パラミタ内海の中央部には、“原色の海”(プライマリー・シー)と呼ばれる海域があります
無数の青が織りなす海の色からその名を付けられたという美しい場所で――いえ、美しかった、と思われつつありました。
水源からの穢れは広がり、死者が蘇り、そして今、この穢れを凝縮した存在、“ウロボロスの抜け殻”とも呼ばれる黒い蛇が死者の島を連れてヴォルロスへと向かっていました。
時間は深夜、午前2時――ヴォルロス中心部、ヴォルロス議会場の一室。
ヌイ族の族長ドン・カバチョは、たっぷりとした顎を撫でながら重々しく言いました。
「島の到達まで約六時間」
海に住む獣人部族・アステリアの鯨の女王ピューセーテールは、そう見積もり、彼らに報せました。
「避難状況は?」
「一般市民の避難はほぼ完了しました。中に、自らの意志で残っている人間が少数おります。彼らには戦う意思があります」
中年の傭兵隊長が答えます。
「戦うと言っても、蛇の栄養分になるか、死者に取り囲まれてなぶり殺しになるのがオチですな。これは我々にも言えるのですな」
「森には女子供、老人が避難しています。地の利は我々にあります。少しでも食い止めます」
「そうするしかないのですな。ヴォルロスが陥落すれば次はどこに行くのやら……」
いつも飄々とした雰囲気のドン・カバチョですが、今は首元の赤い蝶ネクタイを落ちつかなげにいじっています。
「……それにしてもこうなった一因、きっかけがヴァイシャリーの貴族だなんて……」
いちおう族長代理の代理、という立場のため、会議に参加している守護天使は恨みがましい目で、フランセット・ドゥラクロワ(ふらんせっと・どぅらくろわ)を見ています。
「ボブさん」
ドン・カバチョもかたちばかり諌めますが、不満は多少あるようです。交易推進派としては自分にも原因がなきにしもあらずですが、あえて口に出すような人物ではありません。
「責任がないのは分かってますけど、個人的には恨みますったら恨みますよ、たぶん三代くらい先まで……ああ、でもその前に結婚できるのかな……」
「確かにヨハンさんたちドリュスの民は、直接的な被害を被っていますからね」
傭兵隊長は悩ましげに言いました。
ヴォルロスに住む彼らも被害者ですが、シャンバラから渡ってきた人間が大半であり、殺人事件という兆候や怪しげな研究を取り締まれなかったという落ち度があります。
フランセットは自身の立場を踏まえ、何かを言うべきではないと判断したのか、
「事前に止められなかったことは私としても悔しい限りです。ヴォルロスを蹂躙されこれ以上被害を出さないよう、全力を尽くします。
そこで提案ですが、このヴォルロス全体を決戦の地にします」
到達までに破壊できないなら、そうせざるを得ない。それに島を破壊しても蛇は残る。
「港の砲弾は、船と機晶船出港させ、ありったけの砲弾を島に向かって撃ち込みます。港からも迎撃を行います。
弾が尽きた後、蛇や……幾らかアンデッドが上陸するかと思いますし、更に復活する可能性があります。これはその後、人の手で迎撃しましょう。
先ほど仰られた残っている一般人の方々には、傭兵のチームに均等に振り分け、罠を担当して貰いましょう。罠を発動させながら後退し続ければ、被害は少ないはずです」
「ただ、それだけでは、元凶の蛇を斃すことはできないでしょう」
「死者の島で、蛇の尾が見つかったという報告がありました。尾というのは生物的な尾ではない……と、考えていたのですが」
フランセットは続けます。
「どうやら、蛇が実体化しつつあるようです。そうなれば蛇は暴れてヴォルロスの建物を押し潰すでしょう。
逆に、我々にとってはそれはチャンスです。物理的な攻撃が効くということですから」
「――鍵を握っているのはジルド・ジェラルディです」
静かに言ったのは、そのジルドの娘の婚約者フェルナン・シャントルイユ(ふぇるなん・しゃんとるいゆ)でした。
無実が晴らされたとはいえ、先ほどまで取り調べを受けており、幾分疲労しているようです。
「甚だ不確実ではありますが、彼を捕らえて解決策を聞かせていただきます。そこで、皆さんにご協力いただきたいことがあります」
彼の溺愛する娘、レジーナ・ジェラルディ……真のレベッカ・ジェラルディは死者です。蛇にもアンデッドにも襲われない、と分かっているのでしょう。確かにそれは脅威ではないですが、では動けない彼女が炎にまかれたら……?
フェルナンの提案は、ジェラルディ家の別荘に火を放ったように見せかけ、おびき出すというものでした。
村上 琴理(むらかみ・ことり)は彼にかわって今、別荘にいます。後にフェルナンが来る、という言葉に、不安を覚えたのでした。
彼は琴理に余計なことを語りませんでした。ということは、
(……何か言えないようなことを、考えている)
そんな想像が、頭から離れなかったのです。
*
この時真夜中の道を、議会を目指して急ぐ馬車がありました。乗り込んでいるのは白百合会会長
アナスタシア・ヤグディン(あなすたしあ・やぐでぃん)と契約者たち、そして契約者に抱えられたレベッカでした。
けれど道半ばに差し掛かった時、馬のいななきと共に馬車が激しく揺れました。進み、蛇行し、立ち止まり、馬車の中がかき回されたようになります。
「何事ですの!?」
分厚いカーテンを開け、外を覗いたアナスタシアは、目の前にとりついている女……レベッカそっくりの、そう、今までレベッカと呼ばれていた女の顔に凍り付きました。
御者は彼女をふるい落そうとしましたが、女は扉にしっかりと取ついたまま離れません。
逆に、女の右手から魔法が放たれ、手綱が吹き飛びました。馬車はまだ建物にぶつからないのが不思議なほど、激しく揺れながら市街地を走り続け……。
*
一方で、死者の島にはまだ残っている者たちもいました。
契約者の一部はアンデッドと戦い、また蛇の尾を調査していました。
ジルド・ジェラルディは悠然と島の上に立っていましたが、何を感じたのか突如顔色を変え、杯と“パナケイア”と共に身を翻し、逃亡します。
――ギリシャ神話に、こういいます。
神々の理に背いてまで、死者を蘇らせた医者。それは後の医学の神アスクレピオス。その杖に巻き付いているのは蛇だった、と。
その娘たる女神たちもまた医に従事しました。その娘のうちの一人の名が、ヒュギエイア。薬学を司り、彼女の杯には蛇が巻き付いている、と。
また一人の名がパナケイア。彼女の名は、全てを癒す薬の名としても用いられている、と。
今、目の前で行われていることを、そのものを、神と呼ぶのか、悪魔と呼ぶのか。奇跡と呼ぶのか、禁忌と呼ぶのか、破壊と呼ぶのか。それはただ、そう呼ぶ人の……。