――貴方の願いを、叶えたいと思いませんか?
甘い言葉を囁く、黒い男には要注意。
決して頷いてはいけないよ。
彼らは願いを叶えてくれる。
……大きな『代償』と引き替えに、ね。
■■■
イルミンスールの森の、ずっとずっと奥深く、ひっそりと聳える塔がありました。
塔の周囲には数多くの魔物がうろつき、たとえ契約者でも簡単には近づくことが出来ません。
ですから、訪れる者も少なく、名前も無いこの塔の事を知る者も、今ではあまり多くありません。
ファーターという男は、その塔の事を知っている一人でした。
塔の周りに多くの魔物がうろつくには、きっと何か理由があるのだろうと信じ、一人研究を続けています。
しかし、個人の力で調査するには限界があります。
古文書などを紐解く中で辛うじて、塔には何か重大な役割があるらしいという事までは掴めました。
また、昔から塔の周辺には多くの魔物が住み着いていることも解って居ます。
ですがそれが、ファーターの調査の限界でした。
ファーターはそのうちに妻を娶り、一人の息子に恵まれ、塔のことにばかり構っては居られなくなりました。
忙しく日々を過ごすうちに年を取り、妻を病気で亡くしてからは息子と二人、静かに暮らして居ました。
胸の中に、捨てがたい塔への関心を眠らせたまま。
そんなある日、ファーターは出会ってしまったのです。
「貴方の願いを、叶えたいと思いませんか?」
そう囁く、黒ずくめの男に。
「息子が、息子が攫われた!」
それから数日後、血相を変えて助けを求める、ファーターの姿がありました。
ファーターの一人息子、クロノが攫われてしまったのです。
「俺が、必ず見つけ出します」
そう言って立ち上がったのは、クロノの親友であったヴォルフです。
二人は幼い頃からずっと一緒でした。背格好も似ていた二人は、兄弟のようにして育ってきました。このままクロノを見捨てる事など、ヴォルフには出来ません。
しかし、誰が、どこへクロノを連れて行ったのか、手がかりはほとんどありませんでした。
きっとあの男だ、塔へ息子を連れて行ったのだ、とファーターは言いますが、目撃者もなく、証拠はありません。
そして、ヴォルフは非契約者でした。当てずっぽうで塔へ向かうのは、あまりに無謀です。
けれどヴォルフはじっとしてなど居られませんでした。単身、塔の聳える森へと向かおうとします。
「やめておいた方が良い、少年」
と、そこへ不思議な男が現れました。
道化師の様な派手な衣装に身を包み、仮面を被っているので素顔はうかがい知れません。
声もまるで、変声器を通したような、或いはヘリウムガスでも吸ったような、不思議な音です。
「確かに、君の探し人はこの先だ。けれど、君の力は余りに小さい」
「そんなことは解ってる。だが、クロノを放っておけない!」
図星を突かれ、ヴォルフは思わず噛みつきます。けれど道化師はやれやれと大げさな仕草で肩をすくめてみせました。
不気味な笑顔の仮面が、にたにたとヴォルフを見詰めます。
「協力者を見つけることだ。君ひとりでは、彼奴を倒してクロノ君を取り戻すどころか、塔にさえたどり着けない。焦らずとも大丈夫、今すぐにクロノ君の身に危険が及ぶことはない」
「お前は何者だ。何故そんなことを知っている」
「私の名は――ジョーカーとでも呼んでくれたまえ。君の仇敵を知るもの、そして君の味方だ」
ジョーカーと名乗った男は大仰に手を広げて、お辞儀をしてみせます。
「私は彼奴の陰謀を阻止しなければならない。私と君の利害は一致している。協力しようじゃないか」
「……わかった、アドバイスには従ってやる。だが、俺はお前を信用しない」
ヴォルフは苦い顔で頷きます。
ジョーカーの正体が解らない以上、「しばらくはクロノに危険が及ぶことは無い」という言葉もどこまで信じられるか解りません。
ですが、ヴォルフ一人の力ではクロノを助けられない、ということは、紛れもない事実です。
ヴォルフは吐き捨てるように舌打ちをすると、協力者を募るために踵を返し、走り出します。
その後ろ姿が見えなくなった頃。
「シェーデル……私は貴方を絶対に止めてみせる――」
呟きと共に、ジョーカーはふわりと風に溶けるようにして消えていきました――