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雪の季節の恋の病

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雪の季節の恋の病

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2/〜それぞれの養生〜

 ほんの少し前まで、キッチンの状況はひどい有様だった。
 どうしてかというとそれもすべて、このセルファ・オルドリン(せるふぁ・おるどりん)が原因であったり、するのだけれど。
「……えっと。ごめんね、真人」
 ぺたんと座り込んで膝を抱える彼女の前で、恋人がベッドに眠っている。
 御凪 真人(みなぎ・まこと)。風邪をひいて寝込んだ彼のためにと意気込んで、勢いよくキッチンに立ってみたはいいものの。
 結果は、大失敗。お粥の、塩と砂糖は間違えるわ、思い切り吹きこぼすわ。しょうが湯を作ろうとして、とろみのつけ方がわからず出してみた片栗粉を盛大にぶちまけてしまうわで、散々だった。
「あ、……ははっ。失敗しちゃった。もうちょっとどうにかなると、思ったんだけどなぁ」
 寝息を立てる彼に向かい、苦くセルファは笑う。
 さんざ、失敗した挙句。具合の悪い彼に片づけをさせてしまった。
 気にしないでください。そう言って精一杯笑い、床に就いた彼に対し、照れ隠しに悪びれない、冗談交じりのごめんなさいしかできなかった自分に、セルファは少し胸がちくりと痛む。
「ほ、ほんとはね? 真人に元気になってほしくて。それでっ」
 寝入ったばかりは苦しげだった彼の寝息は、いつしかすやすやと穏やかなものに変わっている。
「──うまくやれなくて、ごめんなさい」
 そんな彼に、自分が一体なにをしてやれるだろう? 俯きがちにセルファは思う。
「あ、そういえば」
 このところ流行っている風邪はたしか、ウイルス性のものじゃあないことが多いって。
 あったかくして寝る以上に、より効果的なのは──……。
「キス、だって」
 言葉を口にした瞬間、思わず赤面している自分がいた。ぶんぶんと顔を振って、余計なイメージ映像を脳内から払拭しようとする。
 そんな。こんなときに。不意打ちみたいなキスなんて。そもそもこの風邪がそれで治るものだなんて、限らないじゃないか。
 ダメだ。ダメダメ。そんなの、ダメ。するべきじゃあない。バカみたい。一体なに、考えてるんだろう。
「ごめん。ゆっくり休んでね、真人」
 赤くなった頬を押さえながら、セルファは眠り続ける彼にそう言った。
「──?」
 直後。真人の部屋の外、扉の向こうから大きな、がたんという音が騒がしく、聞こえてきた。
 なんだろう。セルファは思わず腰を上げる。
 彼を起こさぬよう、足音を殺して玄関まで出て。サンダルをひっかけて、扉を細く開く。
「えっ?」
 そこには。扉の正面には、人が倒れていた。
 そしてその倒れている人に──抱え起こして、キスしようとしている人が、いた。
「なっなななな! なにやってんですかこんな時間からこんなとこで一体っ!?」
 そりゃあ、慌てる。びっくりもする。思わずドアを目いっぱい、押し開く。
 セルファの発した声に、助け起こしている側の少女、フレンディス・ティラ(ふれんでぃす・てぃら)がびくりと、そして恐る恐る振り返る。
「す、すいません……っ。マスターが、マスターがっ」
「???」
 彼女の膝の上では、額に汗を浮かべて、パートナーのベルク・ウェルナート(べるく・うぇるなーと)が苦しげに、具合悪そうにうんうん唸っている。
「その人。どこか具合でも」
「もしも」
「へ」
「もしこのままマスターが治らなかったら私の責任です……。私如きの……その、き、キスで治るのでしたら……が、頑張ってみます……やってみます!!」
 どうしたのかと、声をかけようとした。しかしそれより早く、ベルクを抱えてフレンディスはすっくと立ち上がる。
「ですからさあ、行きましょう、マスター!」
「あ、ちょっと」
 そのまま、彼女はどこかへ駆け出していく。呼び止める声も耳に入ってはいない。
 取り残されたセルファは、ぽつんと、その場で後姿を見送った。
「えっと。お大事に? で、いいの?」
 風邪の治し方って、人それぞれなんだなぁ。



 そう。人それぞれ、なんである。
 これらも、そんな手段のひとつひとつ。

 清泉 北都(いずみ・ほくと)は、ただいま現在進行形で塞がれている自身の唇に戸惑っていた。
 重ねられている触感の正体は──持ち主は。突然、おもむろに部屋へとやってきた。
 どうも体調がすぐれなくて。発熱と、頭痛と気だるさとでとっとと帰って寝ていたその部屋に突如現れた訪問者は、北都自身のパートナー、クナイ・アヤシ(くない・あやし)であり。
 朝のうちから、うつるから来るな、と言っておいたはずだった。
 そのクナイが敢えてやってきた。どうしたのかと、訊く暇もなかった。
 ただ無言に。一直線にベッドサイドへとやってきたクナイが、北都へと唇を重ねたのだった。
 短いようで、長い口づけ。その口と口とが今、静かに離れていく。
 クナイは上目づかいにじっと、こちらを見ていた。
「だめだよ。風邪、うつっちゃうよ」
 事態を呑み込めないままに、クナイへと北都は窘めるように言う。うつしたくないから、来るなと言ったのに。
「なんとも、ないですか?」
「? ……なんともって。……え? あれ?」
 クナイの言葉に、首を傾げる。と同時、身体から倦怠感や、頭痛や。それらの症状がすっと引いていくのがわかる。
「あれ? おかしいなぁ。これって、一体」
「よかった。ほんとうに、教えてもらったとおりですね」
「え?」
 モーベットの言ったとおりです。安心しました。
 もうひとりのパートナー、モーベット・ヴァイナス(もーべっと・う゛ぁいなす)の名を出して安堵のそぶりを見せるクナイ。一層、なんのことやらわからない。
「どういうこと?」
 率直に、そう訊くしかなかった。モーベットが、どうかしたのだろうか?
「あなたの風邪は、普通の風邪ではなかったってことですよ」
「普通じゃ、ない?」
 巷で噂の、風邪を引き起こす地祇さんが原因だとか。クナイは続ける。
 治すためにはキスが特効薬だった。だから、キスをした。そういうことらしい。
「なるほど」
 言って、北都はちらと柱の影を見る。いつの間にそこにいたのか、眼鏡の男がこちらを覗き、笑っている。モーベット──彼の差し金がうまくいったか、観に来たのか。
「そういうこと、だったんだね」
「はい」
 だったらする前にそれ、言ってよ。モーベットと視線を合わせつつ、深々とため息を吐く。あちらは満足げに頷いているのが、少し癪だ。
 だが、まあ。おかげで具合がよくなったということも事実だ。そのことについては感謝しなくては。
「ひとまず、モーベットにもクナイにも、どっちにもありがとう、しないとだね。それに……」
「ね。それよりもう、具合は平気なんですか?」
「え? うん。それはもう」
 大丈夫だと思う。まさかこんなに急激に治るなんて、まるきり思いもしなかったけれど。
 あとはもう一晩ぐっすり眠って栄養をとれば、消耗した体力もばっちりだろう。
「だったら、うつる心配はありませんよね?」
「え……うん?」
 応じた北都の言葉に、クナイがベッド上にかがんで身を寄せてくる。
 そして、額を北都の肩に預けて、言った。
 ──……今夜。一緒に眠って、いいですか。



 また、あるいは。

 すやすやと、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 ベッド上のギルベルト・アークウェイ(ぎるべると・あーくうぇい)はどうやら無事に眠りに落ちることができたようだった。
 体温計の示す温度も、微熱にまで下がっている。東雲 いちる(しののめ・いちる)はほっと、安堵の息をつく。
「って。油断しちゃダメですね。そろそろタオル、換えないと」
 ギルベルトの額に載った濡れタオルが、そろそろ温くなっている頃だ。彼の顔へと、そっと手を伸ばす。
 タオルを持ち上げると、彼の無防備な寝顔が目に入った。
 ところどころ、汗をかいている。乾いたタオルも用意したほうがよさそうだ。
 思いながら。タオルを冷たい水に浸しながらも、しかし彼女はパートナーのあどけない眠り顔からじっと、目を逸らせずにいて。
「……キス。すれば治る……んですよね?」
 絞ったタオルを胸の前に抱いて、ぽつりと呟いた。その自分自身の呟きに、どぎまぎとしていた。
 すぐそこに、彼がいる。
 眠っている。気付かない。……何をやっても?
「っ……」
 逡巡は数瞬。
 きょろきょろと、他に誰がいるでもない部屋の中を見回す。カーテンが閉まっていること、扉に鍵がかかっていることを、見る。確かめる。
 深呼吸、ひとつ。きっかり五秒間、心の準備をして。
 首をもたげた欲求に起因する衝動を受け入れ、彼女は意を決した。──唇が、もうひとつの唇と交わったのは、次の瞬間だった。
「こ。これで、これで、治るん、ですよね?」
 タオル、タオル。真っ赤な顔で、乾いたタオルをとりにいくためにそそくさと彼女は立ち上がる。自分自身の唇を指先で、押さえながら。
 いちるは知らない。気付く余裕なんて、なかった。自分の抱いた気恥ずかしさで、いっぱいいっぱいになっていたのだから、無理もない。
「……」
 ギルベルトが、実は寝てはいなかったこと。寝たふりを、していたことを。
 彼の鼓動もまた熱や体調とは関係のないところで高鳴っていたことに、気付かない。



 そして、ここも……?

 片手鍋の中で、白い液体がこぽこぽと沸騰し、湯気を上げている。
 膜が張らないように注意しながら。黒崎 竜斗(くろさき・りゅうと)はしゃかしゃかと、弱火の温めている牛乳を先の曲がった泡立て器でかき回す。
 ふんわりした泡が全体に浮かんだところで、火を止める。カップに注いで、蜂蜜を少し浮かべて、それで出来上がり。あたたかい蜂蜜ミルクの完成だ。
「できたぞ」
 竜斗の差し出したカップを、パートナーのユリナ・エメリー(ゆりな・えめりー)は両手で包み込むようにして受け取る。
「どう? 熱くないか?」
「大丈夫、です。お熱はちょっとまだ、暑いですけど」
「仕方ない。熱が今、風邪の菌を殺してるんだから。我慢しないとよくならない」
 ベッド上に身を起こし、風邪ひきの彼女は微笑を作る。パジャマの上に羽織ったカーディガンがずり落ちそうになっているのに気付き、竜斗はそれをかけなおしてやる。
 あったかく、しておかないと。
「……おいしい」
 やさしい、味がします。
 言う彼女の頬は、発熱に上気していて艶っぽい。瞳も潤んでいて、なんだか目のやり場に困って、竜斗は頬を掻く。──と。

 ごんっ、と。どこかで、遠くで。そんな、なにかを殴りつけるような鈍い音が聞こえたような気がした。

「「……?」」
 はて、聞き間違いだろうか? 思わず竜斗は腰を上げる。ユリナもきょとんとして辺りを見回しているところを見ると、けっして竜斗ひとりの空耳ではないようだが。
 カーテンを開けて外を見るも、回答はそこにはない。
「なんだったんだ? 一体」
 ベッドの上のユリナとともに、竜斗は首を傾げていた。
 一体どこから。なにが、聞こえてきたのだろう? あの音は、なんだったんだろう。
「聞こえた?」
「はい。なんだか、鈍い音が。ごつん、って」
 聞こえるはずのない音が──聞こえた?

 そう。答えは、まさにその通りなのである。



 竜斗たちの部屋からずっと遠く、かなり遠く。
 なぜだかはわからないけれども、彼らの聞いた音は、聞こえるはずもない距離にもかかわらず、気のせいではなかった。
 なぜならば。その証拠に、めり込んでそそり立っている男がいる。
 たった今まで自分が横になっていたベッドに。きれいなまでに垂直に、だ。
 天井には、ヒビ。木本 和輝(きもと・ともき)は自らのパートナー、封神 鬼叉羅(ほうじん・きさら)に殴られた勢いのままに、不本意にもベッドのマットレスへと見事なまでに聳え立つ羽目になっていたのである。
「なんでさ……」
「当たり前やろっ! い、い、い、いきなし何言い出すか思たら!」
 顔面から布団に埋まったまま、搾り出すように言う。どうどう、と四季 椛(しき・もみじ)に抑えられながら、彼をそうした張本人の鬼叉羅が怒鳴り返す。
「き、きき、キスしろやて!? 熱で頭まで湯だっとるんとちゃうか!? 氷風呂に叩き込んだろか!?」
「いやね、だからね、病人だからそれ治すためにね? 思いっきり殴ることないんじゃないかってね?」
 それにこの体調で氷風呂なんか入れられたら多分、死んじゃう。
「おふたりとも、落ち着いて」
 最近流行っている風邪を治すのにはキスが有効らしい、という話は和輝だけでなく残るふたりも耳にしている。しては、いるのだが。
「でも和輝さんの風邪がそれで治る風邪とは限らないですよね?」
「うぐっ」
「せや! そーゆうこと! なーに、ちょっといい思いしよ思とんのや! あこぎなこと考えなや!」
「うっ……」
 じゃあ、椛。椛でもいいからさー。集中砲火に耐えかね、ベッドに突き刺さったまま懇願する和輝に、いい加減引き抜けばいいのに、と思いつつ椛は踵を返しキッチンへと向かう。
 無論、彼の言葉は華麗にスルーして。聞こえていないふりで、後ろ手に扉を閉める。病人なのに、元気なんだかそうでもないんだか。
「……それにしても」
 風邪薬と、冷ました白湯とを準備しながら、ふと思う。
「例の地祇さんの使い魔さんというのは、捕まったんでしょうか?」
 ついでに自分たちのぶんのお茶も。茶筒の蓋を開けると、まるで竜斗がそうしていたように、茶葉の山の中に茶さじが垂直に、突き立っていた。