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幼児と僕と九ツ頭

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幼児と僕と九ツ頭
幼児と僕と九ツ頭 幼児と僕と九ツ頭

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第6章 遊んで、あやして、ひとっ風呂

 保育士として活躍した契約者たちのおかげか、合宿所内の騒動はどうやら鎮静化されたらしく、しばらくの間は非常に穏やかな時間が流れていた。だが体力が有り余っている幼児化契約者は遊び足りないのか、疲れて眠りにつく様子は無く――いわゆる一般的な「子供」であれば、遊び疲れて昼寝に入るのが普通なのだが、ここにいるのはただの子供ではなく、あくまでも身体能力を引き継いだまま体が縮んだ契約者なのだ――いまだに一部の契約者が軽く暴れていた。
 もちろん軽度の騒動であれば、いい加減子供の世話に慣れてきたハイナによって鎮圧されるのだが、中にはそういうわけにはいかない手合いが存在したりするのだ。
 その代表例と言っていいのかもしれないのがリューグナー・ファタリテート(りゅーぐなー・ふぁたりてーと)――通称リュウベエである。ファンシーな犬の着ぐるみを常に着ている、まるでゆる族といった彼は、その中身こそ見られていないが完全な地球人である。通常9歳である彼もまたこっそりと――少なくとも表面的に変化が現れた様子は無かった――幼児化した1人だった。
(う〜ん、ボク自身もどうやら体が縮んだようだね。でも思考はそのまま。ならば、ボクはいつも通りに行動するだけだね。……着ぐるみがぶかぶかなのは、この際気にしないでおこう……)
 彼の言う「いつも通り」とは、すなわち「契約」である。一体そこにどのような意図が存在するのかは公にはされていないが、彼には「パラミタに住むあらゆる少女と『契約』を結びたがる」という悪癖があった。ちなみにカナ・ネルケ(かな・ねるけ)は、そんなリューグナーとパートナー契約を交わした守護天使である。
 そして今回、彼のターゲットになったのは、どういうわけか師王 アスカ(しおう・あすか)という少女だった。どうやら前から目をつけていたらしいのだが、結論から言えば彼女とパートナー契約を結ぶことはできない――リューグナーはゆる族に見えるがれっきとした地球人であり、アスカも地球人である。
 だが、だからといってリューグナーが契約を諦めるわけではない。彼の言う「契約」とは、地球人・パラミタ人間におけるものだけではなく、目の前の少女を「魔法少女」にするというものも含まれているのだ。要するにリューグナーは、瘴気を浴びて幼児化してしまい、まともな判断能力を喪失したと思われるアスカを魔法少女にしてしまおうと目論んでいるのだ――契約を結ぶことによって魔法少女になるというのは「可能であり不可能」である。クラスとしての魔法少女は「魔法の携帯電話」があればいつでもなれるし、称号・立場としての魔法少女はとある人物に頼めばいつでもなれるのだ。
(幼児退行してる人の中には、思考まで退化して安直な判断しか下せない子もいる。あまり幼すぎて話にならない場合を除けば、誘えば二つ返事で魔法少女にできる可能性が高い。さし当たっては、前から目をつけていた師王アスカ……彼女からアプローチを掛けてみようか。彼女も見た限り、思考も退行したタイプのようだし)
 この考えを元に、リューグナーは「リュウベエ」としてアスカに近づいた。
 アスカの方もリューグナーの存在に気がついたのか、やってくる犬の着ぐるみの方を向いた。
「やあ、ボクはリュウベエ! 魔法の国から来たんだ。素敵な女の子を見つけて、魔法少女にしてあげるのがボクの役目なんだ」
「?」
「そう……師王アスカ、キミみたいな素敵な女の子を捜していたんだよ」
 3〜4歳程度に小さくなったアスカに、リュウベエはさらに勧誘を進めてくる。
 幼児化したアスカを心配して近くで待機していたアスカのパートナー2人――ルーツ・アトマイス(るーつ・あとまいす)蒼灯 鴉(そうひ・からす)は、その勧誘を止めようとはせず、むしろ傍観していた。いや、傍観と言うよりは、あえて何も言わずに心配していたとするのが正しいかもしれない。
(着ぐるみの子供……、どこかで見たようなシーンだな)
(あ〜あ、この着ぐるみもどき、一番手を出しちゃいけない奴に……)
(でも今のアスカは幼児化してるから、そうそう酷いことにはならないのではないか?)
(頭の中が子供になってるならそうだろうがな。ただ……)
 ため息をつきながらルーツと小声で話し合う鴉は、先ほどからリュウベエと話すアスカの態度に疑問を抱いていた。アスカは確かに子供特有の満面の笑みを浮かべてはいるが、その頭の中身が本当に幼児化しているのかどうかがわからないのだ。普段からして儚げな外見とは裏腹に、その中身は非常に気まぐれな彼女である。精神は元のままで、幼児化した「フリ」をしているだけという可能性がある。アスカならそれくらいやりかねない、と鴉は予想していた。
 そしてその予想は完全に的中した。リューグナーから離れて子供の相手をしていたカナが戻ってきたのである。
「ダメよリュウベエ。アスカちゃんも困ってるでしょう? 強引な誘いをする男の子は嫌われてしまいますわよ?」
「ちょっと邪魔しないでよ。せっかく契約してもらおうと思ってるのにさ」
 着ぐるみの中から口を尖らせてリュウベエは反抗する。
「……ほんとうになんでもねがいごとをかなえてくれるの?」
 その言葉がアスカの口から発せられた瞬間、リュウベエの目が輝いた。
「もちろんだよ! キミの願いがエントロピーを凌駕すれば、その瞬間からキミは魔法少女さ!」
 だが輝いたリュウベエの目が曇るのに、そう時間はかからなかった。アスカの願いがあまりにもとんでもないものだったからである――もっとも、どのような願いを言われたところで、リュウベエにそれを叶えるだけの力があるわけではなかったが。
「そうねえ〜、わたしのねがいは〜……、げいじゅつのかみさまになりた〜い!」
「……へ?」
 着ぐるみの中で目を丸くするリュウベエに構わず、アスカは続けた。
「だってかみになったらもっとすてきになれるよ〜? まほうしょうじょになったらかなえてくれるんでしょ〜?」
「え、えっと、いや、その……」
「ほら〜やってよ〜? できるんでしょ? できないの? ねえ、ねえ?」
「そ、その願いは……、そんな事をしたら、さすがにボクが死んでしまう! 子供の発想力は飛躍しすぎて、わけがわからないよ!」
「なにいってるのよ〜、けいやくしたらかなえてくれるんでしょ〜? してくれないの〜?」
「その願いはさすがに無理だ! キミはこの世の理まで捻じ曲げるつもりなのかい!?」
 アスカの願いを叶えることは不可能だと必死で説明するリュウベエだったが、所詮彼は地球人の「リューグナー」にすぎず、「神になる」などというリクエストに応えるなど、パラミタの原理が全てひっくり返らない限りできるわけがないのだ。
 この押し問答を眺めていたパートナーたちは、こっそりとその場から避難を開始した。
「あ……あの、アスカちゃん……? えー……っと……リュウベエ、頑張ってね? 元に戻るまでの辛抱だからね? きっとこの子に悪気は……無いから……多分」
「いや、アスカ……何を言ってるんだ? な、何故だっ、子供の言う事なのに言い様のない悪意が伝わってくる!?」
「あ〜あ〜、やっぱりこうなったか……。まあそこの着ぐるみもどき……、死なないように祈っててやるよ。一応」
「ちょっと、止めてくれないの!? この子を止めてくれないなんてこんなの絶対おかしいよ!」
 逃げるパートナーたちに必死で助けを求めるリューグナーだったが、どうやら精神は元のままだったらしいアスカを前にして、しっかりと止めてくれる者は皆無だった。今のリューグナーはきっと、時間操作能力者からデザートイーグルの弾丸をブチ込まれる心境にあったことだろう。
 そしてその心境は少々違う形で再現された。
「嘘つきは泥棒の始まりだよ〜? 嘘つきリュウべぇには……おままごとの刑〜☆ 今からアスカのペットの役だからねぇ? ほら〜走れ〜リュウベぇ♪ サイドワインダー!」
「ぎにゃあああああああ!?」
 本性を現したアスカは持っていたパレットナイフとヴァジュラを同時に投擲してサイドワインダーを放つ。本来は弓矢などの「射出武器」、その「矢」にあたるものを同時発射し、左右から敵を攻撃するスキルだが、アスカはこれを「近接武器の投擲」という形で発動してしまったのだ。
 はっきり言ってこれは「反則」であるが、いずれにせよ同時に飛んでくる2本の剣を避けなければならないことには変わりが無く、リューグナーはその場で地獄の回避ゲームを遊ぶ破目になった。
「願いを叶えてくれるなんて嘘をつくなんて、そんなの私が許さない〜♪」
「こんな痛みとなんか向き合いたくないよー!」
 飛んでくる2本の刃をすんでのところで回避するリューグナーだったが、その猛攻は止まらず、次第に彼の着ぐるみと肉体はボロ雑巾のようにされていった。
 だがアスカの攻撃対象はリューグナーに留まらなかった。一体何を思ったのか、彼女は離れようとしていたルーツたちにもその刃を向けたのである。
「あ、そこのおにいちゃんとおねえちゃん、あすかといっしょにあそんでくれたら、それはとってもうれしいなって♪」
「なっ!?」
 リューグナーに投げつけた武器を回収し、今度はカナをターゲットに攻撃を仕掛ける。
「もう、幼児化なんて怖くない♪」
「わたくしって、ほんとばかあああああっ!?」
「どわー、カナさん逃げて! って、こらやめるんだアスカ! リューグナー君が困っているだろう!?」
 間に割って入り制止しようとするルーツだったが、もちろんアスカがそれを聞くわけがない。
「だって、1人ぼっちで遊ぶのは寂しいもんね☆」
「だ、だからってこっちを巻き込むのはああああっ!?」
 アスカを黙らせるべくヒプノシスを試みるルーツだったが、アスカの攻撃が到達する方が早く完全に失敗に終わった。
 その騒動の最中、ほうほうの体で逃げ出すことに成功したリューグナーは、ぼろぼろになった着ぐるみを引きずりながら、その場から離脱していた。
「ま、まさかこんな結果になるなんて思わなか……ん?」
 逃げようとする最中、彼の視界に1人の少女の姿が映った。その場に座り込んで、大人しく合宿所の外の光景を眺めているのは、身も心も幼児化した藤原 優梨子(ふじわら・ゆりこ)だった。どういう思考回路なのか、やたらと他人の首を狩ろうとする変態は、どうやら子供状態になると「手のかからないお嬢様」になってしまうらしい。
 勧誘の血が騒いだのか、その優梨子にリューグナーは「リュウベエ」として近づく。
「やあボクはリュウベエ! ボクと契約して、魔法少女になっ――でぼおっ!?」
「?」
 お決まりの勧誘の言葉を口にした瞬間、どこからともなく飛んできたヴァジュラ――当然ながら、アスカの所有物である――に脳天を直撃され、リュウベエは優梨子とまともな会話をする間も無く、その意識を手放した。ちなみに、何事か言われた優梨子は言葉の意味を理解せず、再び窓の外の風景を観察する作業に戻った……。
 この間、大暴れしていたアスカは鴉とルーツの手によって取り押さえられていた。鴉が暴れるアスカの背後に回り、その首根っこを掴んで大人しくさせた瞬間に、ルーツのヒプノシスが炸裂したのである。
「ま、まったく、てこずらせやがって……!」
「まさか、ここまで大事になるとは……。アスカには罪悪感というものが無いのだろうか」
 ルーツの言った通り、アスカには罪悪感は存在していなかった。そもそもアスカ自身、自分の思考が元のままだと知った瞬間、子供のフリをして楽しめと天のお告げがあったと認識したくらいで、仮に暴れて物が壊れても「子供だったから」という理由で責任を回避できると思い込んだのである。
 暴走したパートナーがヒプノシスで眠りについたのを確認した鴉とルーツは、そのまま眠るパートナーを回収し、その場を離れた。ただし倒れ伏すリューグナーに、
「そこの着ぐるみ、起きてるかどうかはわからないが一応忠告だ。次はもう少し大人しい女を狙え。マジに死ぬぞ……?」
 と言い捨てていくことは忘れなかったが……。
 ちなみにリューグナーは、その後カナによって回収されたらしく、近くにいた優梨子は無感動にその光景を眺めやったという……。

 暴れていたのはアスカだけではない。合宿所内、別の場所では別の契約者がはしゃぎまわっていた。
 下手人の名はセレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)、4歳。ただし彼女の場合は、体だけではなく心も幼児化していたが。
「とりゃー! せれんさまのおとおりだー!」
 セレンフィリティによってもたらされた被害はいくつかある。
 まず第1に、他の幼児化契約者が持っているであろうおもちゃや道具を勝手に持ち出し、なおかつそれを離さないことである。それに付随して、おもちゃの元の持ち主であるその契約者を相手にケンカを始める始末――相手も契約者のため、身体能力で言えばセレンフィリティと同等だったのだが、勢いでは彼女の方が勝っていた。
 第2に、合宿所に備え付けられた物品に手を出し、器物損壊未遂となったことである。ことに「ハイナ・ウィルソンの似顔絵」に手を出そうとしたため、それを阻止しようとした契約者とまたケンカになったという。もちろん、似顔絵は傷1つ無く、無事に守られた。
 第3に、それとは別に適当な契約者にケンカを吹っかけ、泣かせたことである。完全に手がつけられないため、こればかりは保育士を担当する契約者が割って入り、セレンフィリティはその場で大人しくなった。
「こら、お部屋の中で暴れちゃ駄目でしょう?」
「……ごめんなさい」
 さすがに「大人」に怒られたとあっては大人しくせざるを得なくなる彼女だったが、数分もすればすぐにブレーキが外れてしまい、再び大暴れする、はずだった。
「それで、この状況はどういうことなのかしらね……?」
「ママー」
 暴走寸前だったセレンフィリティを完全に抑えこむことに成功した人物が現れたのだ。その人物の名はセレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)といい、セレンフィリティのパートナーである。
 抑えこんだといっても、実際のところ、セレアナは何も手出しをしていなかった。セレンフィリティの方が彼女を見て、どういうわけか母と勝手に慕ってきたのだ。
 突然やってきた4歳児を相手に、セレアナは少々の困惑を見せた。確かに自分は彼女のパートナーである。この合宿所にやってきて、普段は恋人のセレンフィリティが幼児化してしまったために、彼女をここに預けて、瘴気の影響が出ていない自分は秘境探索に乗り出そうと思っていた。
(でも、何となく心配だから合宿所に残って他の契約者の相手をしていたわけだけど、まさかセレンが私を母親と思い込むなんてね……)
 セレンフィリティとセレアナの2人の関係は、言ってみれば「恋人」だったりする。共にシャンバラ国軍に所属する契約者であり、軍服はあまり着用せず、普段はビキニだのレオタードだのを着込むビューティな2人は、割とどこでも――もちろん場所と状況は選んでいるが――いちゃついている、そんな関係だった。
 だが今日ばかりは違う。頭まで幼児化したセレンフィリティがしきりにセレアナに懐いてくるため、懐かれる方は複雑な心境だった。
「ママー、だっこー」
「はいはい。えっと、こうかしら……」
 小さくなった恋人にせがまれ、セレアナはその体を抱き上げる。抱き上げられた方は、それはそれは満面の笑みを浮かべて喜んだ。
「ママー、つぎはあっちー」
「あっちに行くの? じゃ、行きましょうか」
 そのまま違う部屋へと足を進める。その間にも、セレンフィリティは、やれ遊べと騒ぎ、やれあれが欲しいと「おねだり」を繰り返し、その都度セレアナを苦笑させていた。
(……なんだか、普段とあまり変わりないからどうもセレンが幼児化してもあまり違和感無いのよね)
 そもそも普段からしてセレンフィリティがセレアナに甘えてくることが多いのである。それが子供と母親という構図になったところで、やることそれ自体が変わるわけではないのだ。
 それに、とセレアナは思う。もし仮に、自分たち2人の間に子供ができたとしたら、その子供はこのようにセレンフィリティに似ておてんばになるのだろうか。それともセレアナに似て大人しい子になるのだろうか。
(そういうのは、同じ女同士だからまずありえないけど、ね……)
 思わず苦笑をこぼし、セレアナは小さな恋人の相手をし続けた。

 あるいはまったく別のトラブルに巻き込まれた契約者も存在する。ネージュ・フロゥ(ねーじゅ・ふろう)がそのいい例だった。
 ネージュが巻き込まれたのは、例えばドクター・ハデス含む契約者による迷惑行為ではなく、例えば保育士担当の契約者のような何かしらの世話におけるトラブルでもない。
 気がつけば幼児化してしまっていた彼女は、自らの肉体そのものによってトラブルに見舞われていた。いつぞや正月の時に幼児化した、あのトラブルが再発したのである。
(ち、小さくなっちゃったと思ったら、また『あれ』が……っ!?)
 細かく体を震わせ、ネージュは小さな体を必死でとある場所へと運んでいく。向かう先はトイレ――要するに彼女は幼児化した影響により、頻尿体質を再発させてしまったのである。
 体が縮んだことで、とりあえず適当に合宿所内を探検しようとしたネージュだったが、ろくに探検もできないままにトイレの世話になるという事態に巻き込まれた。こうなってしまってはさすがに歩き回るわけにはいかない。ひとまずトイレを見つけ便座に座ってしまえばしばらくは無事に済むと考えたネージュは、何よりも先にトイレを求めた。
 幸いにしてトイレそのものはすぐに見つかったが、今日の彼女はまさに不運だった。
「なっ……、なにこれ!? どうやって使うの!? 座るとこ無いよ!?」
 彼女が発見したのは「和式トイレ」だったのである。
 葦原島に居を構えるこの合宿所は、言ってみればごく一部を除いて全体が「葦原テイスト」に包まれており、それはトイレも例外ではなかった。葦原明倫館はその雰囲気からして純日本風の学校と思われがちだが、学校を束ねる総奉行がアメリカ人であることを含め、通う学生の国籍は様々だった。そんな学校事情を考えて、合宿所のトイレは和式・洋式の両方を用意してしかるべきなのだが、残念ながらこの合宿所は「完全な葦原の雰囲気に浸ってもらう」という目的で建てられており、洋式トイレを求める客には問答無用で和式トイレに放り込むという――少なくとも幼少時代をフランスで過ごし、洋式トイレに慣れきったネージュにとっては、まさに鬼畜の所業と呼ぶべき対応だった。汲み取り式ではなく水洗式であったのがせめてもの救いかもしれないが……。
 ちなみに彼女は10歳の頃に日本に移住したものの、和式トイレを見るのはこれが初めてなのである。
(ど、どうしよう……。まさか立ったままするっていう形じゃないし、でも座る部分は無いし……。誰かに聞く? いや、それはさすがに恥ずかしいし……。ああ、でもこのままだと……!)
 お嬢様気質であるためか、誰かにトイレの使用方法を聞くというのはプライドが許さない。だが生理的欲求にいつまでも耐え続けることは到底不可能であり、このままでは「聞かぬことによる一生の恥」を曝しかねない。
 だがそんな彼女に救いの手は差し伸べられた。
「あれ、そこの君、どうしたの?」
 トイレの前でまごつくネージュにかけられた声は朱野 芹香(あけの・せりか)のものだった。
 突然現れた「大人」にネージュは少々慌てる。
「え、あ、えっと、その……」
 しどろもどろになりうまく状況を説明できないでいたが、しきりに体を震わせるネージュの姿と、現在地がトイレの近くであるということに芹香は気づき、ネージュが何かしらの助けを求めているらしいことを察知した。
「あ、もしかして、トイレ? 行けないの?」
 芹香がトイレの中を覗き込むが、その中には誰もおらず、ネージュがどのような助けを求めているのかがわからない。だがトイレが和式であることと、ネージュが外国人であるらしいことを知った芹香は、ここにきてようやく事の次第を悟った。
「……とりあえず、入ろっか」
 下半身のダムが決壊するのをひたすら耐えていて言葉が出てこないネージュを促し、2人はトイレに入り込み、そのまま用を足した。和式トイレの使用方法を日本人である芹香が知っていたのが幸いといえた。
「た、助かったー……」
「どういたしまして!」
 何とか大恥をかくのを免れたネージュは、その服装からして同じ学校であるらしい芹香に礼の言葉を述べた――実はこの2人は、ネージュがオーナーを務めるカレーショップ【焙煎嘩哩『焙沙里(ヴァイシャリー)』】に勤めているという共通点があるのだが、その一方で明確な交友関係を持っていなかったため、互いが互いの正体を知るのは少々後の話になってしまった。
「ここのトイレの使い方が全然わからなくてね、もう本当にどうしたものかとー」
「うんうん、わかるわかる! そういう時ってなかなか人に聞きにくいんだよねー」
「お嬢様としてのプライドがねー。ところで……」
 トイレの前で談笑するネージュと芹香だが、ふとネージュが自身の状況に疑問を抱いた。
 なぜ自分はこの芹香という「大人」に抱きすくめられているのだろう、と。
「さっきからその大きな胸が顔に当たってるんだけど……」
「気にしなーい。愛情表現なのだー!」
 言いながら芹香はしきりに自分の胸にネージュの頭を埋めていた。
 ネージュはもちろん気がつかなかったが、芹香は実は瘴気の影響を受けていた。それも非常に珍しいケースであり「体はそのままで、精神だけが幼児退行した」というものである。
 つまりネージュの目の前にいるのは身長189cmでナイスバディな「幼女」ということになるのだ。ある意味、非常に性質の悪い存在である。
「ち、ちょっと苦しいんだけど……」
「あーもー、それにしてもかわいいなぁ。このままお持ち帰りぃ〜しちゃおうかな」
 ネージュの訴えを全く聞かず、芹香は幼児退行した頭でよからぬことを考える。
 だがそれを許さない存在が芹香の近くにいた。
「芹香殿、もうその辺にしといた方がいいと思いますが……」
 背中に声を投げかけられ、芹香はネージュを離してそちらに向き直る。そこには彼女のパートナーである鼎・ホワイト(かなえ・ほわいと)の姿があった。ちなみに鼎は瘴気の影響を受けていない。
「さっきからそうやって色んな所で遊びまわって……、迷惑をかけた分、謝り倒してたんですよ。そろそろ戻りませんと」
「えー、もうちょっとこの子の相手してたいんだけどー?」
「ダメです。さっきだって芹香殿の行動でパニック気味だったのを落ち着かせられて恥ずかしかったんですから」
 頭だけ幼児化した芹香の行動は、普段のそれと比べて非常に「パワーアップ」していた。まずかわいい子を見つければ「愛情の証」と称して無闇やたらと抱きしめたり、他の幼児化契約者からのリクエストがあれば肩車はもちろん、あるいは遊んでいるつもりで契約者にジャイアントスイングを敢行したりとやりたい放題だった。幼少時には「近所で評判のガキ大将」という情報を鼎は知っていたが、その実物を目の当たりにした時はさすがに頭の回転が止まりかけたものだ。
「もうとにかく、その子も困ってるようでしたし、そろそろ解放してあげてくださいな」
「……しょうがないなー」
 鼎に説得され、芹香はしぶしぶネージュを解放する。
「じゃーねー」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
 去り際に2人から挨拶を受けたものの、取り残された形となったネージュは、1人で途方に暮れた。
「……それで、結局どうなったの……?」
 どう動けばいいのか迷うネージュは、とりあえず再び襲い掛かってきたかもしれない下半身の洪水に備えるべく、再度トイレの中に入っていった。