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リアクション
ペトラ・レーン(ぺとら・れーん)は上機嫌でホタル舞い飛ぶ土手の道をスキップを踏みながら歩いていた。
「うわぁー、ホタルがこんなにいっぱいー。
ねーねーポチさん、すごいと思わないっ?」
「ペトラちゃん、そんなことをしていると、ホタルが絡まってしまうのですよ」
手に持ったピンク色のわたあめをぶんぶん振っているペトラを見て、忍野 ポチの助(おしの・ぽちのすけ)が答える。
ポチの助はホタルの群れごときで、あんなふうにはしゃいだりはしない。
目の前をふらふら動く生き物を追って、ついつい目は泳ぐし、さっきからシッポはそわついてるけど。
「だーいじょーぶー」
にゃはっと笑って、わたあめをぱくつくペトラがかわいくて、なんだかそわそわしてきて。ポチの助も気づかないうちにシッポの揺れが別の意味で早まった。
「ポチ、落ち着きなさい」
エメリアーヌ・エメラルダ(えめりあーぬ・えめらるだ)がそれを見て、ぴしっと言う。
「あ……」
エメリアーヌが一緒なのは、子ども2人で夜祭りに行くのは夜道が危ないというアルクラント・ジェニアス(あるくらんと・じぇにあす)の采配によるものである。ただいま家出中のポチの助の『ご主人さま』フレンディス・ティラ(ふれんでぃす・てぃら)や、その一因となったベルク・ウェルナート(べるく・うぇるなーと)がその役をするわけにもいかず、エメリアーヌに白羽の矢が立ったというわけだった。
ペトラは分かっていないようだが、彼女が2人のお目付け役だと気づいているポチの助は、素直に「すみません」と謝る。
鷹揚にうなずいて見せながらも、内心ではこの2人に限って間違いがあるとはカケラも思っていないエメリアーヌである。それはアルクラントたちもそうだろう。これはあくまで、子ども2人がこんな夜遅くに、という疑念を周囲に抱かせて保護を受けないための配慮だった。
(まー、もちろん新婚夫婦が2人っきりの時間がほしいっていうのもあるんだろうけどね)
今ごろ家で2人きりのジェニアス夫妻のことを思って、エメリアーヌはほうっと息を吐く。
(……まあ、ゆっくり帰るとしましょっか)
「ペトラ、下をご覧なさい」
「下ー?」
「ほら、あそこ。ホタルがいっぱいとまってるわよ」
「あーほんとだー!」
ペトラはエメリアーヌが指差した河川敷の草むらへ向かって突撃していく。ペトラに驚いて、草にとまっていたホタルが一斉に飛び立って、ペトラの周りを舞った。
「うわーうわーっ。きれーーー。
エメリー、ポチさんもおいでよー!」
早く早くー。
「待ってください、ペトラちゃん」
ペトラのあとを追って斜面を下りようとしたポチの助は、一歩踏み出したところでエメリアーヌが立ったまま動かないことに気づいて振り返った。
「あの」
「私は行かないわよ。そんな虫だらけのとこ」
夏の川べりの草むらって、絶対虫や蚊に食われたりするに決まってるじゃない。
「そ、そうですね」
「あんたたちだけ気がすむまで遊んでくればいいわ。好きなんでしょ?」
「す、すすすすす、好きってっ」
「犬はああいう川辺りとかが」
ボッと赤くなったポチの助を、エメリアーヌは「今何を考えたんだ」と言いたげに、じっと見つめる。そして「あ、はい」と答えるポチの助に、ふうとため息をついた。
「さて、忍野ポチの助。
私から教えられることはここまででおしまい。あとは、あんた自身の力で……成し遂げなさい」
「僕自身の力、ですか?」
見上げてくるポチの助の鼻先を、ぴんと人差し指ではじく。
「純なのもいいけど、あんまり女を待たせるんじゃないわよ。
離れて待たせることが自分のためでなく、2人のためだというんなら、それをあんた自身の口で伝えるのよ。それが男の甲斐性ってもんよ。あんたの描いた2人の未来に、本当に待つだけの価値があるなら、ペトラは絶対に駄々をこねたりなんかしないからね。
ペトラのことは私に任せときなさい。あんたは、あんたの為すべきことを。真っ直ぐにね。頑張んなさいな」
そう言うと、立ち止まっているポチの助をその場に残し、エメリアーヌは歩き出した。
「さて、私は……ホタルに目を奪われて、少し『先』に行ってますかね。
あ、言っておくけどポチ、良い子の領分はきちんと守りなさいよ? これはお目つけ役からの信頼なんだからね」
しっかり釘を刺すことは忘れない。
そしてエメリアーヌは言葉どおり、ホタルに目をやりながら土手の出口へ向かって歩いて行く。その姿を真っ赤になったポチの助が見送っていると、いつまでも下りてこようとしない2人に気づいたペトラが駆け戻ってきた。
「あれー? エメリーは?」
「さ、先に行ってるそうです」
「ふーん。もしかしてエメリー、ホタルには興味なかったのかな。ちょっと遊びすぎちゃったかも――って、あれ? どーしたの、ポチさん。顔、真っ赤だよ」
「なんでも……ありません……。
あの、ペトラちゃん。大事なお話があります」
脇からひょこっと覗き込んでくるペトラに、ポチの助は思い切って切り出した。
その覚悟を決めた真剣な雰囲気はペトラにも伝わる。
「どうしたの、急にあらたまっちゃって……」
少しでも軽くしようと、笑顔を浮かべようとして、でもそんな感じでもなさそうで。笑みになる前に、あやふやなまま消えていった。
「今日はペトラちゃんと一緒に夜祭りに来られて良かったのです……。
それと、その……僕は、明日受験ですが、同時にペトラちゃんの家を出ます」
いろいろと言葉を飾ってもしようがない。すっと息を吸い込んで、ひと息で告げる。
突然の告白に「え?」と驚くペトラに、あわててポチの助は言葉を継いだ。
「修行途中なのでご主人さまの所にも帰れませんし、どこか住める場所を捜して一匹暮らしするのです!
でも心配しないでください。今まで葦原から遊びに来ていたように、ペトラちゃんのお誘いがあれば、僕はいつでも会いに来ますよ。初めて遊園地で出会ったあのころと、全然変わっていないのです」
そこまで口にしたあと、ポチの助は少し考え込む様子を見せた。
そして首を振る。
「ちょっと違いますね……。僕の心が変わりました。
ペトラちゃんと出会わなければ、僕は今もご主人さまの元でただの超優秀なハイテク忍犬のまま……こうやって率先して獣人化することはもちろん、ご主人さまの元を離れて機晶技師を目指すこともなかったでしょう」
星空を見上げていたポチの助の目が手元へ落ちた。
豆柴のときとはまったく違う、やわらかくて長い指。短い爪。覆う毛もない。
人間の手。
ご主人さまの手は大好きだけれど、自分がその手になりたいと思うことはなかった。
「ポチさん?」
名を呼ばれて、ポチの助はあらためてペトラの方を向く。
そして、そっとその手をとって、大切そうに両手で包んだ。
「超一流の機晶技師になった暁には、きっと専属技師としてレーン家に帰って来ます。
とはいえ、長く待たせたら愛想尽かされて当然なので無理は言えませんが。絶対に約束は果たします。
だから、嫌じゃなければ待っててくれると嬉しいのです」
ふとそこでポチの助の顔が少し茶目っけのあるものへと変わる。
「そのときは……模擬でも本番でもやってあげてもいいのですよ?
何を、とは言いませんが」
じっと見つめられて、ペトラは2人で参加した夏祭りで見かけた模擬結婚式のときのことを思い出した。
(あのとき、あこがれの目で見ていたことをポチさんには知られていたんだっけ)
なんだかちょっと恥ずかしくなって、ペトラはうつむく。そしてそこでポチの助に包まれた自分の手を見た。
上下ではさんだ手は、ペトラがその気になればいつでもはずせる状態にある。
それがポチの助のやさしさなのだ。あたたかな愛情で包みながらも、ペトラの邪魔はしない、ペトラには自由にいてほしい、という思いが感じられて……。
それを見つめているうちに、ペトラのなかで今聞いたばかりのポチの助の告白に動揺している気持ちが、少しずつ治まってきた。
「……うん、分かった」
ペトラはうなずき、面を上げる。
「それって、ポチさんが自分で考えて、そうするべきだと思ったから……そう、するんだよね。
大丈夫。邪魔したりなんかしないよ。さっきも言ったでしょ。ポチさんに夢を叶えてほしいって。
そして、夢が叶ったら。教えてくれるんでしょ? あのときの、話の続き」
「えっ? ……あ」
ペトラがポチの助の手のなかで手のひらを返した。はずそうとしたのではなく、ポチの助の手を握って、そのまま下ろして手をつなぐ。
「ふふっ。
僕さ、ポチさんが一緒に暮らすって話になって……ポチさんに毎日「おはよー」って言って。「おやすみ」って言って。毎日がとっても楽しかったし、嬉しかったんだよ。
マスターや、シルフィアや、エメリーともずっとずっと一緒だったけど。それとはまた違った感じでさ」
(僕ね、多分この気持ちのこと、知ってるんだ。
でも、それはまだ教えてあげないよ。
ポチさんと同じ。
僕も秘密を1つ持とう。
夢が叶ったら……そのときは、僕からも教えてあげる。
本当は、今すぐにも言葉にしたいんだけど……)
ぶんぶんぶん。
自分のした考えに、急に気恥ずかしくなって、照れ隠しのようにつないだ手を振った。
へへっと笑う。
「僕、またあんな感じになりたいな。
だから、ちゃんといつまでも待ってるよ。ポチさんのこと」
「ペトラちゃん」
「でも、約束だよ。僕、何年でも待つけど、絶対に……絶対に夢を叶えてよ?
そこだけは絶対。約束破ったら許さないから」
ポチの助は胸がいっぱいいっぱいになって。それ以上、何も言えなくなっているようだった。
こくっとうなずいて、約束、と指切りをする。
そして2人、無言で道を歩いて……「あ」とペトラが何か思い出したように声を上げた。
「どうしたんです?」
「ねえポチさん。明日のことって、まだ始まりなんだよね。
その先も、ずっとうまくいくように。
おまじない、してもいい? このおまじないは、絶対効くからさ」
「おまじないですか? 僕はそんな非科学的なことは信じていませんが……ペトラちゃんがしたいなら、してもいいのですよ」
「んー、ポチさん、犬モードになってよ。
ほら、早く! そうじゃないとできないから!」
「は、はい」
せきたてられて、ぽむっと獣人型からいつもの豆柴犬になったポチの助を、ペトラは後ろから抱っこした。
「へへっ。もっふもふだね」
腕のなかのポチの助を後ろからぎゅっと抱きしめたあと、くるっと回転させて前を向かせる。
そして鼻の頭にちゅっとキスをした。
「ペ、ペペペペペペペペ、ペトラちゃんっ!?」
頭からシュポーーーッと湯気が出る勢いで――毛皮のせいであんまり目立たないけど――全身真っ赤になって、目を白黒させているポチの助に、ペトラは大真面目な顔と声で言う。
「じゃあね、忍野ポチの助。
僕、ずっと待ってるから。ずっと信じて待ってるから。だから、今は……こっち見ないで、先に進んでよ」
今だけは目をつぶって、特別に許してあげるから。
ポチさんの描いてくれた、未来の2人のために。
「ペトラちゃん……」
地面に下ろされたポチの助は、振り返ろうとする。
「振り返るな!」
「はいっ!」
「いいから、行っちゃって、ポチさん!」声に涙がにじんでいた。「僕、追いかけないから! 呼び止めたりしないから! だから、ポチさんは、まっすぐ行っちゃって!」
「はい!」
ポチの助は背中を押されたような気がして走り出した。
(待っててください、ペトラちゃん。
合格したことを、真っ先にお伝えするのです!)
今この瞬間、ペトラという存在が大切なご主人さまよりも上回っていることを、ポチの助は気づいているのかいないのか。
固く、固く、そう心に誓って。
ポチの助はまっすぐ前に走り続けたのだった。
「行ってらっしゃい、ポチさん」
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