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あの日あの時、あの場面で

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あの日あの時、あの場面で
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【胸に開く花】



 エリュシオン帝国は西部内海沿い、ペルム地方領海。
 それは、遥か古えからの忘れられていた龍と巫女の伝説が、一万年の時を超えてその幕を閉じようとしていた、その幕間の物語。


「それでさ、そこがまた不思議な場所でさ。魔法かってぐらい綺麗で……」

 心なしか焦るような調子で、あれこれと今までの冒険譚を語る千返 かつみ(ちがえ・かつみ)は、ともすれば沈んだ顔になってしまいそうな自分を叱咤しながら、その話に微笑んで耳を傾ける少女の小さな城を手伝っていた。
 都市の中心にそびえる神殿の中庭、かつては美しい花々を咲かせた、都市で最も色彩の鮮やかな花壇。残骸となってしまったそこは、それでも彼女の大切な場所なのだ。少しでも彼女の力になろうと、瓦礫を取り払って石を並べ直し、土を整え、彼女と共有するかつての記憶の通りに直していく。その間で、かつみは自身の見てきた場所や世界のことを語った。二人の隔たった時代を埋めたかったのかもしれないし、自分が知った彼女の世界の代わりに、彼女にもまた自分の世界を知ってほしかったのかもしれない。
「ここじゃ見られない花とかも一杯あるんだぜ……見て、みたくないか?」
 知らず饒舌になっていたかつみが、控えめながら振り絞るように尋ねたが、少女は申し訳なさそうに首を振った。
 興味がないわけではないのだろう。かつみの話を聞いている間、始終楽しそうで、想像を胸に膨らませているのがはたからも判った。じゃあ何故、と問いたげな眼差しに気付いたのか、少女は「見てみたい気持ちは、あるんです」と告げながら「でも」と続ける。
「……最後までここにいたいんです」
 そう言って振り返ったのは、やはり彼女の花壇だった。
「まだ生きていた頃は、この花壇を見て皆が笑顔になってくれる事もありました……もうすぐ終わってしまうからこそ、最後の時は少しでも綺麗な景色で終わらせたいんです」
 生きていた頃。最後。その言葉がぎゅう、とかつみの心を締め付けるのに、おそらく少女は気付いてはいないのだろう。否応無く突きつけられる現実が、ずきずきと胸の奥に痛みを灯す。だが、それを顔に出すような真似は、しない。
「そっか」
 と短く応じて笑いかけ、袖をまくり直して何事もなかったように作業へ戻る。
「なら、手伝うよ……最後まで」
 そう口にしたかつみの心を知らず、少女は、嬉しげに微笑んだ。
「何かお礼ができたらいいですが」
「別に、お礼とか望んでないよ」
 少女への返答は少々ぶっきらぼうになってしまったが、そっと視線を逸らしたかつみの頬は、僅かに熱を持って赤みが指していた。
(ただ一緒にいたいだけ……とか絶っ対言えない)
 沈んだり、赤くなったりと忙しないかつみの様子に首を傾げながら、少女は困ったように眉根を下げた。それでは気が済まない、申し訳ない、とそんな気持ちを表情に察して、かつみはぽつりと漏らした。
「………………じゃあ、歌」
「歌ですか? 「癒やしの歌」とかですか?」
 謡巫女としての力量を求められているのだろうかと勘違いしかける少女に、かつみは慌てて首を振った。聞きたいのは、彼女の役目としての歌ではない。義務のように覚えたそれではない。が、それを真正直に口にするのははばかられて、かつみは「とにかく」と焦ったように続ける。
「何でもいい、童謡でも何でも!」
「何でも……」
 そうして。
 僅かな間を置いて、少女の唇が紡いだのは、優しい曲調の子守歌だった。
 深く闇の落ちる水底。燭台の仄かな灯り。身を寄せ合いながら温もりを与えあい、その先で迎えてくれる、輝ける朝のために過ごす時。
 閉鎖的な場所で生まれた歌だからなのか、波音にも似た少し寂しげな音の響きを持ちながら、指先を絡めて明日を約束する、そんなささやかで暖かな歌詞。
 かつみは、少女のーーリュシエルらしいその歌と歌声に耳を傾けた。
 記憶の中にある彼女のどの歌とも違い、役目としてではなく、大袈裟な歌詞や歌い方ではない、優しく柔らかで、自然に耳に滑り込んでくる歌だ。それも、何かに捧げるためのものではなく、自分の為に選び、歌ってくれる……そう思うと、ただの子守歌だと判っていても、とくとくと胸が小さく音を立て、頬に熱く血が上る。
(……馬鹿だな、判ってるのに)
 そんな自分に、冷静な部分が苦笑する。リュシエルは優しい。親切にしてくれる相手に感謝の心を示してくれているだけで、よしんば特別に思ってくれていたとしても、それは魂と記憶が触れた相手としてだ。
(……判ってる)
 リュシエルには想う相手がいる。その身を捧げてしまう程の、静かだが深い愛情。
 自分が出来るのはせいぜい、こうして彼女の願いを手伝ってあげる事、側にいてあげることぐらいだ。それでも、その「誰か」の代わりになることは出来ない――……



 ――それを決定的に思い知ったのは、やはり、別れの時だった。
 
 彼女が呼ぶ名前は、想った人の名前は、自分ではなかった。
 告げた想いは、届かなかった。
 それを後悔するわけではなかったけれど、自分でもわけの判らないものがぐるぐると回って心をかき回して、ただ、自分がどれくらい彼女のことを好きになっていたのかを思い知っただけだった。
「手入れの手伝い、ありがとうございました」
 最後まで優しいリュシエルの声は、かつみの耳の中に何度も、何度もこだまして、消えてくれない。手のひらに触れる、もう輪郭だけになったはずの指から感じる温度にめまいがした。このまま掴んで連れていけたらどんなにか、という衝動を抑えるのが精一杯だった。
「私は外へは行けないけれど、せめてこの種だけは連れて行ってもらえますか」

 そうして受け取った種も――……結局、かつみの手に残ることはなかった。



「かつみ……?」

 遺跡の沈んでいった場所を見つめながら、いつまでも動こうとしないのを心配したのだろう、エドゥアルト・ヒルデブラント(えどぅあると・ひるでぶらんと)がかけてくれる声が聞こえてはいたが、かつみは振り返らず、何度目になるか判らない動作を繰り返した。
 手のひらを広げ、確認するように見つめて、また握りしめて、受け取ったはずのものを想う。都市が元の遺跡の姿を取り戻し、沈んでいくのに添うように、リュシエルが残した種は砕けて失われ、一万年という、遙かな時の隔たりを残酷に事実を突きつけた。
(……最初から、報われるはずなんか、なかったんだよな、オレも……) 
 振り向いて欲しかった。煮え切らない態度に、その向かう先が自分ではないのに苛立った。報われない相手を想い、苦しむ様が滑稽で、哀れで、自分ならそんなに苦しませたりなんかしないのに、と嘆いたが、何のことはない。報われない相手を思ったのは、そして、最後まで側にいられるだけで幸せだと思ったのは、自分だって同じだったのだ。
(報われないって判ってたって……好きだってこと、変えられる筈が、ないもんな)
 不意に、この遺跡を訪れる前に訪ねた街での事を思い出す。
 恋人への贈り物を散々探し回った末、ディミトリアスが花束を抱えて戻って来た時は「結局それ?」と呆れたものだったけれど、いざ自分の番になってみると、あの時の彼の気持ちが何となく判るような気がした。
 何なら喜んでくれるのか、この想いをどうやったら形に出来るのか。悩んだ末に結局果たせなかった自分が情けない。
(でも、だって、どうしようもなかったんだ)
 今の自分と、あの時のディミトリアスとは違う。贈る相手が同じように思ってくれているわけじゃなかった。
「…………あれで、良かったのかな」
 思わず、かつみは呟きを漏らした。
 自分にやれることはやったつもりだった。けれど、思う人の代わりになんか勿論出来はしなかったし、外の世界を見せてやることも、結局できなかった。もらった種も、咲かせる事が出来なかった。後悔はとめどなく溢れてくるが、かといって良い方法があったかといわれれば、思いつきもしない。
 情けないな、と。ぎゅうと拳を握るかつみの背中に「そんなことはないよ」と柔らかにエドゥアルトの声がかかった。
「上手ではなかったのもしれないけど、気持ちは伝わってたと思うよ」
 一緒にその光景を見てい相手からのその言葉に、ようやく振り返ったかつみに、エドゥアルトは続ける。
「前に……話をしたよね」
 将来についての話をした時のことだ。
 “当時の人が何を思いその遺跡を作ったのか、どんな意味を込めているのか。そして、今の人がどうその遺跡と共存しているのか”――それを知りたいと、かつみは言ったのだ。
 海中都市は失われてしまったけれど、実際の遺跡をその目で見た。仲間達や調査団も記録を残し、現存の街の中にも、魔術的な構造を似せたもの――例えば、ディミトリアスたちの故郷の上に立つ、トゥーゲオドアの街――は残っているし、エリュシオンの各所には更に繋がるものは残っているだろう。そう言って、エドゥアルトは「そういうの、勉強するのも、いいかもしれないね」と微笑む。
「丁度、そっち方面への留学の話も出てるし、きっかけとしてはいいんじゃない?」
 その優しい笑みに、かつみが言葉を選ぼうとしているのに、そっとその手がかつみの握り締められた手を覆った。
「かつみが本当に貰ったのは、目に見えない種のようなものだよ」
 もらった種は砕けてしまったけれど、その想いは確かにかつみの中に残っている。リュシエルと言う存在は、その出会いは、心に根ざし、芽吹いていく種だ。報われなかったから意味が無かった、なんて思わなくて良い、と、その声は伝えてくる。
「うん……ありがとう」
 エドゥアルトの優しい言葉に、かつみは漸く息を吐き出して、滲んだ眦をごしごしと擦ると、かつみは今度こそ、未練とは違う意志で、
 リュシエルがいた場所だから。彼女を忘れたくないから。そんなものを理由にしていいのか判らなかったが、彼女が残そうとしたものを、その記憶と想い、その生きた証を伝えられるとしたら、それは自分の役目なのかもしれない。

「……こっちは、ちゃんと咲けるかな」
 次の時は迷いなく、誰かの手をひっぱってやれるかな。


 夕日が鮮やかな茜に染める海が、彼女の子守歌のように、その波音を優しく響かせる中。
 独り言のように呟くかつみに「咲けるよ」とエドゥアルトは確信を持った響きで応えたのだった――……