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東カナンへ行こう! 4

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東カナンへ行こう! 4
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■オアシスの熱い夜

 ジェイコブ・バウアー(じぇいこぶ・ばうあー)ははるか対岸の稜線に沈みゆく夕陽を横に受けながら、打ち寄せる波に沿って汀線を歩いていた。
 その後ろを、黙ってフィリシア・バウアー(ふぃりしあ・ばうあー)が歩く。
 2人は6月に結婚したばかりの新婚だった。ジェイコブは現役の曹長なのでなかなか休みが取れず、つい最近も鏖殺寺院傘下のテロ組織の拠点制圧任務をこなしたばかりだ。フィリシアはジェイコブの参謀役で任務中もともに過ごす時間は多い方だが、それでもやはりかわされる会話などは新婚夫婦のそれとはほど遠く、色気皆無なものばかりだ。戦闘任務後に与えられる休暇と、ちょうどこのエンヘドゥからの誘いが重なったこともあり、2人はこれを新婚旅行にしてはどうかと話し合って訪れたのだった。
 昼は湖で泳いだ。持ってきたサーフボードを用いてサーフィンをしたり、2人並んで日光浴を楽しんだり。バーベキューをしている面々がいたので、参加させてももらった。楽しかった。こんなに楽しく笑えたのはいつぐらいだろうか?
 そして今、ジェイコブは心身ともに満足し、ゆったりとした気分で歩いていた。フェリシアもそうだろう。2人とも、口元に微笑が浮かんでいる。
 ふとあることに気づいたように、ジェイコブが立ち止まった。彼が止まったのを見て、フェリシアも足を止める。ジェイコブはもう半ば以上が沈んだ夕陽に向き直った。すっかり暮色蒼然とした藍色の空に真っ赤に燃える夕陽が対比的だった。そして黒く陰りを落とした木々が、深緑色の湖面にうっすらとシンメトリーを生み出している。
 ジェイコブは無骨な男だ。あまり審美的な感性を持たず、機微にうとい。だがそんなジェイコブでも、この光景には心に迫る何かを感じずにはいられなかった。
「これはすごいな」
「そうですわね」
 となりに立つフェリシアが答える。
 彼女の瞳には、今ジェイコブが見ているものと同じものが映っていた。
 同じ時、同じ場にいて、同じものを見て、同じように感じる――それはなんとすばらしいことか。
 フェリシアもそう感じたのだろう。歩き出したジェイコブの腕に、そっと寄り添って歩く。
 この景色のほかにもジェイコブの心を打つものがあった。水色のサマーワンピースを着たフェリシアは息を飲む美しさだった。闇色が深まるにつれ、強さを増したやわらかな月光に照らされる姿は、まるで妖精のようだ。丸太のような自分の腕に、添えるように置かれた手の細さ、繊細さがあまりにも対照的で、思わず見入ってしまう。
「なにか?」
「……いや、なんでも」
 フェリシアに問われ、ハッと我に返る。いつの間にか足が止まっていたことに気づいて、ごまかすように歩き出した。
 動揺しているふうの夫の姿に、フェリシアがくすりと笑う。
 フェリシアも知るとおり、ジェイコブは自他ともに認める朴念仁だ。自分の想いとか感情などを言葉に出して表現するようなタイプではない。歯の浮くような気障な台詞やらロマンス小説のヒーローのような甘い言葉などは、彼の口からはまず期待できない。
 けれど、それでも。
 こうして2人、肩を寄せ合って歩いているだけで、ジェイコブの気持ちが伝わってくる気がした。自分をとても大切に想ってくれている気持ち。それは自分の勝手な思い込みなどではない。そう確信できる。
 安心感、だろうか。
 だれの目にも触れない岩陰で、彼の腕に抱かれながらフェリシアは頭の隅でちらと考えた。
 のしかかるような黒い影。ジェイコブは大きい。彼女を抱き寄せる力も強い。フェリシアを抱き寄せ、彼女を駆り立てようとするかのようにさまざまな場所へ触れてくる手。熱を帯びた肌ごしにも、彼の興奮が伝わってくる。だがそこに恐怖はなく、ただ求められる喜びがあった。
 幾度となくキスを繰り返す。回を重ねるごとに、深く長くなっていく。言葉としては何も語らず、切なげな吐息、絡む指先が、求め合う気持ちを互いに伝える。
 2人は時間をかけてゆっくりと愛し合った。
 疲れきってぐっすりと眠るフェリシアを胸に乗せ、仰向けになったジェイコブは、乱れて絡まった妻の髪をひと房ひと房そっと撫でて梳かす。彼女が眠っているのを確信して、小声で「愛してる」とつぶやいた。
 伏せた面で、かすかにフェリシアがほほ笑んだのを、彼は知らない――。




「羽純くん、こっちこっちー」
 すっかり日の落ちたビーチに駆け下りて、遠野 歌菜(とおの・かな)はくるっと振り返ると夫の月崎 羽純(つきざき・はすみ)を呼んだ。
「もっと気をつけて行かないと、転ぶぞ」
 かわいらしい歌菜のしぐさに微笑を浮かべ、羽純は注意を促す。
「大丈夫ー」
 笑って答えると、歌菜は羽純が来るのも待ちきれないといった様子で、また早足で歩き出した。
 ウェッジサンダルが砂でさくさくと小さな音をたてる。くるぶしについた花飾りの上で、ちらちらとサマードレスの裾が揺れていた。裾と胸元に花をモチーフとした模様が入ったマキシ丈のサマードレスは、昼間歌菜を活動的でかわいらしく見せていた水着と様相が違って、ぐっと大人っぽく見せている。眼福気分で後姿を眺めつつ、後ろについて歩いていると、湖から吹いてくる夜風がふわりと歌菜の髪を持ち上げて、白いうなじを浮かび上がらせた。
 ふいにうなじでちょうちょ結びされている細い肩ひもを引っ張ってほどいてみたい衝動にかられて、羽純はこほっと空咳をして視線をそらす。
 自重しなくては。ここは戸外なのだから、と。
 カナンの面々それに昼間遊んでいた仲間たちはほとんど帰宅の途についてこのオアシスに残っているのは数えるほどで、しかも周囲にそれらしいあかりや気配は皆無だったが、それでもやはりどこに人の目があるともしれない。
「どこまで行くんだ?」
 気をそらそうと、そう羽純が聞こうとしたとき、歌菜が立ち止った。
 前かがみになって、何かしているような動作をする。すぐにぽうっと手元が明るくなったので、あかりを灯したのだと分かった。
「じゃじゃーん」
 楽しそうに、そしてちょっと自慢そうに、おどけた身振りで歌菜が横にどく。後ろから現れたのは、湖に面して2つ並んだ白いビーチチェアとビーチチェアにはさまれた丸いサイドテーブルだった。サイドテーブルには新鮮なカットフルーツの盛り合わせ、それにカナンのドライフルーツが入った皿が置かれている。
「これは……」
 夕方、歌菜の姿が消えているのは気付いていたが、まさかこんなサプライズを準備していたとは。
「ね、ね? 驚いた?」
「ああ。驚いた」
 覗き込んでくる歌菜に、羽純は素直に思ったことを口にした。歌菜は一番聞きたい言葉が聞けたというように、にっこりうれしそうに笑って、羽純の背中を押して片方のビーチチェアへ誘導する。
「さあ座って座って。今準備するから、羽純くんはくつろいでてね♪ 」
 促されるままビーチチェアに腰かけた羽純だったが、そのまま横にはならずに歌菜のすることを見ていた。歌菜は鼻歌まじりの上機嫌でクーラーボックスからよく冷えたグラスを取り出し、クラッシュアイスを入れたりフルーツを盛ってトロピカルカクテルを作り始める。最後に小さな傘飾りをつけて「さあどうぞ」と、羽純の側へ押し出した。
 美しいカクテルだった。上の黄色い液体が沈むにつれて、徐々に底の燃えるようなブラッドオレンジと混ざり合い、グラデーションを作り出している。
「甘党の羽純くんのために、フルーツ多めだよ♪ 」
 持ち上げ、漂ってくる香りを嗅いで、羽純はパイナップルやレモン、オレンジといった柑橘系のなかに甘いラムの香りを嗅ぎとった。
 ラムは甘くて口当たりがよく、飲みやすいが、それだけについつい深酒をしやすい。気をつけなくては――そんなことを口にしたら、歌菜はぱちんとウィンクを飛ばした。
「大丈夫! もし眠っちゃったとしても、私が抱えて帰るから!」
「抱えて?」
「うん!
 羽純くんの1人や2人、軽いものです。妻たるもの、夫を運べるくらいでないとっ♪ 」
 得意満面そこまで口にして、はたと気づく。
 しまった、せっかくサプライズしたり準備して場を盛り上げたのに、これでは全然ロマンチックじゃない。
 羽純はとうにそのことに気づいていてか、くつくつ肩を揺らして笑っている。歌菜はあわてた。
「あっ、あのね、羽純くん! 今のは言葉のあやでね! そりゃ、やろうと思ったらできるけど、でも、あの、絶対そうするってわけじゃ――」
 必死に挽回しようとしている歌菜に、もう我慢できないというようにぷはっと羽純は吹き出した。
「そう、だな……。では、そのときは、お願いしようか……」
「――羽純くん、面白がってるでしょ」
 絶対そうさせないに決まってるのに、こんなことを口にするところからして、ちょっと意地が悪い。
「そんなことはない」
 ようやく笑うのをやめ、ほおづえをついて下から見上げてくる羽純を前に、歌菜は仕切り直しをした。
 そうだ、カクテルを渡しているところだった。
「さあどうぞ」
「ああ。いただこう」
 羽純の伸ばした手は、しかしカクテルの横をすり抜け、それを押し出していた歌菜の手首を掴んでいた。
「羽純くん?」
 引き寄せられた歌菜は、次の瞬間胸元に押しつけられた羽純の唇を感じる。
「羽純くん……」
 胸の下を渡り、脇をすべり、背中に触れる。歌菜も人妻だから、夫からの合図は分かっていた。頭を下げ、求められるままに唇を許す。
 もともと、歌菜にも下心あっての『ロマンチック大作戦』だった。
 満点の星空の下、2人きり、波の音を聞きながらくつろげる場を用意して、おいしいお酒を飲みながらリラックスして会話する。
 このドレスも、いわば歌菜なりの勝負ドレスだ。
 ギリシャドレスを思わせる、高ウエストのあたりまで深く入ったスリット。ふわりとした重ねのシフォンドレスは忍ぶ手を歓迎するような切れ込みが入り、透けた素足をちらつかせる。――今、まさしく羽純がしていることを期待して入れられたものだ。
 男を誘惑するドレスでありながら、しかし下品さはなかった。背中は開いていたが開きすぎというほどではないし、胸元も薄絹が入ってしっかり大切なところは見えないようにホールドしてある。サイドのシルエットもすっきりとしていて美しく、縫製が良いため、気品を感じさせるデザイン。
 それをビーチチェアの上で散らして、歌菜は無防備な姿で仰向けになっていた。
 いつの間にそうなったのか、全く分からない。流した視界にサイドテーブルの上で手つかずのトロピカルカクテルが入った。
「……羽純くん……氷が……溶けちゃうよ……」
 しびれる頭でどうにか声を発したが、歌菜自身、それが文章になっているのか……言葉になっているのかすら、理解できなかった。
 またたく星の夜空と、ひんやりした夜風。そして肌を焦がすような夫の熱い指先があちこちで踊っているのを感じる。反応する。それだけで精一杯。
 羽純には歌菜の言葉が思いもよらない不意打ちだったようで、くつくつ笑うと震える肌にそっと口づけて身を起こし、歌菜を見つめた。
 言葉はない。
 情欲にけぶる瞳が、唯一無二の答えだった。