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砂時計の紡ぐ世界で 前編

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砂時計の紡ぐ世界で 前編
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「──きれい、だね」
 どのくらいそうしていただろう、湖面に広がる虹を見つめながら、静かにアルカネット・ソラリス(あるかねっと・そらりす)の口をついて出たのはそんな、見たままありのままの気持ちの呟きだった。
「いつか消えちゃうから……きっと。きれい、なんだよね」
 彼女の手の中には、ぬくもりがある。
 繋いだ掌から、彼女はそれを感じている。
 兄が、喪われたはずのいとしき相手が今だけは隣で繋がりあっていてくれるから。
「アルカネット、様」
 ここにいるのは、四人だ。
 いるはずのないふたりと──そのふたりを望んだ、ふたり。
 アルカネットのパートナーである神威 雅人(かむい・まさと)もまた、自らの過去と向き合い、もはや存在しえないはずの想い人と掌を重ねあっている。
 雅人と身を寄せ合う、死に別れた恋人──神村 ノエル。そして、アルカネットが兄、エルリック。
 ふたりが、彼ら、彼女らを見た。
 流れていく川、湖へと注ぐその岸辺からも、虹ははっきりと大きく望んでいる。
「今日は、ありがと。兄貴。幻でも、嬉しかった。会いたかったから」
 まさか現れて雅人が自己紹介するなり、襲い掛かるとは思わなかったけど。
 ちょっとした暴走をした兄に苦笑しながら、ぽつぽつとアルカネットはひとつひとつ、確かめるように言葉を並べていく。
 その頬は、いつしか濡れていた。零れ落ちる涙は──実感をしていたから。
 間もなく訪れるであろう、再びの永訣の予感を。
「アルカネット」
「大丈夫、だよ。あたしたちは大丈夫、兄貴。……雅人が、いてくれる。だから、大丈夫」
 その言葉は、気遣う兄に向けたものだったのか。それとも、兄との別れに臨む自分に言い聞かせるものであったのか。
 自分自身、わからない。
「そう、ですね。きっと、大丈夫です」
「雅人……」
「アルカネットは、俺が護ります」
 様、ではなく。アルカネットを。
 それは現パートナーから、かつて彼女の隣に立っていた者に対する宣誓だった。
「……そう。そう、なのね」
 ノエルが、抱くように握っていた雅人の手からそっと、力を抜いた。
「ノエル」
「ええ、雅人。あなたは──正しいわ」
 そして彼女は歩いていく。同じく亡き者である、エルリックのもとへ。
 生ける者と死せる者。二対二に、両者が分かたれる。
「だから私は、逝くわ。この人と、ともに」
 ノエルが腕をとった瞬間、エルリックは驚いたように目を見開いていた。何度か、彼の瞼が上下する。
 いたずらっぽく、三人にノエルは笑顔を見せる。
「ああ──……それも、いいかもしれないな」
 やがてエルリックはそう、呟いた。
 たしかに死者の二人は並んでいて、お似合いであるようにアルカネットたちにも見えた。
「これもきっと、運命だから。生き返ることは──できないのだから」
 言ったノエルが、エルリックが、光に包まれていく。

     ◇   ◇   ◇

 これで一体、何組目だろう。幻想に身を委ね、そして再びの別れに身を焦がしていったのは。
 無粋なことをしている自覚はある。だが……彼らは、彼女らはほんとうにあれで満たされるのだろうか?
 そんな風に思ってしまうから余計に、そんな人たちのことが目に留まり、発見してしまうのかもしれない。九十九 昴(つくも・すばる)は、そう思った。
 思わず見つけるたび、物陰に身を隠してしまうのは罪悪感があるからに、違いない。批判する資格など、ないのだ。昴自身も、ともに行動している相棒、九十九 天地(つくも・あまつち)にしても。
 だが、それにしても、と昴は思う。
 目を向ける先には、湖畔に佇むひとつの小屋。まるで幻想の産物であるとも見えぬそれもまた──人の願いがかたちになったものだった。
 あんなものまで、生み出し作り上げてしまう。『回帰の砂時計』という女王の器は。
 それが、どんな願いであったとしても。
 たとえ矛盾があったとしても。その矛盾や違和感を、気付かせぬまま。存在しないものをあるように見せるという矛盾を孕み続ける。
 そして気付いたとき──矛盾のぶんだけより儚く幻想は終わり、もろく砕け散った破片が願った者を傷つけていく。
 矛盾による痛みが、あとには残るのだ。
 自然ではない。そう、感想を抱かずにはおれない。
「あら」
「?」
 天地の声に、我に返る。
 彼女の見ているほうを、見る。
「……あれは……」
 小屋の扉が、開いていた。
 先に出てくる人間の背中には、翼があった。
 フェイミィ・オルトリンデ(ふぇいみぃ・おるとりんで)。彼女に手を引かれ、浮かぬ顔で続くようにして──もうひとり、外へと姿を現す。
 彼女は。リネン・エルフト(りねん・えるふと)は、浮かれた様子のフェイミィとは対照的だった。
 遠目であっても、それがわかる。ゆえに天地と昴は理解する。もうじき、矛盾が幻想を砕き散らすことを。
 その瞬間が、彼女たちに訪れようとしているのだと。
「やっぱり、これは……幻、なのね」
 静かな湖畔の風に乗り、二人の声は昴たちのもとまで届く。
「リネン?」
「あるはずないってことは、わかってた。……わかってたのに、ね」
「どうしたんだよ、リネン?」
「おかしいと、思わないの?」
 不思議そうに首を傾げたフェイミィが、リネンの肩に手を回そうとする。リネンは彼女の手をとって、下ろさせて。その行為を拒絶する。
「私の見ていた幻想には、姉と母しかいないはずだった。なのに、当たり前のようになぜだかオルトリンデ、あなたがいて。最初は疑問を感じなかった。だけど……気付いてしまったら、そうはいかないのよ」
「なに言ってんだよ、俺たちまだ、結婚したばっかで……っ」
「してない!」
 強くリネンは叫び、首を横に振る。彼女の剣幕に、フェイミィは言葉を途切れさせる。
「してるはずが、ないのよ。私が私で。オルトリンデが、オルトリンデであるかぎり。それを望むことは私には、ない。だから……ごめんなさい、夢から覚めさせてしまって。でも」
 でも、この夢を。幻を砂時計が紡いでいるのだとしたら。
 砂時計の砂は、いつか落ちきってしまうものだから。
 ──時計の針はまた、ぐるり一周すればゼロへと戻ってしまうから。
「そのいつかが、きてしまったのよ」
 夢は、覚めてしまう。
「皆のところに、戻りましょう。もとの世界に帰る方法を、探しましょう?」
 ハッとしたように、フェイミィもまた強く大きく、目を見開く。
 それは、夢の終わりの実感。彼女たちの足場を成していた矛盾した願いの交差が、ほどけてしまった瞬間。
 家族との、幸せな生活。リネンのその夢と。
 愛する相手との、結婚生活。フェイミィの抱いた願いが、無理やりに結び付けられていた互いから、離れてゆく。
 二人の背後にあった小屋が、風化していく。光の粒へと、分解されていく。
 こうあるほうが、自然であったのだ。
 今までそこにあったものは──夢であったのだから。

     ◇   ◇   ◇

 その女の子は、誰。彼女の心を、その疑問が埋め尽くしていく。
 矛盾の連鎖はそして、ひとつきりではなかった。
 前例が意識の矛盾であったとするならば、今度は──……存在の矛盾。
「……アスカ。あれって」
 隣に蒼灯 鴉(そうひ・からす)を従えた師王 アスカ(しおう・あすか)は、声も発せずに立ちすくんで、見つめていた。
 むこうに、一組の人影。オルベール・ルシフェリア(おるべーる・るしふぇりあ)が少女へと伸ばした手が止まっていた。
 彼女の前に佇む、幼い女の子。その顔と雰囲気はどこか、アスカに似ていて。
 もしかして、という想いがあった。そしてそれはなぜだろうか、アスカには少し、恐かった。
 それは、自分の自覚にない、知らない記憶だから。
「アスカ」
 今度は、鴉の声ではない。自分を、呼ぶ声でもない。
 たった今。オルベールは目の前の女の子のことを「アスカ」と、そう呼んだ。
 あの女の子が、アスカ──私、なの?
 どうして過去の自分が、相棒の前に立っているのだろう?
 それは、きっとオルベールが望んだから。でも、なぜ?
 自分は。アスカはかつて、相棒となるより以前にオルベールと、会っている──……?
「会いたかった……アスカ」
「あ……っ」
 オルベールは、見守るふたりに気付かない。そして彼女は、あどけない顔できょとんと見返してくる、小さな「アスカ」をその両腕に抱く。
「今のあなたは、あの『悪夢』より前のことはなにも覚えていないかもしれない。だから。──だから、昔のあなたに、たとえ幻であっても伝えたい」
 太陽の光を受けて、きらりと輝くものが地面に落ちた。
 泣いている。オルベールの、涙。
「アスカ。もういい、見るな」
 オルベールが「アスカ」を抱いているように。
 鴉がアスカを抱いて、視界を埋め尽くす。
 彼の服がじんわりと湿った感触がして、アスカは自分もまた、泣いていることに気がついた。
 彼女の言う、『悪夢』ってなに。
 過去の私は、今の私にない思い出を持っていたの?
 ぐるぐると、世界が回っているような錯覚に陥る。自分の立っている場所すら、よくわからない吐き気にも似た感覚。
「愛してるわ、アスカ。ずっと、守るから。これからも、いつまでも」
 その混乱の中で、たとえ自分でなく「アスカ」に向けられたものであってもパートナーのその呟きが、かすかな光であるようにアスカには、思えた。
 想いながら、しかしオルベールの邪魔にならないよう。
 鴉の胸の中で、声を殺して泣いた。
「……ベル、お姉ちゃん」
 その呟きも、無意識のうちに発したものだった。

     ◇   ◇   ◇

 もうそろそろおしまいなんだね、と。紡ぎ出された声は震えていた。
 声を吐き出したミーナ・ナナティア(みーな・ななてぃあ)の頭上を、ふたつの飛行機雲がまっすぐに伸びていく。
 ミーナのそんな声を聞くのが、たまらなかった。耐えられなかった。だから長原 淳二(ながはら・じゅんじ)は身を潜めていた木陰から、思わず出て行こうとした。
「っ?」
 その腕を、掴むものがある。
 南 白那(みなみ・はくな)の手が、淳二を行かせない。無言で彼女は首を左右させ、行くなと言外に告げる。
「ごめんね。会えて、嬉しかった」
 ミーナの隣には、人影があった。……人影であったものが、というべきか。
 数瞬前までははっきりと人の姿をしていたそれは、もうここからではぼんやりと人型をした、光の集まりのようにしか見えない。
 聞いてしまった会話の流れで、それがミーナの初恋の相手だと知った。
 そして、見えた顔に驚いた──自分との、あまりの瓜二つぶりに。
 ほぼ同時刻、異なる場所でよく似た相手とパートナーの織り成す光景に愕然とする少女がいたことを、淳二は知らない。
 けれど、そのパターンとだって違う。今はもう亡きはずのその人物は、「現在の」淳二とほぼ、同年代。あれが淳二であるはずがない。
「ミーナ……」
 向こうにいるパートナーに聞こえるはずのない声を淳二は呟いた。
 片寄せあっていたミーナと光の集合は、いつしか互いに抱き合っていた。
 ミーナが抱きしめ、ミーナを抱きしめていた輝きが霧散していく。虚空へと、広がっていく。
 光が、完全に消えうせる。
 腕の中になにもなくなっても、その残り香をいとおしむようにミーナは自分自身を抱きしめていた。
 その膝が、折れる。
 啜り泣きが、慟哭が──青空に、響き渡った。