いかないで
置いていかないで
一人にしないで
どうかどうか……逝かないで
枕元で声無く泣く夫に、妻は優しく切なく微笑みました。
己が命数は既に尽き、後は残された刻の終わりを待つばかり。
けれど嗚呼、残された僅かな時間では到底、愛する人の嘆きを止める事は叶わないのです。
だから代わりに、言葉を紡ぎました。
『あなたにね、とっておきのイヤガラセを残したの。だから、ね……』
その言葉と共に。
ハラリ、桜色の花弁が儚く散り。
そして、慟哭が響き渡ったのでした。
「……フィールドワーク」
重苦しい声と表情の市倉 奈夏を、パートナーである機晶姫エンジュはどこか不思議そうに眺めました。
蒼空学園の学生である奈夏は、この春無事に進級しました。
とはいえ、学科はともかく、実技に非常に難のある奈夏です。
フィールドワーク等、依頼を積極的に受けるように、との指導が出たのはある意味、当然なのかもしれません。
「出来るだけ簡単なの、魔法とか使わなくて良くて、戦いとかないやつ」
ぶつぶつ言いつつ、依頼を吟味していた奈夏の目がその一つにピタリ、と止まりました。
『少々荒れているだろう庭を整え、楽しくお花見して下さい』
「ツァンダの外れ……えぇと、奈夏さんも行った事がありますね……孤児院の近くに、お屋敷があるのです」
頼まれたのです、と依頼を出した園芸部の春川雛子は言いました。
「広いお庭の一角にキレイに桜の咲く場所があって、毎年この時期は開放されていて……知る人ぞ知る穴場って感じでした」
去年もたくさんの学生が足を運んだのですよ、思い出し浮かんだ微笑みはけれど、直ぐに曇りました。
「お年を召したご夫婦が住んでらして。お二人とも花を育てるのが好きで……でも」
一年ほど前、桜の終わりにカタリナ奥様が亡くなったのです、と雛子は言いました。
「それからヴィクターさん……旦那様は気落ちされて。大好きだった庭いじりも止め、それどころかお屋敷に閉じこもってしまっているようなんです」
心配して足を運んだ雛子達の前、門は固く閉ざされていたと言います。
『この依頼ね、あの人が元気だったら破棄して欲しいの、でももしもあの人が元気をなくしていたならば……』
「多分カタリナ奥様は予想していたのだと思います」
依頼を託した老婦人は、死の影を感じさせない穏やかな笑顔だったけれど。
「どうか庭を蘇らせて、楽しくお花見をして……カタリナ奥様の願いを叶えてあげて下さい」
祈る様に告げる雛子に、奈夏は頷きました。
そう、確かに頷いたのでした……が。
「……少々?」
その屋敷を訪れた奈夏は茫然と立ち尽しました。
門の中、鬱蒼と縦横無尽に生い茂ったのだろう、植物のなれの果て。
屋敷も庭も、見た目だけではまるで幽霊屋敷です。
「……燃やしますか?」
「いやっ、ダメ! それはダメだからっ!」
チャキ、と構えるエンジュを何とか止めながら、不安やら心配やらが込み上げてくるのを抑える事は出来ませんでした。
「これ、本当にこの奥で桜なんて咲いているのかしら?」
それでも奈夏達の前で、キィと鈍い音を立て、門は開いたのでした。
「……なんじゃ、本当に来たのか」
門の外から聞こえる騒がしさに、老人……ヴィクターは溜め息をつきました。
蒼空学園から連絡は受けていました、亡き妻の依頼だと言われれば無下には出来ませんでしたが。
「まぁ、やりたいなら勝手にやればいい」
言い捨てた虚ろな瞳に、ふと傍らの写真立てが映りました。
「お前が最後に何を考えていたのか、終ぞ分からんかったな」
少しだけ苦く呟き、ヴィクターは写真立てを伏せたのでした。
『あなたにね、とっておきのイヤガラセを残したの。だから、ね……』
どうかどうかまた『 』ね。