し、当時まだ10才にも満たなかった刹那様に取り憑き、人を殺めさせました。そして、刹那様の口を借りてこう叫びました『重宗、許さぬ。我が怒りの報いを受け、お前の子孫は永遠に血で血を洗う骨肉の争いを繰り返すであろう』と」
「……恐ろしい話ですね」
竜胆は身を震わせました。
「どんな、まじないも祈祷も刹那殿の呪いを解く事はできず、次々に罪もない人々が惨殺され、ついには重宗様自らが刹那様を捕らえて邪鬼の魂ごと屋敷の奥の座敷牢へと封じ込めなければならなかった。このような呪われた若君に、書院番番頭たる日下部家を継がすわけにはいかぬと。そんな事になったら、日下部家の……いや、葦原藩は間違いなく終わってしまうと。こうして、涙をのんで刹那殿を跡継ぎより外すしかなかった。ところが、近頃その刹那様を立てようとする一派が現れた。腹黒大膳と、柳川吉安と申す痴れ者で、自分たちの権益のためなら邪鬼にも魂を売り渡す輩だ。藤麻様が行方不敬になり、殿が明日も知らぬ命の今、奴らにとっては刹那殿を擁立する格好のチャンスであろう。しかし、我らとしては黙ってこれを見過ごすわけにはいかぬ」
「確かに……」
「それで、拙者がここへ来たのでござる」
「そこが、分からないのです。日下部家の跡取り争いと、わたくしが何の関係があるのですか?」
「大ありです」
「なぜ?」
「それは、竜胆様……。あなたが、重宗様のご子息であらせられるからです」
「はあ?」
あまりの事に竜胆は言葉を失いました。
「私が? 日下部重宗様の息子?」
「左様。あなたは、日下部重信様の第三番目のご子息。藤麻様の双子の弟君でございます」
「双子の?」
「そうです。邪鬼にその存在を気付かれぬよう、生まれた瞬間に死んだものとして捨て、この村で女として育てさせていました」
「……」
自分が女として育てられたのは、犬飼家の風習などではなかったのです!
こうして、十兵衛に押しまくられた竜胆は、ついに葦原城へ行く事に同意しました。しかし、葦原島の途中には夜盗や追いはぎ、それに怪物が出現する危険な荒野も行かなければなりません。敵もこちらの動きを察知し、追っ手を差し向けているようです。
十兵衛は各校に潜ませている草の根を使い、竜胆を葦原城へ送り届けるための協力者を募りました。
『姫君を葦原城へ送り届けるための協力者を求む』と。