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我らに太平の時は無し――『恋愛訓練』――

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我らに太平の時は無し――『恋愛訓練』――

リアクション

「おやおやこれは、可愛らしいお嬢さん。そんなに急いで何処へ行こうと言うのですか?」
 薫を追いかける内に演劇の舞台へと迷い込んだ睡蓮を抱き留め、ハインリヒ・ヴェーゼル(はいんりひ・う゛ぇーぜる)は囁いた。
「しかし、見れば見るほど可愛らしい。貴女のように愛らしい方をこのまま逃すのはとても惜しい。どうでしょう。私と共に、ここで甘い愛を交わしませんか?」
 ここはあくまでも演劇の舞台。ならば『禁句』もただの台詞の一つに過ぎず、訓練の実力行使が及ぶものではない。
 そう主張する彼は構わず憚らず、睡蓮へと愛を語る。
「え、あ、あぅ……でも私今急いでて、それにお付き合いしてる人も……」 
「では何故貴女は一人でいるのですか? 私ならば、貴女ほど可愛らしい人を放っておくなんて絶対にしませんよ?」
 自称とは言え、教導団一のナンパ師。手練手管は、それなりのものだ。
 睡蓮の瞳に浮かぶ寂寥の情を見抜き、ハインリヒは彼女を肯定する言葉を述べる。
 自尊感情を損なった彼女の美しさや、ひいては人格を認めるように。
 自分と言う存在は、彼女と言う存在を認めてあげているのだと伝える為に。
「あ……うぅ……」
 誰だって、自分を否定する人間よりかは自分を肯定してくれる人間と一緒に居たいものだ。それは人間ならば誰であろうと持ち合わせている心の仕組みであり――故に、睡蓮の心は揺れ動く。
 彼女の脳裏で、様々な物が渦を巻く。目の前の男の甘言、恋人との思い出。前者を受け入れるのはとても容易く心地よく、だが後者は捨て難い物でもある。
「……惑わされてはいけませんわ! その男は恋心を騙る悪魔、稀代の女垂らし! 彼の目的はあくまでも女性を口説き落とす事であり、貴女の心の安寧などではありません!」
 睡蓮の懊悩を断ち切ったのは、ハインリヒのパートナー、クリストバル ヴァリア(くりすとばる・う゛ぁりあ)だった。
 彼女は演劇こそ多くの恋人達が『禁句』を気にせず愛し合える場として黙認したが、しかしその奥に潜むハインリヒの下心までは看過しない。
「さあお逃げなさい! 貴女にはそのような輩よりも相応しい人がいるのでしょう! ならばここで足を止める理由などありませんわ!」
 長台詞を滔々と語りながら彼女はハリセンを振り下ろし、その軌跡で睡蓮とハインリヒを分断する。
「ほう、邪魔立てするならば幾らパートナーと言えど容赦はしませ……って、うぉおい!? 何で撃ってきてるんですかあ!?」
 彼の声を遮るようにして銃声が響き、弾丸が足元で跳ねる。
 見てみれば教導団の嫉妬の徒が銃を携え、劇の舞台に乗り込んでいた。
「っ! これはあくまで劇の一環、貴方々が武力を行使する口実には……」
「だったら俺達も劇の一環だな! 悪魔にはそれを滅ぼす討伐隊が必要だろ!? まあ安心しろ、流石に殺傷弾は使わねえからよお!」
 ハリセンと銃弾の嵐に襲われ、為す術なくハインリヒは――恋心を弄ぶ悪魔は討ち果たされた。
 演劇としては、めでたしめでたしのハッピーエンドなのだろう。


 椿 薫は逃走を図るも虚しく、クズキリマルとテルヨシに捕縛されていた。
 そもそも覗きとは見つからない事が前提であり、逃走は覗きの埒外なのだ。
 ハインリヒにつかまっていた睡蓮も追いつき、薫はカメラとフィルムを出すよう再度迫られる。
 だが、やはり彼はカメラなど持ってはいなかった。
「もう、急に走り出すだなんて、一体何があったんですか?」
 そこにナディアと鶴姫が現れる。一体何事があったのかと、出歯亀に関しては中断したらしい。
 ふと、その場の皆の視線がナディアに注がれる。彼女が首に掛けた、カメラに。
 視線を感じて、ナディアはカメラを抱える。
「あ、これですか? 実はですね、輝寛さんのナンパの記念にって……どうかしましたか?」
 沈黙が場を包み、それから溜息が幾つも重なった。



 ケーニッヒ・ファウスト(けーにっひ・ふぁうすと)アンゲロ・ザルーガ(あんげろ・ざるーが)は横並びに、互いの肩が触れ合わんばかりの距離で歩いていた。
 名から察するように、二人はどちらも男性である。とは言え戦闘と訓練に明け暮れていた二人に異性の恋人などいる訳がなく、やむを得ず男二人で訓練に参加したのだ。
 ――と言うのは、ケーニッヒの考えだ。実の所を言うならばアンゲロは、ケーニッヒの事が好きだったのだ。
 もっと有体な表現をすれば、アンゲロ・ザルーガは同性愛者であった。この訓練に参加したのもアンゲロの提案であり、彼としては訓練の名目で「仕方なく」だとしても、ケーニッヒと愛を語りたかったのだ。
「……な、なあ、俺の事……どう思ってる?」
 幼い少女のような恥じらいを所作の端々に覗かせながら、アンゲロは尋ねる。
 対してケーニッヒは、彼に携帯電話を受け渡す。
 画面に表示されていたのは、音声データとその再生ボタン。
「しっかり耳に押し当てて聞くんだな。音漏れがしたら意味がない」
 ケーニッヒの忠告に頷いて、アンゲロは音声データを再生する。
 彼の耳に囁かれるのは、予め録音された『禁句』の言葉。
 戸惑い陶然とした表情を浮かべるアンゲロに、ケーニッヒは内心で関心を抱く。自身は役に立つのか怪しいと訝しんでいるこの訓練に、アンゲロはとても真面目に取り組んでいるのだなと。
 アンゲロが抱く恋心には、露ほども気付かずに。
 そして初めこそ隣に立ち予め用意された愛の言葉にアンゲロは感動を覚えていたが、人は欲張るものだ。次第に彼は自身の恋心を告げ、ケーニッヒから直に愛の言葉を受ける事への願望を、抑え切れなくなっていた。
「……もう一回、俺をどう思ってるか。教えてくれないか? ……いや、メモや録音じゃなくて、お前の口から」
準備した物を取り出そうとするケーニッヒを制して、アンゲロは零す。
「……? 何言ってんだ。それじゃあ訓練失敗だろう。役に入り込むのはいいが、それは無理だ」
 しかしケーニッヒの口から紡がれたのは愛の言葉などではなく、遠回しな――本人に自覚はないとは言え――アンゲロなど恋愛対象に無いと告げるも同然の意だった。
 アンゲロは苦渋の嘆息を零すも――高ぶった恋心の燻りは今更収まりがつく物ではない。半ば自暴自棄に、勢い任せに、彼は叫ぶ。
「何だよ訓練訓練って! そりゃアンタにとっちゃ訓練かも知れないけどな! 俺にとっちゃこれはデートなんだ! 大好きなアンタとのデートなんだよ!」
 秘めたる愛を、禁句たる言葉を。
 周囲の視線は彼の心情とは裏腹に冷たく、更には明らかに乗り気で無さそうではあるものの、教導団の実行委員が禁句を聞き付けて集まってきていた。
 やむを得ず、二人は逃げ出す。
 アンゲロの告白に、ケーニッヒはどう応じるのだろうか。
 受け入れるのか、拒絶するのか。無かった事とするのか。或いは先程の叫びさえも演技の内なのだと勘違いする事もあり得るだろう。