「海よ!」
「海ね!」
「海だーっ」
ここはパラミタ内海に面する超穴場的海水浴場。乗合馬車を降りて徒歩10分、斜面を歩かなくてはいけませんが、上り切ると軽い下りの草原と、続く白い砂浜、エメラルドグリーンの光をたたえた穏やかな海面が目の前に広がります。
鳥が翼を広げた形の岩場が左右にあり、その岩場をつなぐように海面下では珊瑚礁が帯状に広がっています。ちょっと小さめではありますが、人目を阻むその形がまるでプライベートビーチのようで、訪れる者たちをちょっとしたセレブ気分にしてくれるのです。
砂浜の管理も行き届いており、見るに耐えないゴミも流木もありません。
暑い炎天下を我慢して歩いてきた甲斐があるというもの。
「ヒャッホーッ! 俺一番乗りねーっ!」
目の前の斜面を上り切れば何が待っているのかを知る松原 タケシが、浮き輪を掲げて最後のスパートをかけます。他の仲間たちと先を争いつつ、あともう少しで到達という時に。
「ちょーっと待ったーっ!!」
横から大きなどら声がして、タケシはたたらを踏みつつも足を止めました。
「それ以上進んでは危ないですじゃ」
真っ黒く日焼けした痩躯のおじいさんが、木の杖をつきつつそこに立っていました。どこか悪いのか、プルプル小刻みに震える体、つるっと禿げ上がったトンスラ頭にチョロチョロの白髪が印象的なおじいさんです。
「じいさん、誰?」
立ち止まったタケシの周りに、みんなも集まってきます。おじいさんは全員が揃うのを待って、杖で砂浜の方を指しました。
「ワシはここの管理人を務めておる、シラギという者じゃ。ホレ、見んしゃい。あのまま行きよったらあれに引っかかっちょったわ」
杖の先を追うと、下り斜面と白浜の境に、ロープが張られているのが見えました。確かにあの時のタケシやその後ろに続いた面々の勢いではブレーキをかけても間に合わず、斜面をゴロゴロと転がって引っかかっていたことでしょう。……というか、それを期待してあの位置に張ってるんじゃないか? と勘ぐりたくなる位置ではありましたが。
黄色と黒のシマシマロープは、なんだかデンジャラスゾーンをイメージさせます。
「あれ何? 前来た時はあんなのなかったけど」
「まさかここ、今年は遊泳禁止になったのっ?」
ここまできて、まさかそんなと、どよめきが起きます。それを見て、おじいさんは悲しそうに首を振りました。
「先月、地震が起きたのは知っちょるかね?」
「あ、俺知ってるよ! 内海が震源地だったのにイルミンでも結構揺れたんだよ。でも津波の心配はないって出てたけど」
「津波は起きなかったんじゃが、海の中の岩棚が崩れてのぉ」
「ええっ!! ――でもそれならべつに海水浴に問題はないんじゃ…」
「いかん! いかんのじゃーっ!」
くわっと目を見開いたおじいさんは、痩せた小さな体に似合わない大声で一喝しました。
「崩れた岩が内海とを仕切る網を突き破って、あの忌まわしきパラミタヒョウハンダコがなだれ込んできてしもうたんじゃーッ!」
よほどの事が過去にあったのか、興奮しきったおじいさんは、わなわなと怒りに震えながら力説します。でも生徒には初耳の名称。
「パラミタヒョウハンダコ? 何それ」
「沖に生息するタコじゃ。やつらのせいで、もうあの美しい海には二度と入れんのじゃ」
そう、悔し涙を流して海を見るおじいさんを見、海を見ました。さんさんと輝く太陽に照らされた穏やかな海は本当に綺麗で、どこがどう以前と違っているのか、タケシにはサッパリ分かりません。
「巨大タコなの?」
「いや、大きくても15cmぐらいにしかならん」
「人を襲うの?」
「いや、性格はいたって臆病じゃ」
おじいさんの返答に、みんな「?」と首を傾げます。
ナマコ大量発生とかだったら気持ち悪くて入れませんが、相手は小さなタコです。たくさんいたって無問題です。
「なーんだ、タコぐらいどうってことないじゃん。入ろ、入ろっ」
「あっ、ぼうず!」
タケシは今度はおじいさんの制止も聞かず、ひゃっほひゃっほと浮き輪を腹に斜面を走り下りてロープをひとまたぎ、海へ駆け込んでいきました。
ぐにっ、と何か軟らかい物を踏んだと思った次の瞬間。
「うっぎゃあああああああああああーーーーっ!」
タケシの絶叫が辺り一面に響き渡りました。
「うぎゃっ、うぎゃっ、あぎゃっ」
痛みによろめく度に何かを踏んづけたり触れたりしているようで、まるでブリキの人形のような動きを二度三度した後、タケシはぷっかり浮いて、浜辺に打ち寄せられていました。
その光景に、サーッとみんなの顔から血の気が引きます。
「お……おじいさん、あれって…!」
「だから言うたに…。パラミタヒョウハンダコは最凶のタコなんじゃ」
おじいさんは、はーっとため息をついて説明を始めました。
【パラミタヒョウハンダコ】
・豹斑のような柄をしている
・体長5〜15cm程度
・動きがすばやい
・臆病な性質で物陰にひそみやすい
・カニが好物
・噛まれると毒がある
・珍味
「つまり、それが群居していると?」
コックリ、おじいさんは頷きました。
「普段ならあのタコどもはもっと沖の海におるんじゃが、なぜか戻らんとこの浜にいついてしもうとるんじゃ。不思議に思うて調べてみたら、どうやら網の向こう側に巨大なタコがおって、そいつがこいつらをいじめとるんじゃな。そいつを怖がって戻りゃせんのじゃ」
「じゃあ、そのタコを追い払えば…」
「このままでは海開きをする前に、夏が終わってしまう! ワシとてこのビーチの管理人! この半月あまりなんとかせねばといろいろ手立てを講じてきましたじゃ!
連日舟を駆っては巨タコに闘いを挑み、この鉄拳でもってあやつを成敗しようとおーっ!」
と、おじいさんは拳を握り締めて天を突きます。
「――モンクだったの? あのおじいさん」
「ええ?」
じーっと凝視しましたが、今はどう見てもただのしわくちゃジジィです。モンクだったとしても、かなり昔のことなのでしょう。
そんな目で見られているとも知らず、燃えるおじいさんのほとばしりは止まりません。
「じゃがしかしッ! 巨タコとワシの闘いは一進一退、とうとう今日まで決着はつかなんだ!
しかものぅ、網を修理するためには海に潜らにゃならん。じゃが海にはパラミタヒョウハンダコがおって、どうにもならんのじゃ」
「――どうする?」
「プール行こっか?」
「今からだと時間かかっちゃうよ」
「もう明日にする?」
ざわざわとみんなが話し合う、その前で、おじいさんは海を見据えたまま、静かに涙を流していました。
そんな悲しげなおじいさんの姿にみんなの言葉はだんだん消えて、おじいさんに注目が集まります。
「この浜を愛して、はるばる訪れてくれるあんたらのような人のためにも、ワシがなんとかせねばならんというのに…。ワシがふがいないばっかりに…! ワシが、ワシがぁーっ!」
感極まったおじいさんは杖を投げ捨て、突然海に向かって全力で走り出そうとしました。
「わっ、おじいさん!」
「駄目! 早まっちゃ駄目!」
「老い先短いワシなんぞどうなってもえいんじゃあーっ! 命と引き換えにしてでも巨タコを倒し、網を直して、タコを沖に戻すんじゃーっ!」
さすが元モンク、海の男。体と歳に見合わずものすごい力で彼らを振りきって行こうとします。
「わーっ、分かった、分かったよ、おじいさんっ。僕らがお手伝いするからっ。ねぇっみんな?」
「……その前に、俺を助けてくんないかな…」
上で起きている騒ぎをぼんやり聞きながら、タケシは誰にともなく呟きました。