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思い出のサマー

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思い出のサマー
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●スプラッシュヘブン物語(10)

 熱気立ちこめるスプラッシュヘブンだ。
 湿度たるやすさまじいことになっている。
 もうもうのゆらゆら、緩慢なサウナのようである。
 これでは眼鏡は、曇るだろう。
 というか、もう曇っている。
 まったく。
 プールに来た男子三人組の筆頭、皆川 陽(みなかわ・よう)の眼鏡は、さっそくホワイトアウトして磨り硝子のようになっていた。
「男三人でプールでも気にしない。気にしないもん」
 ふっと陽は笑う。天使のようなその微笑み。そう彼はまるで、眼鏡をかけた天使。
「……だってプールだと仮にカワイイ女の子がいてもどうせ自分には何も見えないからな!」
 ぴしっと人差し指立てて、取るポーズもまた様になっていた。
 まあ、もう125度ほど回転して話しかけているつもりの連れ二人のほうを向いていたら、これ以上ないほど決まっていただろうが。
「知っていたとはいえあらためて驚くよ! ほんと! マジ見えてないんだね!」
 テディ・アルタヴィスタ(てでぃ・あるたう゛ぃすた)は無闇やたらと興奮してしまうのであった。
 陽は眼鏡をかなぐり捨てて(※実際はちゃんとケースにしまって)、ぐるりとテディのほうを向いた。
「ええい! 眼鏡がなくたって見えるよ! 多分!」
「……いや、すごく明後日の方向、なんだけど……今でも」
 陽はテディに背を向ける格好になっていたのだ。
 さて三人組の三人目、ユウ・アルタヴィスタ(ゆう・あるたう゛ぃすた)はこのときどうしていたかというと、
「メガネがないから何も見えてないけど、気にせず遊ぶよ! なにも見えてないけど堂々と歩き回って遊ぶよ! いやっほー!」
 すっかりボルテージを最高潮にして、奥義に開眼したかのごとく、迷わずまっすぐ、あてずっぽうの方向へ走り出したではないか!
「おい待てそこっ、そこのユウ! そっちは飛び込み台だよっ!」
 そしてこっちの陽も、もうゼンマイがギッチギチに巻かれたオモチャのような状態、
「ボクだってプールや温泉なんかでこうなってしまう生活に慣れてるんで、気にせず遊ぶよ! なにも見えてないけど堂々と歩き回って遊ぶよ! いやっほー!」
 いうなりまた、まったくもってあてずっぽうの方向へ走り出したのだ!
「うおおおお! なにも見えない奴が二人もいるのにそれぞれ違う方向に行かれると困るんですけどおおおお!」
 ムンクの『叫び』風の顔、俗に言うムンキーフェイス(※ごめん今作った言葉)になって、テディは両手を頬にあて身をくねらせた。
 しかしくねっている場合ではない。
 テディは陽に飛びついて止め――あれ、こっちがユウか?
 一人を抱えながらユウにタックルするようにして止めた――でも、こっちが陽かもしれない。
 はたとテディは気づいた。
 ――陽と、服脱いだユウって異様にソックリだな!?
 いや前々から薄々感じてはいたのだが、こうして並べると輪郭から顔つきから華奢な体躯から肌の白さから、びっくりするほど瓜二つな陽とユウなのだ。
 ――もしかして陽とユウって、双子だったとか……?
 思わずそう問いたくなるが、騎士トシテ軽挙ナ言動ハ厳ニ謹ムベシ、そんな自制心が働いてテディはその言葉を胸にしまった。
 当人たちがなにも言わないのだから、深い事情があるのかもしれない。
 そっとしておこう。
 ――いずれ陽なりユウなりが語るときまで、見て見ぬ振りをしよう。
 じつは眼鏡のない陽は、全然まったく少しも、『女装を解除しメイクも落としたユウが自分に酷似している』ことに気がついていないのであった。……この衝撃の真相を、テディは知らない。
 というわけでテディは、眼鏡がないと本当になんにもわからなくなるふたりを引きずるようにして、波の出るプールに入っていくのであった。
「ああ、水着のお姉さんの香りがするよ……でもたとえこの目の前に、ボンキュッボンの女の人がいたとしても、ぜんぶぼやけてて体の線とかわかんないやー」
「ボンキュッボン、いいねー。胸筋! 腹直筋! 上腕二頭筋! ボン! キュッ! ボンキュッボン!」
 相変わらず見た目ではビタイチ、陽とユウの違いはテディにはわからないのだが、発言の内容というかそこはかとない方向性の違いで、なんとなく判別がついてしまうような……気がした。
「見えなくても泳ぐことは普通にできるもーん」
 陽(たぶん)がすいすいと泳ぎ出す。
「わーいわーいウォータースライダーはどこかな−」
 ユウ(おそらく)も泳ぎ出す。
 それを見守るテディは、ちょっと母親のような笑顔だ。
「あんまり遠くまでいったら駄目だよー」
 ただそれも長続きしない。
「……えーと。自分泳げないんで、あんま水が深いとことかに行かれると困るんですけど!」
 ところが陽とユウがどんどん言ってしまうので、いつぞやのクリスマスに「僕の、一生を捧げる」と陽に誓ったテディとしては、彼(どっちかわからないが)を追わざるを得ない。
「やめて! 僕、正真正銘のカナヅチなの! 北欧伝説のハンマー・ミョルニール級なの! よしてやめて行かないでー!」
 ばしゃばしゃと陽たちを追いながら、もうテディは涙目である。追いかけながら溺れるというのは、なかなか世間に例がない状態ではなかろうか。
「溺れるっ、ていうかもう溺れてるー! 待ってー! タスケテー! 陽−!」
「……うん? テディ?」
 するっとふたりのうち陽のほうが、テディの声のほうに泳ぎ戻る。
「でも、見えないっ!」
 仕方がないからまあこの辺か、とあたりをつけて抱きついてみたら、
「陽……」
 正解、それはテディだった。
 さすがの陽でもはっきりと見える距離。
 陽とテディ、ふたりの顔は、息がかかるほどに近い。
 ちょっと首を動かすだけでキスできるほどに、近い。
 陽がテディの首に、むしゃぶりついたという格好だった。
 濡れた前髪で触れあったまま、見つめ合うふたりは、しばし言葉を忘れる。
 ……やがて陽が、小さな唇を開けて言葉を紡いだ。
「……テディ……あ……」
「あ……?」
「足、プールの底に付くんだけど。全然」
 陽が膝を伸ばすと、水はふたりの胸ほどの高さもなかった。
「あ……」
 緑色の瞳をきまり悪げにうろうろとさまよわせ、そして少し、潤ませてテディは言った。
「あ……足がつく場所でも溺れられる体質なの!」
 そんなふたりの真横を、ユウがすいーっと古式泳法で通り抜けていく。

 綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)アデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)が晴れて祝言を挙げたのは、つい先日、今年の六月のこと。名実ともにこれで、パートナー関係になったということである。
 けれども残念、ふたりは現役コスプレアイドルデュオ『シニフィアン・メイデン』ゆえ、軽々にこのことを天下に知らしめることはできない。
 それどころか完全極秘なのだ。さゆみとアデリーヌの結婚は、誰も知らない知られちゃいけないトップシークレットなのである。これを読んでいるあなたもすぐに忘れたほうが……うわ何をするやめろ……。
 という冗談はともかく、売れっ子アイドルの悲しさ、これは明かせない秘密なのだとご理解いただきたい。
 今年の夏も超多忙な『シニフィアン・メイデン』なのだった。
 ――なにしろサマーライブが控えてるしその他にもイベント目白押し……私の辞書に夏休みってあったっけ?
 すでに本年新春の時点で、スケジュール表がまっくろくろすけになっているのを見てさゆみはため息をついたものだ。
 ところが奇蹟は起こるもの、突然本日、ぽっかりと一日オフが取れたのである。
 これは物理的環境的偶然的要因の不思議なトリロジーがなしたミラクルだった。色々な計画があれしてこれして、ずれて動いてまたずれて……と、落ちものパズルゲームみたいになった結果ではあるものの、ともかくこの幸運を逃す手はない。
 というわけでこの日、
「あー! この解放感!」
 片腕をぐっと突き上げ、反対側の足も膝を曲げて、さゆみは水着姿でこのスプラッシュヘブンの地に降臨していた。
 ここに来たのは二年ぶり二度目だ。今年は一般人としての参戦、いや訪問である。
 さゆみはパステルグリーンのチェック柄の可愛らしい印象のビキニを着て、髪を下ろして普段となるだけ印象を変えるようにしていた。アイドルのお忍びオフなわけなので、そこら辺はぬかりない。
 一方アデリーヌは、マリンブルーのビキニである。やはりアイドル、磨き抜かれた玉の肌を惜しげもなくさらしていた。
「のんびりしたいところね。のんびり……このところ、ずっと忘れていた言葉だもの」
 人気商売のサガとはいえ、今年に入ってからは本当に、常軌を逸した忙しさだったため、今日はオアシスを見つけたキャラバンのようなアデリーヌの心境であった。
 プールに来ておいて入らないという法はあるまい。さゆみとアデリーヌはまず、浅いプールでゆっくりと泳いだ。
 背泳ぎしているアデリーヌに、さゆみがばしゃばしゃと水をかける。そこからはじまる水のかけあい、追いかけあい、小一時間もそうやって遊んだだろうか。
「さて小休止にしない? パラソルの下でトロピカルドリンクでも……」
 と言うアデリーヌにそんな時間は訪れなかった。
 さゆみが彼女の手に、
「はい、これ」
 毎年恒例のあるものを手渡したからである。
 水鉄砲。
「どう?」
「すべてを悟ったわ」
 ふっと笑むと、アデリーヌは観念したように銃を取った。
 水鉄砲合戦。ふたりの夏の定番である。
 挑まれて逃げるわけにはいかない。アデリーヌにだって意地はある。一昨年、昨年、いずれもさゆみとは相討ちの引き分けなのだ。
 ならば今年は、ぜひにも勝ちたいところ。
 それでは今年もふたり、背中合わせになって十歩進んで、そこから振り向きざまに互いに向けて発砲するところから銃撃戦(水の)開始! 
 最初の銃撃は互いに回避した。息を合わせたように、ぴったり。しかも左右対称に跳躍していた。
 浅いプールに駈け込んで戦いは続行だ。障害物を利用して直撃を避けつつ、相手の攻撃の合間に反撃のトリガーを引く!
 さゆみが撃つ。ひらりとアデリーヌがとんぼ返りして避ける。
 アデリーヌが撃つ。なんとさゆみは、ブリッジしてこれを逃れた!
 じゃんじゃん撃つも互いに命中しないのは、毎年水鉄砲バトルをやることで切磋琢磨し、技術が上達したせいだろうか。紙一重連発の美しいほどの攻防だ。
 いつしか戦いはヒートアップして、はたから見ればそれはまるで、激しくもどこか優雅さを漂わせる殺陣のよう。もともとそういう段取りでやっているパフォーマンスと、思われてもおかしくないだろう。
 しかしふたりには、互いの姿しか見えていない。
「やるわね! アディ!」
「さゆみこそ!」
 きらっと笑み交わす。
 心はずっと、通じ合っている。
 戦いはついに、互いの形のいい胸に、互いの水鉄砲が命中するというかたちで終わった。
「つまり」
「今年も、相討ちね」
 ふふっ、とアデリーヌが笑う。
 さゆみも笑う。
 やがて声を上げて笑い転げる。
 ――こんなに笑ったの、いつ以来だろう。
 さゆみは思う。いい思い出ができたと。
 ふたりには寿命の差がある。これは否定できない事実だ。
 死がふたりをわかつまで、という。
 その死はまず間違いなく、さゆみのほうを先に訪れる。
 アデリーヌより、ずっと、ずっと、ずっと早く。
 だからアディには記憶を残したい――さゆみはそう思うのだ。
 別離ののちも彼女が、ときどき思い出し笑いできるような、記憶を。