魔都タシガンの昔話の一つに、こういったお話があります。
『深く濃厚な霧に包まれた小さな孤島に、ひっそりと佇む古城がある。
城の外苑には色とりどりの花が咲き乱れ、調度や家具はどれも一級品。
故にその城は多くの侵入者に襲われたが、攻め込んだ者はただ一人も帰ってこず、いつしかその城は刻命城と呼ばれ人々から恐れられていた。
刻命城に仕える使用人は一人。吸血鬼。
城主であるシャンバラ人に心酔し、その生涯を彼に尽くしたと言われている。
その城の門番は二人。鬼人と天使。
両者は共闘し幾千もの侵入者を葬ったが、とうとう最後まで互いを分かり合うことはなかったと言われている。
かの城が抱える従士は十人。ヴァルキリーにより構成され、城主により称号を授かった誇り高き従士達。
「魔術師」「征服者」「剛殻」「隠者」「正義」「死神」「節制」「悪魔」「塔」「月」。
しかし、それは百年以上も昔の話。
既に城主であるシャンバラ人は死去し、それ以来刻命城を目にした者は一人もいない――』
――――――――――
契約者たちが続々と城内へと進む刻命城の屋根の上で、愚者は濃い霧がかかった空を見上げました。
霧の隙間からかすかに見える夜空には、何倍にも膨らんでいる少しばかり欠けた月が浮かんでいます。
「ああ、今宵の月も趣深い。まるでこの刻命城の面々のようだ。
何かが僅かに足りないだけなのに、そのせいで完成された美しさを失っている」
月の明かりは霧のフィルター越し。
太陽光は薄くなるのに、月明かりは強くなり、ぼやけた光が孤島を照らします。
昼も夜もない刻命城の屋根の上で、愚者は静かに語り始めました。
「……お話には終わりがある。悲劇や喜劇、結末は違えども必ず行き着く終着点が。
しかし、彼ら刻命城の者たちの昔話の続きはいつまで経っても訪れない。城主が亡くなり、そこで物語が止まっている」
愚者が視線を移し薄暗い中空を見つめます。
その何もない空間をただ睨みながら、言葉を紡いでいきます。
「ならば、昔話に終止符を打とうではないか。百年以上終わりのこない昔話に結末を与えよう。
その最後が悲劇か喜劇かは分からない。私に知る権利もなければ、用意された脚本にもそこまでは載っていない。しかし、願わくば、」
そこで愚者は少し左右に首を振りました。
「いや、止めておこう。これ以上語るのは無粋というものだ。
私から申し上げることはもうない。ただ一言、よくおいでくださった」
愚者は片手を前にし、丁寧に礼をします。
「この身も御一同に混じり、刻命城の行く先を眺めさせてもらおう。ただし、貴方様方は役者で私は傍観者としてだ。
……いや、もう傍観者など言えぬかもしれないな。私は役者たちの手により、舞台へ少しばかり上がってしまったのだから」
言い終えると目を伏せ、ほんの少し口元を吊り上げました。
「しかし、それも招かれた役者たちの選択。ならば、傍観者として答えるのが務めだろう。ゲストとしてなら、舞台の上で踊るのも悪くはない。
役者たちによって演じられる劇は傍観者をも巻き添えに。まったく、今宵の役者たちは舞台の上だけでは留まらない、名優ぞろいのようだ」
愚者は静かに目を開けると、眼下の契約者たちを見下ろしました。
彼の双眸は漆黒。感情すらも黒く塗りつぶされたかのような瞳で、ただただ契約者たちを見据えます。
そして静かに、しかし力強く、よく響く透明な声で呟きました。
「――それでは劇を始めよう。第二幕の演目は『阻止』となる」
愚者の顔に貼り付けられたような気味の悪い笑顔が浮かびます。
「さあ、大いに歓を尽くして頂きたい。
この古びた舞台には、愚か者が描いた三流の脚本と一流の名優たちが揃ったのだ。
踊れ踊れ役者たちよ。走れ走れ役者たちよ。百年以上前の愚かな昔話に終焉を」
そして、両手を目一杯広げました。
照らす明かりはスポットライトとはいえないほど弱々しく。
見ている者などほとんどいない役者泣かせのガラガラの舞台の上で。
愚者は言いました。
「さあ、歴史の闇に消えた叙事詩を続けよう。
現代と過去が入り混じる、終わりへと向かう第二幕へ――ようこそ」