かつて、ドーナツショップとして知られた廃屋。
淡い橙色の店内に、薄赤い灯りがともっている。
主たる光源はテーブルに置かれた一台のテレビだ。
音を発する源も、ほぼこのテレビのみだった。
画面を見つめる眼は少なくないものの、いずれのレジスタンスメンバーも石のように口を閉ざしている。
テレビの中では、一人の人物がスピーチを行っている。
テレビの中の人物が話す。音が流れる。
テレビの中の人物の言葉が途切れた。音が消える。
静寂を埋めるのは、テレビの発するかすかな唸りだけだ。
テレビの中の人物は正面を向いている。装飾の一切ない灰色の服は、この女が空京市民であることを示している。
女は、着たものと同系列の灰色の壁を背にしており、血の気のない白い顔をしている。その薄紫色の髪がなければ、白黒の映像化と見まがうことだろう。
カスパール・竹取。
彼女の名前だ。
カスパールは穏やかな口調で、笑みさえ交えながら発言を再開した。空京市民の代表として。
彼女はその資格が自分にあると信じているようで、テレビを放映している側……つまり総督府(クランジ政府)もそう考えているようだった。カスパールの肩書は『平和を愛する空京市民の会』代表である。
「空京『二級』市民の会ダロ」
無感動な目で画面を眺めながら、クランジξ(クシー)がつぶやいた。
「……私はこの場を借りて、改めて反乱分子の皆様に訴えます」
反乱分子『の皆様』という表現は喉にひっかかった魚の骨のように収まりの悪い表現だが、カスパールが口にすれば国語辞典の凡例に乗っているお手本のように聞こえる。
「安全と平和のシンボル『エデン』を不法占拠し、これを使って空京を脅迫するというあなたたちのテロ行為を、あらゆる市民が嘆いています」
「……不法? 脅迫? 冗談ジゃナイ!」
クシーは苛立たしげに親指の爪を噛んでいた。
監獄島にして浮遊要塞の『エデン』は、たしかに脅迫の材料になるだろう。これが落ちればいかな城塞都市とて大きな損害は免れ得まい。といっても、それはエデンを隕石のように『落とせる』場合に限られる。
レジスタンスが調査して判明したのは、エデン内部にはエデンの上昇や移動をコントロールする手段が存在しないということだった。あきらかに半物理的な力で浮遊しているこの岩の塊は、どこか外部から操作されているのだ。なんの根拠もない話だが、その力の源は空京にあるという噂がある。考えられない話ではあるまい。
事実がどうにせよ、エデンはレジスタンスに制御できるものではない。少なくとも現時点では。ゆえにレジスタンスはすでにこの浮遊要塞を放棄し、政治犯とともに地上に引き揚げているのだった。脅迫のタネになどできるはずもないではないか。
このとき、まるでクシーの視線を感知したとでもいうかのように、カスパールはまっすぐにテレビ画面の向こうを見つめ微笑した。
「ですが皆様、私たちはあなたがたを許します。
私たちはあなたがたを愛します」
一言一言を区切り、十分に間を取ってカスパールは言う。
「私は、総督府から確約を取り付けました。叛乱分子の皆様がエデンを明け渡し投降するのなら、罪一等を減じるとの確約です。エデンから逃れた政治犯の皆様全員にもこれは適用されます」
画面が切り替わった。
空京の市民生活が映し出された。機晶姫と他の種族の区別なく、日々の生活を送る姿が。とりわけ、子どもたちの遊ぶ姿、机を並べ学ぶ姿はじっくりと流された。いずれの市民も没個性な灰色の服を着てはいるものの、たしかに平和な光景だった。あの戦争が起こるまでは、地球のあちこちで見られた光景に似ていた。
「私は、あなたがたの勇気を信じています。大量殺人の愚を犯さないでください。今なら間に合います」
番組はカスパールの顔の大写しで終了し、あとはこの時代の空さながらの灰色の砂嵐が表示されるだけになった。
黙ってクシーは振り返ると、腕をテーブルに叩きつけた。
テーブルはふたつに両断されていた。いつの間にかクシーの右腕から義手が外れ、鋭い刀身が姿を見せていた。
空中要塞『エデン』の陥落から一週間が経過した。
あの日、エデンが陥落した日。全員とまでは言わないが、それでも多くのレジスタンスメンバーが信じたであろう。エデンに生まれた叛乱の狼煙は炎となり、一気に足元の空京を焼き尽くす……と。
だがそうはならなかった。少なくとも、表面上は。
クランジ政府である総督府はただちにこの事件を、テロリストによる不法占拠であると発表した。しかも、レジスタンスがパラミタの一部土地の割譲を迫り、「断ればエデンを空京に落とす」と総督府を脅迫しているという偽の声明をすみやかに作成し、空京全土に流布したのだった。
声明といっても、レジスタンスリーダーの声を合成し、体型の似た役者に演じさせた安っぽい動画が作成されたに過ぎないが、効果は十分だった。空京の世論はレジスタンスの暴挙を非難し、『空京上空に迫ったテロ』に恐怖したのである。なんといってもメディアという力は、クランジ側にしかないのだ。
実際のところは判らない。
レジスタンスの行動に勇気づけられ、すでに叛乱の芽が空京のほうぼうに生まれているのかもしれず、プロパガンダに騙されたふりをして牙を研いでいる者たちが、じっと機をうかがっているのかもしれない。
しかし城塞の外側からは、わからないことだ。
2024年現在、『空京』は機晶姫を市民、機晶姫とパートナー関係を結んでいる契約者やそのパートナーを二級市民とする城塞都市へと姿を変えていた。
高い塀で囲まれた灰色の都は、ところどころ綻びこそあるとはいえ、それでも隆盛を誇っている。現パラミタには他にも都市が存在するが、空京こそ最大の都市であることに間違いはない。
空京を奪うことができれば、クランジ支配の世界に大きなダメージを与えることができるだろう。
ドーナツショップの中に視点を戻そう。
テレビを消しておもむろに口を開いたのはクランジφ(ファイ)、ことファイス・G・クルーンだった。
「本機の自立思考を述べたい」
「『意見』ダ。そうイウ場合、『意見を述べタイ』っテ言うンだ」
真二つになったテーブルを前にして、深くソファに腰掛けたクシーが言う。
「……意見を述べたい」
ファイスは言った。
「我々が取れる行動は三つではないか。
一つ、地下通路をたどって空京に進入、レジスタンス協力者と連絡を取り内部から反抗作戦を行う。
二つ、やはり空京に進入し、空京内にあるという『エデン』をコントロールする手段を探す。
三つ、空京外部から総攻撃を仕掛け、内部蜂起の陽動となる」
「四つダ」
クシーは、無感動な眼をして言った。
「アイツ……カスパールとかイウ女を始末スル」
次の瞬間、クシーの眼前のテーブルが、もう一度割れた。
その様子に、飛び上がるように反応したのはクランジλ(ラムダ)だった。彼女は怯えたような目をしたまま、クシーから離れるように後じさった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
空京の街。
建築物のすべてが灰色。住民も灰色の服。警備のため歩くクランジ量産型もすべて灰色。くすんだ黒い灰色ではなく白みがかった清潔な灰色とはいえ、おおよそ色彩感覚を欠いた光景であることは間違いない。
高層マンション最上階の窓から、
クランジμ(ミュー)が眼下を眺めている。
彼女は、白い目隠しで両目を完全に覆っている。ゆえに『眺める』『見る』といったことはできないはずなのだが、それでもたしかに『眺め』ているのだ。目隠しの下の赤い瞳で。この清潔な街の暗く汚濁した部分を。
飲酒喫煙の一切が禁じられた空京だが、そういった『悪徳』が根絶やしになったわけではない。機晶姫も人間もクランジでさえも、そういったものを求めずにはおれない。
ゆえに闇酒場が存在する。クランジ戦争以前に醸造されたアルコールを秘蔵し、密かに飲ませる店だ。店内の空気には、濃い紫煙が多分に含まれているという。当局は店の存在を認めてはいないものの、取り締まることなく事実上黙認している。
闇酒場には名前がない。そもそも公式には存在しないことになっているのだから、名前などあるはずがない。
ただしその経営者、右目に眼帯をした初老の男は、
『伯爵』という通称で呼ばれている。
ミューの部屋は、このマンションの中でも最上級の部屋である。
独りで暮らすには広すぎる空間があり、十分に掃除され塵一つない家具が並んでいた。
その灰色の壁を、一匹の蜘蛛が這っていた。
それほど大きくはない。八つの脚をすべて伸ばしても全長五センチといったところだろう。
蜘蛛の背中には目のようなレンズがはめられており、今もそれが、音もなく動いてミューの背に焦点を合わせていた。しかしミューには、それに気づいた様子はなかった。