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思い出のサマー

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思い出のサマー
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●新しい家族

 白い建物、つまり病院の中で、アルクラント・ジェニアス(あるくらんと・じぇにあす)は最後の書類に証明を行っている。
 まもなく退院手続きが終了した。
 カスパールの。
 彼女はまだ車椅子にあるが、いずれ歩けるようになるというのが医師の見解だった。
「ありがとうございました」
 アルクラントは妻とともに、医師に深々と頭を下げた。
 パートナーたちと合流し、カスパールを迎えに行くために中庭に向かう。
 カスパールと再会したあの場所だ。
「あとは……彼女の意志だけど」
 シルフィア・ジェニアス(しるふぃあ・じぇにあす)が言った。
 何気なく上げたシルフィアの左手薬指に、結婚指輪が光っている。
 指輪はもちろん、アルクラントの左手にあるものと対になっていた。
 中庭に出た。
 空は曇っており、ためにか気温は涼しい。
 されども、じんじん、じんじん、と蝉は鳴いており、季節は確かに夏であった。
「あの人……よね」
 エメリアーヌ・エメラルダ(えめりあーぬ・えめらるだ)が言った。
 花壇の花を、愛でている車椅子の女性があった。エメリアーヌの口調に、いまひとつ確信がなかったのも仕方がないだろう。
 それほどにカスパールは変貌していた。
 外見の話ではない。
 外見だけなら、かつて知る彼女とほぼ同じだ。異なっているのは化粧っ気がないことくらいだ。
 だが、かつてのカスパールにあった妖気というか、見る者をたじろがせずにはおれぬ濃い存在感、それとともにあるカリスマ性といったものは、まるで消え失せていた。すっかり漂泊されたかのように。
「あなた、しってる」
 カスパールはアルクラントを指さして、童女のよう……本当にそう表現するしかない……な笑顔を浮かべた。
「うーん、話には聞いてたけど、実際にあの姿を見ると……なんていえばいいのかな、複雑な気分になるよね」
 ペトラ・レーン(ぺとら・れーん)は少し怯えたような表情を見せた。あのカスパールがこうなっているなんて、誰が想像できただろうか。
 アルクラントは進み出てしゃがみこんだ。カスパールと目線を合わせるために。
「やあ、カスパール。そうだよ、アルクラント・ジェニアスだ」
「あるく……?」
「アルクラント」
「なまえは、おぼえていない。ごめんね」
「いいのさ。じゃあ改めて紹介しよう。彼女はシルフィア・ジェニアス。前に君と会ったときは『シルフィア・レーン』だったよ」
「なまえ、かわった?」
「そう。カスパール。本当は、君も招待できれば良かったんだけど。少し前に、結婚式を挙げたんだ」
 するとカスパールは、ぱちぱちと手を叩いたのである。祝い事を聞いた幼稚園児がそうするように。
「おめでとう!」
「ありがとう。そのときの写真なんかも色々持ってきたんだ」
「あら、写真持ってきてたんだ……うちに帰れば、ゆっくり見られるのに」
 シルフィアにうなずいて、アルクラントは荷物から小さなアルバムを取り出した。結婚式の写真が集められている。写っている白無垢の花嫁が、シルフィアであることは言うまでもないだろう。
 カスパールはただただ、憧れの眼差しで晴れやかな写真を眺めていた。
「おめでとうの言葉、ありがとねカスパール。いまさら言っても仕方ないけど、カスパールにも結婚式に来てもらえたらよかったね」
「今日は、他に二人のパートナーにも来てもらった。彼らも私の家族さ」
 アルクラントが下がって、代わりにペトラとエメリアーヌが進み出た。
「あ、自己紹介するね。僕は、ペトラ・レーン。君は、僕とも友達だったんだよ!」
「だったかな……おぼえていない」
 カスパールは悲しげな顔をしたが、ペトラは「大丈夫」と笑って見せた。
「これからまた、友達になればいいだけのことだから」
「私もいいかな?」
 と断って、エメリアーヌも名乗った。
「それで今日は、話があって来たんだ」
 ふたたび、アルクラントがカスパールと向かい合う。
「前に君が言った言葉。覚えてるかな? 『ここは退屈だ、外を見たい』って。それに対して私たちはこう言った。私達と暮らさないか、って」
「うん」
「もう一度言おう、カスパール。私たちと一緒に、未来を見ないか? なにが起こるかはわからないけれど、希望に満ちた、未来を」
 カスパールはすぐに返事せず、目をぱちくりとした。
 ややあって、言ったのである。
「あなたのはなし、むずかしい。わかんない」
 言い方が抽象的すぎたのかもしれない。
「ああ、ごめん。えっと、僕からいい?」
 ペトラが助け船を出した。
「前のこと、ぜんぜん覚えてないんだね。でもさ、昔の記憶がなくったって、すてきは見つけられるよ!」
 ペトラは思わずカスパールの手を握っていた。白い手だった。
「僕が保障する。だって、僕だってそうだったんだから」
「あなたも?」
「そう! マスターと出会って、シルフィと出会って。エメリーも後からきて、ポチさんともお友達……お友達でいっか。お友達になれて……」
「たのしそう」
 カスパールに笑顔が戻った。花が咲いたような笑顔だ。
「そう、楽しいよ。だから僕はまだまだ、ずーっと、未来を信じられると思うよ! なにがあるかわからないのは確かにそうなんだけど、でも、きっとうまく行く、って」
「私も、ちょっと難しい言い方をするかもしれないよ。でも聞いてほしいな。いつか意味がわかるかもしれないから」
 と断ってエメリアーヌが言う。
「まあ、自分の過去って……意外と、他人の方が知ってたりするものよね。アルクはその辺、よーく分かってると思うけど。私は、あんたよりあんた自身のことを『覚えている』、って」
 きょとんとした目でカスパールは聞いている。だが、最初に断ったせいか、「わかんない」と投げ出すことはなかった。
「……昔の自分を知るべきかどうか、は分からない。でも、もし知りたいと思ったら……知ることはできる。受け止められるかは、別の問題だけど。そのことだけは、覚えといてね」
 やっぱり難しいかな、とエメリアーヌは苦笑いしたが、それでも大意は伝わったものと信じて続けた。
「ま、過去を大事にするのと過去に囚われるのは全然別物だから。それに、今この瞬間だって過去は生まれ続けてる。そっちを大事にすることだって素敵なことよ」
 圧倒されたように黙るカスパールを見て、エメリアーヌは「タッチ」と言ってアルクラントの肩を叩いた。
「色々言ったがつまり、我が家で一緒に住まないか、って話だよ。いいかな? カスパール」
「いい!」
 カスパールは車椅子から腰を浮かせて言った。
「よろしくおねがいします」
 実際は「よーろーしーくーおーねーがーいしますーぅ」と妙に間延びした言い方だったが、一生懸命大人の口調を真似している幼児のようで、微笑ましいとアルクラントは思った。
「こちらこそよろしく、カスパール」
「うん、あーあー、アルーアルクー?」
「アルクラント」
「そう……アルクランス!」
「いやもう、『アル』でいいよ」
 アルクラントは苦笑した。
「うん、アル!」
「最後に一つだけ。いつか、ずっとずっと未来でもいい。一つだけ、答えてほしいことがある。『過去とは、未来とは、そして現在とは何か』」
「かこ……みらい……げんざい……?」
「そう。私も、まだその答えを探し続けている。いつか、希望を託して旅立つ日まで。探し続けるのかもしれない。そしてそれは、とても素敵なことだと思うよ」
「やっぱりよくわからない。わからないけど……」
 にっこりとカスパールは笑った。
「たいせつなはなし、だとおもう」
「じゃ、私からも一つだけ」
 シルフィアが言った。
「私は、あたなとも一緒に隣を歩きたいと思ってる。アル君も、ペトラも、エメリーも。今居候しているポチ君とも。……いつか、それぞれの道を歩む時が来たとしても、きっと今のその思いは嘘じゃない」
 ここまで言って、
「あ、アル君は別よ。私とずっと一緒に歩いていくんだから」
 と早口で言い加えたのち、
「あなたにも、私たちと一緒に歩きたい、って思ってもらえたら、嬉しいな。そして、いつかほかにもそう思える人を見つけられたら……それはもっとステキなことだと思う」
「うん、あるきたいよ」
 カスパールは立ち上がろうとした。
「もうすぐあるけるようになる、って、おいしゃさん、いってた」
「いやそういう意味じゃ……いえ、わかっているのかもしれないわね」
 シルフィアは微笑して呼びかけた。
「一緒に、行きましょう。カスパール・ジェニアス」
「ジェニアス?」
「君の新しい名前だ。法律上は、私たちの義理の娘ということになる……気に入ってくれると嬉しいのだが」
 というアルクラントに、飛びつかんばかりにしてカスパールは喜びを表現した。
「うん! きにいった!」
「それにしても、形の上とはいえ随分と大きな娘だこと。実年齢で言えばシルフィアとそう変わんないんじゃないかしらね。下手したら年上だったりして」
 などとエメリアーヌは笑って、カスパールの車椅子を押しはじめた。
「あ、でもうちに来るんだったらこれははっきりしとかないと。僕の方がおねーさんだからね?」
 と言いながらペトラも手伝う。
「じゃあ帰ろうか」
 アルクラントは言った。
「我が家に」