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【四 シート打撃 前半】
 既に、シート打撃が開始されていた。
 秋月 葵(あきづき・あおい)はマウンド上で二度三度と首を振り、四度目のサインでようやく投げる球を決めた。
 バッターボックスにはブリジットの姿。
 シート打撃で、最初に登板する投手として投手板を踏んだ葵だが、いざこうしてマウンド上に立ってみると、思いのほか、神経が高ぶってきているのが分かる。
 葵は打者六人に対して投球する予定となっており、ブリジットが一人目の対戦相手だった。
 条件はノーアウト一、二塁。カウント1−1から。
 バッテリーを組む捕手は月美 あゆみ(つきみ・あゆみ)。守備は、一塁手氷室 カイ(ひむろ・かい)、二塁手影野 陽太(かげの・ようた)、三塁手イングリット・ローゼンベルグ(いんぐりっと・ろーぜんべるぐ)、遊撃手空京稲荷 狐樹廊(くうきょういなり・こじゅろう)、左翼手レティシア・ブルーウォーター(れてぃしあ・ぶるーうぉーたー)、中堅手リカイン・フェルマータ、右翼手風祭 優斗(かざまつり・ゆうと)という布陣。
 途中、アウトになって打席を終えた者が守備を交代する段取りとなっており、現在バッターボックス内で打撃姿勢に入っているブリジットも、この打席が終われば陽太と交代で二塁に入る予定になっていた。
 走者としては、一塁走者霧島 春美(きりしま・はるみ)、二塁走者ミスティ・シューティス(みすてぃ・しゅーてぃす)がそれぞれベースライン上に数歩ずつ踏み出してリードを取っている。
 このシート打撃では盗塁は許されていない為、葵としてはブリジットに全神経を注げば良いのであるが、そこはそれ、あらゆる挙動を審査対象としてチェックされるトライアウトである。
 全く無防備な素振りを見せると、それだけで悪印象をスカウト陣に植えつける可能性もあるので、一応は警戒する仕草も織り込んでおかねばならない。
 葵はちらちらと一塁に視線を送ってから、投球動作に入った。
 あゆみが要求してきたのは、内角高めの直球。
 ここでブリジットの上体を起こさせて踏み込めないように仕向けておき、仕上げは外角低めで攻めるというあたりは、セオリーといえばセオリーである。
 或いは、カウントは良くはないが、ここでブリジットが無理に振って詰まってくれれば、葵にとっては文句無しというところであったのだが、ところがここで思わぬ現象が起きた。
 あろうことか葵の投じた直球は、ソフトボールでいうところのいわゆるライズボールのようにすっと浮き上がったような軌道を描き、まるで釣り球かと思わせるような高さで食い込んできたのである。
 内角を突いていた為、形としてはほとんどビーンボールに近かった。

 ブリジットは口の中であっと短い叫びをあげながら、大きくのけぞって尻餅をついた。
 それから、驚いたような顔でマウンド上の葵に視線を向ける。見ると、葵も自分自身の投じた球に度肝を抜かれたかの様子で、投球直後の姿勢のまま、呆然と固まってしまっているではないか。
「ごめん! 全然そんなつもりじゃなかったんだよ!」
 慌てて立ち上がったあゆみがマスクを跳ね上げ、ブリジットに手を差し伸べてきながら、申し訳無さそうに頭を下げてきた。
 勿論、ブリジットとしても相手バッテリーがわざと顔面付近を突いてきたとは思っていない。
「少し苦労してるみたいね」
 いいながら、ブリジットは若干心配そうにマウンドを眺めた。
 視線の先では葵が何度も首を捻りながら手首のスナップを繰り返し、リリース時の動きを確認している。
 見るからに、何かがしっくりいっていない、という感じであった。
 それから再度気を取り直し、ブリジットはバッターボックス内で打撃姿勢を取る。マウンド上の葵があゆみとのサインの交換を終え、セットポジションに入った。
 三球目、またもや直球が真ん中低めに入ってくる。
 ブリジットはといえば、本塁上まで球を呼び込むつもりだった。コントラクター特有の動体視力の良さと圧倒的な筋力が可能にするスイングスピードで、確実にヒットで捉えようという気構えだったのだ。
 この時、ブリジットは葵の投じた球がほとんど無回転であると察した。球種が何なのか、すぐに分かった。
(フォークね!)
 だがおかしな話だが、球は無回転のまま本塁手前で落ちる筈が、一向に落ちない。ブリジットは不審に思ったが、それ以上に葵とあゆみのバッテリーの方が慌てていただろう。
 ともあれこの落ちないフォークはコースといい、速さといい、好球必打の典型のような球であった。
 ブリジットは、渾身の力で打棒を振った。このタイミングなら完璧なミートが出来る筈であった。ところが、ブリジットの手首から上腕にかけて返ってきたのは、打ち損じの嫌な手応えだった。
 真っ芯に当たった時の手応えでないのは、打ったブリジット自身がよく分かっていた。
 結果は、高々と打ち上げた内野フライ。一塁塁審が即座に、インフィールドフライを宣告した。
「オーライ、オーラーイ!」
 一塁手のカイが他を制して捕球する。落球せぬよう、素早く落下ポイントに入った。堅実なプレーを心がけているのは、スカウト陣には印象が良い。
 それにしても、落ちないフォークに呆然とする葵。そして完璧なタイミングだった筈のスイングで詰まってしまい、フライを上げてしまったブリジットの、何ともいえない不信感。
 シート打撃はいきなり予想外の混乱を含んで、その幕を開けた。

     * * *

 続く打者は、桑田 加好紘(くわた・かずひろ)
 普通にバットを携えて、普通に打席に入った。
 筈なのだが、加好紘は打撃姿勢に入る前に、球審から厳しいチェックを入れられた。
「君、メイド服ではなく、野球のユニフォームか運動着に着替えてきなさい」
「……これが、普段着なんですけど」
 加好紘も決して譲ろうとはしない。が、球審の権限は絶大なのである。その事実を、この場で思い知らされる破目となる。
「このトライアウトは公認野球規則にのっとって実施されている。野球規則にはユニフォームに関する詳細な規定も記されている。従わないならアウトとし、次打者に回すことになるが」
 さすがに、それは拙い。
 何もしないままアウトになれば、当然、トライアウトでは結果を残せないことになり、それは即ち、失格を意味する。
 結局この打席では大目に見てもらい、次打席以降、トライアウト運営本部が用意した運動着に着替える約束をさせられた。
 しかしこの厳重注意が精神的に尾を引いてしまったのか、特大の飛球を放ったものの、途中で失速した。
 リカインが素早く落下点に到達し、危なげ無く処理する。
(何だか、妙ね)
 捕球した球を内野に返球しながら、リカインは内心、小首を捻った。
 外野からはよく分からないが、バッテリーと打者の間に流れる、何ともいえない奇妙な空気が、遠目からでも何となく察知出来たのである。
 次の打者がバッターボックスに入る前に、リカインが左右両翼に合図を送って呼び寄せた。
「ねぇ、何かおかしいと思わない?」
「えぇー? あちきのところからは、よく分からなかったですけどぉ」
 レティシアは心底悩んだ風に腕を組み、斜め上を睨むように見上げてうんうん唸っていた。
 一方の優斗は、リカイン同様、異変に気づいていたようだった。
「何ていうか、明らかに何かがおかしいって訳じゃないんですけど、どうにもしっくりいってない……そんな感じですね」
 もともと彼は投手志望だったのだが、人数の都合でこのシート打撃中だけは外野にまわっていたのである。つまり、最初から投手の目でバッテリーや打者の異変に着目していたのだ。
 リカインは、遊撃手の狐樹廊にも視線を送ってみた。すると狐樹廊は狐樹廊で、僅かに肩をすくめてきた。異変に気づいている者は多いが、その実体が何なのか、まだ誰も理解出来ていない様子だった。