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恋歌は乾かない

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恋歌は乾かない
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chapter.2 陽の元に撫で合う千草青映ゆる 


 みなと公園。
 みなとくうきょう内にあるこの公園は面積こそさほどないものの、昼間はスポーツや休息目的に使われ、夜間は蛍の観賞に使われるなどくつろぐには持って来いの場所となっている。
 それは今日のようなイベントでも変わらず、様々な生徒がこの場所に集まっていた。

 冬山 小夜子(ふゆやま・さよこ)は公園の植え込みがあるところでそわそわしながら視線を泳がせていた。誰かを待っているのだろうか、目線だけでなく顔の向きも時々変える小夜子。その度彼女の白銀の髪が風になびき、ほのかな香りを辺りに撒いていた。
「御姉様を独り占めできるなんて……ふふっ、凄く楽しみです」
 思わず声が漏れる。期待を顔中に広げていた小夜子はやがて、ひとりの女性をその瞳に映した。
「御姉様!」
 笑顔で小夜子が呼びかける。優雅な足取りで小夜子のところに近づいてきたのは、崩城 亜璃珠(くずしろ・ありす)だった。亜璃珠の表情は、小夜子とやや対照的で決してにこやかとは言えないものだった。それに疑問と不安を感じた小夜子が、眉尻を少し下げて言った。
「……御姉様?」
 亜璃珠は黙ったまま小夜子の前まで歩を進めると、彼女の両頬にすっと手を添え、至近距離で視線を絡ませた。そこで初めて、亜璃珠が口を開いた。
「ねえ小夜子、誘ってくれたのは嬉しいけど、たしか今日はカップル入場禁止のはずよね」
 亜璃珠に指摘され、とっさに小夜子は視線を外そうとした。しかし自分の頬を押さえている亜璃珠の両手が、それを許さない。行き場をなくした小夜子の目線は、亜璃珠に絡めとられた。逃げ場を失った小夜子に、亜璃珠が追い打ちをかけるように聞く。
「あなたは自分のためならルールも平気で破るようないけない子なの?」
「うー……そ、その……」
 小夜子は、決してそれを知らないわけではなかった。今日のイベントがどういうもので、誰を対象としたものかも知っていた。知っていてなお、彼女は亜璃珠を誘ったのだ。後ろめたさが小夜子を襲い、すっかり彼女は口ごもってしまう。そんな小夜子を見て、亜璃珠はすっと手から力を抜くとそのまま小夜子の頬を優しく撫でた。
「え……お、御姉様?」
 困惑する小夜子に顔を近づけ、亜璃珠が笑みをこぼしながら言う。
「……なんてね。ふふ、気にしなくていいのよ」
 固まって、目を丸くする小夜子。数秒経ってようやく、彼女は亜璃珠に意地悪をされていたことに気付いた。
「も、もう御姉様ったら……」
 安心したのか、頬に添えられている亜璃珠の手に自らの手を重ねようと小夜子が腕を上げる。が、亜璃珠が次に言った言葉で、その動きはぴたりと止まってしまった。
「……それほど、不安だったのかしら? あの子のこと」
 あの子。亜璃珠が口に出したそれは、百合園の新入生歓迎会で軽く挨拶を交わした新入生の女生徒のことだった。
「それは……」
 関係なくて、ただ御姉様と一緒にいたいから誘った、それだけ。言いかけて、小夜子は口をつぐむ。目の前のこの人に、嘘はつけないと自分で分かっていた。
 亜璃珠の言葉は認めたくなくなるほど、当たっていた。亜璃珠が新入生の女生徒に声をかけたあの日から、小夜子の中に芽生えた嫉妬心は不安を養分にしてすくすくと育ってしまっていたのだ。
 すっかり閉口してしまった小夜子に、亜璃珠は優しく語りかける。
「……大丈夫。あの子はまだ、ただの興味の対象だから。それに、私の本当の気持ちは小夜子も分かってるでしょう? だから安心して。私は何も変わらない。どこにも行かないし、逃げも隠れもしない」
 興味の対象。それだけだということは小夜子も分かっていたつもりだったが、我慢が出来なかった。目の前の、この艶めかしく優美な女性の視線が、自分だけに向いていてほしい。この手だって、自分だけに触れていてほしい。小夜子はそう思わずにはいられない自分を卑しく思った。
「駄目ですね、私。大人げなくて……。ごめんなさい」
 自分をなだめる亜璃珠の言葉すら自分を咎めているような気がして、小夜子は目を伏せた。長い睫毛が影を作る。
「そんな言葉はいらないの。あなたが求めてくれるのなら、私はあなたの……いえ、あなたは私のものなんだから、ね?」
 亜璃珠のその言葉は、間違い探しにも似ていた。本当に今言うべき言葉は、ごめんなさいではない。まるで、小夜子にそう教えているかのように。
「ありがとう……亜璃珠さんは私の御姉様です」
 言うと同時に、小夜子は亜璃珠に体を押し付けた。心音が伝わるのをごまかすように、小夜子は亜璃珠の口元に唇を持っていき、呼吸を止める。抱きついてきた小夜子の背中をさすりながら、亜璃珠は顔をそっと離すと満足そうな笑顔を広げた。
「こちらこそ、誘ってくれて今日はありがとう」
 言うと、亜璃珠は二、三歩進んで小夜子に手を差し出した。
「さ、せっかくここに来たんだもの。話だけして終わりじゃないでしょう? 早く好きなところへ連れていってくださいな」
「そうですね、それでは、一緒に行きましょう」
 きゅっと手を握った小夜子に、亜璃珠がまた少しだけ意地悪そうな口ぶりで言った。
「見失わないように、しっかり捕まえてなさい?」
「……はい、ちゃんと捕まえますわ」
 そのままふたりは、手を繋いで公園の中を散歩した。

 公園の小道や広場では、元気に体を動かしている生徒たちもいた。
 強い日差しの中、大岡 永谷(おおおか・とと)は女性でありながら男性用の教導団軍服を着て、小道でランニングをしていた。
「あらあら、そんな格好で暑くないですの?」
 可愛らしいテニスウェアとスコートに身を包み、永谷に話しかけたのはクエスティーナ・アリア(くえすてぃーな・ありあ)だ。
「……先輩?」
「あら、永谷さんでしたの。後ろ姿しか見えなかったので分かりませんでした」
 クエスティーナは、永谷にとって先輩にあたる関係のようだった。礼儀正しくお辞儀をする永谷に、彼女はにっこりと微笑みを返した。
「本日は、ランニングをしに?」
「……はい、まあ、そんなところです」
 普段は男性口調の永谷だが、先輩ということもあって多少かしこまった口調だ。永谷が彼女の問いに一瞬詰まったのは、もうひとつ目的があったからだった。
 それは、言うまでもなくこのイベントで出会いを求めるというものだった。自分に話しかけてくれる人がいて、さらに一緒に体を動かしてくれるのであれば共に汗を流し、気が合うかどうかを永谷は確かめようとしていた。しかし。
「さっきから公園内を走っていますが、女性の割合が多いみたいですね」
 永谷がぽつりと漏らす。その言葉通り、このみなと公園に今訪れている生徒の割合は、圧倒的に女性の方が多かった。外見は男性ではあるが、れっきとした女性である永谷の恋愛対象は男性である。その対象がほとんどいないのであれば、一緒に体を動かす以前の問題となってしまう。永谷の呟きにどれほどその意味合いが込められていたかは分からないが。
「ところで……お車は?」
「車……?」
 クエスティーナが新しい話題を持ち出した。が、永谷は不意を突くようなその問いにオウム返ししか出来なかった。
「走りを先導する車です。それと警備員も見当たらないようですが……」
「け、警備員?」
 次々とクエスティーナの口から出る摩訶不思議な単語に、すっかり永谷は困惑してしまった。それもそのはず、彼女、クエスティーナは実家が大金持ちかつ箱入り娘という典型的なお嬢様であり、一般的な高校生とはあらゆる価値観がずれていたのだ。
もっとも、当人にその意識はあまりなく、時折飛び出す発言の数々も嫌味のつもりはまったくないのだが。
「い、いや俺は普通にランニングを……」
 思わず数歩後ずさり、永谷はその場から逃げるように駆けだしていった。
「あら、行ってしまいましたね。私も誰かと一緒に体を動かそうと思ってましたのに」
 ひとり残されたクエスティーナがぽつりと呟く。そんな彼女の耳に、明るい声が届いた。
「別々に入って待ち合わせしたのはいいけど、ファニーとテニスするにはフィーじゃちょっとおっとりさんすぎるかなー?」
 反射的に、声の方を向くクエスティーナ。声の主もこちらを見ていたらしく、ばっちり目が合った。同時に、どちらからともなく顔を綻ばせ、歩み寄る。会話の内容とクエスティーナの格好がマッチしていたのが幸いしたのだろうか。
「はじめまして、クエスティーナ・アリアと申します」
 スコートの裾を軽く指で摘み、上品な仕草で挨拶をすると声の主であったファニー・アーベント(ふぁにー・あーべんと)も元気に挨拶を返した。横にいたパートナーのフィール・ルーイガー(ふぃーる・るーいがー)も、静かに頭を下げる。
「ねえねえ、その格好、テニスしに来たの? 良かったら一緒にやろー?」
 お互いに自己紹介を終えると、クエスティーナの格好を見たファニーがここぞとばかりに誘う。ぱっと見お嬢様風なクエスティーナならフィールの対戦相手にぴったりだと思ったのか、ファニーはクエスティーナとフィールのふたりでテニスをするよう促す。
「ファニーさん、あなたは……?」
「ん? ファニーは見てるだけー。それでも充分楽しいし、フィーにも楽しんでほしいし!」
 ファニーのそんな言葉に、クエスティーナとフィールは顔を見合わせてくすっと笑みをこぼした。
「ほらほら、あっちにコートもあるし、早く行こっ!」
 今にもふたりの腕を引っ張りかねない勢いで、ファニーが催促する。
「よろしくお願いしますね。力はあまりありませんけれど」
「こちら、こそ……。体力がないので、すぐ、休憩になってしまったらすみません……」
 クエスティーナとフィールがそんな会話を交わしているうちに、3人はあっという間にコートに着いていた。
「……では、打っても、よいでしょうか……」
「いつでも大丈夫ですよ」
 対面したクエスティーナとフィールは、緩やかにボールを打ち始めた。パコン、と心地良い音にファニーの声援が混じる。
「頑張れー! フィーもクエスティーナも、打ち返せー!」
 ラリーが何度か続くと、ボールを弾く音の感覚が徐々に広がっていった。打ち合っているふたりの体力的な問題か、ラリーが思うように続かなくなっていたのだ。
「まだ30分も経ってないよー! ほらほら!」
 ひとり元気なファニーだったが、疲れが現れだしたふたりの姿もあってか、休憩を持ち出す。タオルで汗を拭きながらファニーの元へ戻ってくるふたりは確かに疲弊していたが、その表情は明るかった。
「お疲れ様ー! 休憩しよ、休憩! ここ座って!」
 ファニーがコート脇のベンチを手で軽く叩く。言われるがまま腰かけたクエスティーナに、ファニーが尋ねた。
「こんなに良い天気だったら、お弁当でも持ってくれば良かったなあ。クエスティーナは何か持ってきてたりする?」
「ええ。パートナーがこれを持たせてくれました。よろしかったらどうぞ」
 言って、クエスティーナはジュースを取り出した。蓋を開けると、桃の良い香りが広がる。
「わー、良い匂い! ありがとう!!」
 ごくごくと喉を鳴らすファニーの隣で、フィールが質問をした。
「クエスティーナさんは……どうして、パラミタに……?」
「アメリカから、お医者さんの勉強に。お父様と会社の取引先の計らいで……その……教導団に」
「えー、クエスティーナって教導団なんだ!? 見えないねー」
 よく言われます、とクエスティーナは苦笑した。
「教導団と言っても、私は後方ですから戦争にはまだ出向いたことがないんですけれどね」
 次は私が質問しても良いですか? とクエスティーナが聞くと、ファニーは大きく頷いた。
「その髪は、どのようにお手入れを?」
 ファニーのウェーブがかった、金色が透けて見える髪をクエスティーナはじっと見ていた。
「え? これ? 適当っていうか、んー、特に何もしてないよ?」
「あら、そうなんですか。では、その服はどこにご注文を?」
「ちゅ、注文?」
 服は買いに行くもの、とばかり思っていたファニーは、予想外のセリフに思わず聞き返す。
「注文っていうか、ヴァイシャリーの服屋さんで買ってるだけだよー」
「お店に出向いて……?」
 クエスティーナもクエスティーナで、その答えは予想外だったようだ。箱入り娘の彼女にとって、服は業者持参のカタログなどから基本デザインを選び採寸し仕立てるもの、と思い込んでいたからである。
「あはは、面白いこと言うね、クエスティーナって!」
「え、そ、そうですか……?」
 きょとんとするクエスティーナの隣で、ファニーが笑う。その後も彼女たちはデジカメで写真を撮ったり携帯の番号を交換したりして仲を深めていった。

 彼女らと同じように、公園の芝生でバドミントンをして体を動かしていたのは七枷 陣(ななかせ・じん)とパートナーのリーズ・ディライド(りーず・でぃらいど)だった。傍ではもうひとりのパートナー、小尾田 真奈(おびた・まな)が穏やかな表情でそれを眺めている。
「ご主人様……」
 真奈はラケットを振る陣を見ながら、小さく呟いた。一見変わったところはない彼の表情だったが、彼女はその陰に滲んでいる感情に薄々感づいていた。
「陣くん、隙ありーっ!」
 ぺち、とリーズの打った羽根が陣の額に当たった。
「思いっきりぶつけたな、リーズ。ちょっとは手加減せえよ……」
「へへーん、陣くんがぼーっとしてたのが悪いんだもんねー」
 陣が芝に落ちた羽根を拾う。頭を傾けた拍子に髪の先から汗が滴り、ぽたりと落ちた。
「しかし暑いな……ちょっとそこの木陰で休憩にしようか?」
「さんせー! 真奈さんたしかお弁当つくってきてくれたんだよねっ! あそこで一緒に食べよう?」
 ぴょんぴょんと跳ねながら木陰に向かうリーズの後ろ姿を見て、真奈は口元を押さえて笑う。隣に、陣がやってきた。
「あ、ご主人様、これをお使いください」
 すっと差し出されたタオルを受け取った陣は、汗を拭いながら木陰に腰を下ろした。風を受けている芝生の感触はほんの少しくすぐったく、柔らかさを体の内側に伝えていく。
「陣くんの傍に着陸ーっ!」
 先に木陰へ到着していたリーズが、待ってましたとばかりに陣の隣に飛び込む。そのままリーズは陣の右腕に抱きつき、頭を預けた。
「あんまり引っ付くなよリーズ、運動したばっかで汗臭いんやからさ」
 言ってから、失言だと気づき慌てて陣は言い直す。
「いや、汗臭いっつったのはオレのことで、リーズや真奈は別に汗臭くねぇよ? てか……」
 むしろいい匂いが。そう言いかけて、陣は口をつぐんだ。失言をひとつ増やすところだった、なんてことを思いながら。
「んに? 陣くん汗臭くなんてないよ? 温かい匂いがするもん。ボクこの匂い好きだなあ」
「……そっか」
 今自分が押しとどめたばかりの言葉を遠慮なく言うリーズの無邪気さに、思わず陣の口元が緩む。リーズと逆側、彼の左脇では真奈が弁当箱と小皿を取り出し料理を取り分けていた。
「ご主人様、どうぞ」
 真奈が箸を陣に渡す。陣はそれを持って、綺麗にカットされたウインナーを口に入れた。
「うん、うまいな」
 それは決しておざなりな言葉ではなかったが、陣の意識が他にも向けられていると真奈は察していた。事実、彼はリーズに体を預けられ、真奈の料理を食べながらある考えが拭えずにいた。
 ――オレの選択は、正しかったのだろうか。
 リーズと真奈ふたりから告白された時、両方を受け入れふたりを平等に愛すると決めた。そのことに後悔はしていない。けれど、自己嫌悪と後ろめたさがこうしてふたりの好意を見る度に降りかかる。彼の胸中をまるで直接聞いたかのように、真奈が話しかけた。
「……ご主人様の悩みは、何となく分かります。顔に出ていますし」
「え?」
 振り返る陣。真奈は話を続けた。
「私のような人形を好いてくれる、それだけ充分すぎるほど満足しているんですよ? バレンタインに言ってくれた好きという言葉が私は本当に嬉しくて……救われたんです」
「真奈……」
「だから、もう一度言わせて頂きますね」
 陣の目を真っすぐ見つめ、真奈が告げた。
「お慕い申しております……ご主人様」
 歪みもねじれも何もない、ただ真っすぐなその瞳と言葉が、陣に刺さる。脇で彼を見上げていたリーズも、続くように言葉を発した。
「んにぃ、陣くん、まだ悩んでたんだねえ。前も言ったじゃんか、ボクたちが好きならそれでいいじゃん、って! そりゃあ、周りから見たらヘンって思われるかもしれないけど、それでボクや真奈さんが傷付いたりなんかしないよ? 人には人の世界があって、ボクたちにはボクたちの世界があるんだから」
「……リーズ」
「だから、もう一回言うね……大好きだよ、陣くん!」
 きっとこの不安は、これからもどこかで出てくるかもしれない。けれど、目の前で自分を好きだと言ってくれる人がいるなら、それを含めてやっていける。陣はそんな気がした。リーズと真奈に手を伸ばした彼は、そのままふたりを抱き寄せた。
「食べたら眠くなってきたな。昼寝でもするか」
 ほんの少しくすぐったくて、柔らかくて。ああ、好きという言葉は芝生に似ているのかもしれない。そんなことを思っているうちに、陣の瞼は下がっていった。



「……なんで誰も声かけてこないの?」
 公園内の散歩道。英霊紫式部は昼前からこの近辺をうろついていた。が、まだその後ろ姿に声をかける者はいなかった。
「源氏だよ? 源氏って言ったら、平安一のモテ男なんだよ?」
 現状を嘆く式部。もっとも、あくまで彼女は紫式部であり、源氏の英霊だというのは彼女の勘違いでしかないのだが。とは言うものの、花柄のワンピースからすらりと伸びた脚は人目を引くほどに白く、ナチュラルにまとめられた黒髪とのコントラストは充分に魅力的であった。にもかかわらず未だ口説かれていないのは、ひとえに彼女の放つ異様なオーラのせいだろう。
「……んっ?」
 と、式部がひとりぽつんとベンチに佇む人影を見つけた。明らかに、他の者たちとは違う雰囲気を醸し出している。人影はきょろきょろと辺りを見回していた。やがて式部と視線がぶつかり、どちらからともなく軽い会釈を交わす。静かなトーンで影の主――平 重衝(たいらの・しげひら)は声を発した。
「そなたも地獄へ落とされたのか?」
「え?」
 突然意味不明な質問をされ、式部は思わず聞き返した。噛み合わないやりとりに、重衝も疑念を抱く。
「ここは……地獄ではないのか?」
「え、うん……みなとくうきょうだけど」
 式部も重衝も、互いに疑問符を浮かべたまま若干気まずい空気が流れる。それを、少し離れたところからナットくんが見ていた。当然、中に入っているのはレン……のはずだったのだが。
「ほら重ちん、もっと明るくいかないと! これじゃ思い出づくりどころじゃなくなっちゃうよっ」
 中に入っていたのは、重衝の契約者、草薙 真矢(くさなぎ・まや)であった。
 順を追って説明しよう。
 彼女……真矢は常々、パートナーの重衝にある不満を抱いていた。辛気臭く、ネガティブオーラ全開なことが時折真矢を苛立たせていたのだ。
「たまには誰かとデートでもしてきたら?」
 気分転換にでもなれば。そんな真矢の言葉にも重衝は「デートとは?」と無粋極まりない返事しかしなかった。その返事を聞いた真矢の怒りはついに爆発し、意地でも重衝に思い出をつくらせようと思い至った。施設内でこれ幸いと式部を見つけた真矢は、源氏と平氏の組み合わせって素敵じゃない? と目を輝かせたが、ふたりがうまく会話出来るか不安に思い、着ぐるみを着て華麗な演出をすることに決めたのだった。が、先にナットくんの着ぐるみをレンに着られていた真矢は、まず着ぐるみの強奪から開始した。

「場所が場所だけに、カップルが多いな」
 ナットくんとして施設内を歩いていたレンは、何十組ものカップルとすれ違ってきた。そんな時自然と脳裏に浮かんでくる姿を、彼は任務に集中することでかき消そうとしていた。
 と、不意にレンは背中から不吉な気配を感じた。
「!?」
 とっさに振り返り身構えようとするが、いかんせん今の彼は着ぐるみを着用しているため本来の動きからは到底かけ離れたものとなっていた。そこに、重い一撃が入る。もちろんそれは、真矢のものである。
「な……」
 着ぐるみを着続けていたという体力の消耗もあるのだろう、眩暈を覚えたレンはそのまま地に倒れた。そんなレンをよそに、真矢は着ぐるみをレンから剥ぎ取り自分のものとした。
「よーっし、これで準備はオーケー!」
 その後真矢は重衝を手刀で気絶させ公園までずるずると引っ張りこむと、着ぐるみを着たまま暴れて周辺から人を追い払い、見える範囲にある時計の針を勝手にずらして止め、異世界であるかのように見せかけた。重衝が目を覚ました時目にした光景は、周りに誰もいず、時の止まった錯覚に陥るような景色だった。すっかり地獄か何かと勘違いした重衝はこうして、式部と相まみえることとなったのである。
「さあ重ちん、積極的に! ポジティブに!」
 離れたところでナットくんを着た真矢がお節介のような声援を送る。が、ネガティブ気質な重衝と、負けず劣らずネガティブな式部の会話が盛り上がるはずもなかった。微妙に気まずい空気のまま、別れようとする式部と重衝。
「ああ、せっかくここまでセッティングしたのにっ!」
 それを見た真矢は、やむを得ず自ら焚きつけようと身を乗り出す……が、その視界に、先ほど着ぐるみを奪った時に見た男が入る。
「アレはさっきの……」
 そう、さして着たくもない着ぐるみを暑い中着させられた上に、不意打ちを食らいそれすら剥ぎ取られてしまったレンである。意識を取り戻したレンはおぼつかない足取りで式部に近づくと、懸命に声を振り絞った。
「式部……大学の……講師に……」
 そこで、レンは力尽きた。薄れゆく意識の中で、レンは誰に向けるでもなく歌を詠んだ。
 ――夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ あまつそらなる人を恋ふとて。
 手の届かない者を思って詠ったその歌は、誰に向けてのものだったか。今となっては、それを知ることは叶わない。
「な、何なの、いきなり地獄がどうとか講師がどうとか……」
 そして、すっかり彼らによって混乱してしまった式部は、逃げるようにその場から立ち去っていってしまった。
 彼女が姿を消したその先には、サイクリングロードが広がっていた。