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鏖殺寺院の砦

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鏖殺寺院の砦

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9:その後

 時系列は少し飛ぶが、その後のことについて記しておきたいと思う。
 街の住人だが、半年に渡る治療の結果洗脳は解除され、民主主義と資本主義を受け入れた。
 その後街に帰ると自衛隊が設置した浄化水槽が至る所にあり、安全な飲水が確保された。
 また、寺院拠点跡には自衛隊の航空基地が整備され、物資が常に充足される状態になった。
 一ヶ月ほど野外炊飯車両が活躍し、その後ガスインフラの再整備の公共事業で住民はコインとパンを得た。
 野外炊飯車両と陸自の一部部隊が惜しまれながら現地から去ると、住民は手に入れたコインで洗濯機を購入した。
 そして野外洗濯車両と陸自の一部部隊がまた惜しまれながらこの地から去っていった。
 そして代わりに、重機を搭載した輸送機と陸自がやってきた。
 一年の年月をかけて上水道と道路の整備が行われると、浄化水槽が撤去され、また一部の部隊が惜しまれながら去った。
 さらに日本の農業支援でバイオプラントが整うと自衛隊は帰っていった。
 そしてこの街がもともと所属していた中東の国に帰属すると、その日が祭日として指定されるようになった。
 ちなみに自衛隊の基地は国際空港として再利用され、この街は重要な玄関都市となった。
 それから、学校が整備され、そこから進学のためにシャンバラに移民する人々が現れた。
 そしてこの街は鏖殺寺院から完全解放されたモデルケースとしてその後寺院から解放された多くの都市の先達として模倣されるようになった。そしてそこには必ず自衛隊の姿があった。
 鏖殺寺院の支配から解放されれば、時間と金はかかるが完全に自由になれるという、その見本として、この街は常に人々の目標で在り続けた。戦後奇跡の復興を遂げた日本が新興国の目標になったように。
 そして自衛隊も戦災都市の復興要員としての重要な位置を占めたのである。少しずつ、住民の自助努力を支えながら発展に導くという手法は、イラクの頃から確立されたモデルではあったが、それがここに来て再認識されたのである。