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【蒼空ジャンボリー】 春のSSシナリオ

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【蒼空ジャンボリー】 春のSSシナリオ
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リアクション

 空中庭園の外周を流れる川をゆらゆらと進む1艘(そう)のゴンドラ。
 セルマ・アリス(せるま・ありす)はその舳尾に立って、船頭をしていた。
 船頭といっても、特に技を必要とするものではない。水の流れは計算されており、カーブもゆるく設計されている。川辺にはカヤのような植物が密生していて、もしものときにはあれがクッションの役割を果たしてくれるのだと説明を受けた。空中庭園の内側にある滝からの川筋に合流するときだけ注意して、と。
 彼はただ、あまり端へ寄らないようにときおり櫂を入れればよかった。
 ゆっくり、穏やかに流れていく、まるでモネの絵画のような景色。
 周囲から嗅ぎ取れるのは濃い緑と土のにおい。そしてさらさらという小さな水のせせらぎだけが彼を満たす。
 やすらかで、ゆるやかで。まるで時が止まっているかのよう。
 腰かけているリンゼイ・アリス(りんぜい・ありす)もきっと、同じことを感じているに違いなかった。
 そっと片手の指先を流水につけて、その感触を楽しんでいるように見える。
 彼女の手。
 ずきり、とセルマの胸の奥で鈍い痛みが起きる。
 もう慣れてしまった痛みは、もはやはじめのころのような鋭い切っ先で彼を傷つけることはない。ふさがらないまま放置された傷口の存在を、そうして彼に自覚させるだけ…。
「なんですか? セル」
「えっ?」
 突然名を呼ばれて、セルマはあわてた。
 長く見つめすぎたのか。しかしリンゼイはそんな彼を咎めるように見返してもいないし、声にも不機嫌なところはない。
 彼女が自分の言葉を待っている。そのことに少し勇気づけられる思いで、すうっと息を吸い込み、言った。
「えっと……前にさ、俺が……リンの腕を傷つけた理由、思い出したくない……って言ったの、覚えてる?」
 リンゼイは答えない。が、視線が川から離れて彼の方を向く。
 それを肯定と見て、セルマは続けた。
「あれは………………嫉妬、だったからだ」
 また傷口がズキッと痛む。今度は前よりも鋭さを増して。
 しかし今度はその痛みを歓迎した。
 膿んだ傷は切開しなければ治らない。
「嫉妬?」
 意外そうにリンゼイが口にする。
 いろいろ考えてはみたけれどそれには思い至らなかったというように、少々驚きも加えて。
「そうだ。僕は、リンに嫉妬してた」
 リンゼイだけを見る父。自分を見てくれない父。
 なぜ? あなたにはほかにも子どもがいるんですよ? あなたの息子は僕です。普通父親というものは、息子をかわいがるものではないんですか?
 ――今思えばおろかなことだ。息子であれば、子どもであれば、それだけで父に愛してもらえると思っていた。
 いや、その意味では父親もそれなりにセルマのことを愛していただろう。ただセルマに見えなかっただけだ。それ以上のものを与えられている存在がすぐ目の前にいたから。
 何もしなくても与えられるものなどに価値はないと、なぜ気付けなかったのか。
 それ以上がほしいのであれば、努力するべきだったのだ。それは、父と話すことでもよかっただろう。けれどセルマはそのために努力することを放棄していた。あの父とは無理だと。何ひとつ、懸命に努力して成すことも、成すために指1本動かすことすら、彼はしなかった。
 そのくせ、与えてもらえないことを不服に思い、与えられているリンゼイがまぶしかった。
 強い光は病んだ心をいら立たせる。そしてその輝きゆえに無視もさせてくれない。
 彼女の努力は見えなかった。ただ光り輝いているだけに見えた。そしてその強い輝きで苦もなく父の目を奪っているのだと。
 あのとき、セルマにとってリンゼイこそ「何の努力もしないで父の注目を得ている者」だった。
 殺したかったわけじゃない。あの光の元さえ絶てば、彼女もまた自分と同じ存在になると考えただけだ。
 だから斬りつけた。
「ばかだね……。なぜ、きみと同じになりたいと思わなかったんだろう? きみを引きずり下ろせばいいなんて、どうして考えたりしたのか……」
 卑怯と罵られるかもしれない。ひとの人生を変えてしまうほどの事件を起こした者として、それは自覚が足りないのではないかと。
 だけど、セルマには本当に分からなかった。なぜそうするしかない、ほかに方法はないなどと思い詰めたりしたのか。
 あのときの自分が、別人のようにさえ思えてならない……。
「……………」
 内にこもってしまったセルマを、リンゼイは無言で見つめていた。
 リンゼイにとって、それは過去だった。もちろん最近まで彼女もまたその過去に囚われていたのだから、それを責めるつもりはない。
 ただ……。
(セルの心は、まだあそこに固定されてしまっているのですね)
 それは、かつての自分に見えた。自分もまた、ああだったのだろう。動かない右腕、断たれたフェンシングという夢にこだわって、執着するあまり、それを奪ったセルマを絶対に許せないと思い込んでいた。
 自分が彼にどんな思いをさせていたかなど、これっぽっちも気付かずに。
 心のどこかで、得意にさえ思っていたのかもしれない。父が愛しているのは彼じゃない、自分だと。かわいそうなセルマ。あの人が愛しているのは私で、あなたじゃない。
 もちろん無意識だ。けれど、そういった愉悦意識が当時の自分にこれっぽっちもなかったと、言える?
 でなければあれほど残酷になれるだろうか? 彼の目の前で、父に愛されている自分を見せつけた。
 どちらか一方に非があるなんてことはないのだ。大抵の場合、気付かないうちにだれもが非を犯している。
 彼は過ちを犯した。それは間違いない。けれど、そこへと導いた者の1人は、自分。
 それを、どうすれば彼に伝えられるだろう? 自分は知らない。彼と自分はそれだけのものすら築けていない。きょうだいなのに。
 今さら小さな子どものように「お手てつないでなかよしこよし」というわけにもいかないし、いきなり気のおけない友人のようになれるはずもない。
 けれど、救いたかった。彼をあの場所から連れ出してあげたい。自分はもう解放されているから……。
 リンゼイはいきなりセルマをゴンドラから突き落とした。
「……うわっ!!」
 とっさに対応がとれず、セルマは両手をばたつかせながら川へ落ちる。
 もがいて水面に上がってきた彼の前に、リンゼイは手を差し出した。
「兄として、もっとしゃんとしてください。「これが私の兄です」と、胸を張って言える兄になってください。動かなくなった右腕よりも、失った夢よりも、もっと、もっと、あなたのことを誇りに思える兄に」
 2人はこれから、2人にとって違和感のない、適切な距離を作っていかなければいけない。兄と妹として。本来ならばとうに確立されていなければならなかったものを、2人はこれから学んでいくのだ。ゆっくりと、時間をかけて。
 そしてそれは、なにも離れた距離である必要もない。
 ほほ笑みに固定されたリンゼイの表情が、このときセルマにはいつも以上にいきいきとして見えた。彼女が心からほほ笑んでいるように。
「ありがとう」
 セルマのほおを、温かい水が伝い落ちた……。


 引き上げられたゴンドラの上で、ずぶ濡れの服から水を絞っているセルマに、ところで、とリンゼイは訊いた。着替えは持ってきているのか、と。その言葉に、とたんセルマはあわてた。式が始まるまでもう時間に猶予がない。
「しかたありませんわね、騎士さま方のどなたかにお借りしましょう」
「あ、そう……だね」
 突き落としてそんな姿にしたのはリンゼイなのに、それを責めることも思いつかず見るからにほっとしているセルマを横目で見て、リンゼイはくすっと声を出して笑った。


*            *            *


 ばたばた廊下を走ってくる音がしたと思った次の瞬間。
「ルー姉、高柳さんとこからブーケ着いたよー!」
 バンッ! と向かい側にたたきつける勢いで扉が開き、月谷 八斗(つきたに・やと)が飛び込んできた。
「お、届いたか」
 ルーフェリア・ティンダロス(るーふぇりあ・てぃんだろす)の応じる声は聞こえるが、姿は見えない。部屋のなかには霧島 悠美香(きりしま・ゆみか)が横を向いて立っているだけだ。
「そこの鏡台の上にでも置いといてくれ」
「あ、うん」
 言われたとおりブーケを置いた八斗は、声のした方にとっとこ小走りで近寄る。邪魔をしているベールやドレスの横からひょこっと向こう側を覗き込むと、思ったとおりルーフェリアはそこにいて、悠美香のまとったドレスを何やら微調整していた。
 八斗には縫製の知識がないのでルーフェリアが何をしているか皆目見当もつかないが、とにかくマチ針を口にくわえて、針と糸で何かしているのは分かる。
「ル、ルーさん、これ、ちょっと短すぎない?」
 悠美香がドレスの裾を引っ張った。それもそのはず。彼女がまとっているドレスは、横と後ろはともかく前身ごろ部分が膝上20センチほどの位置でスクエアカットになっている。かなり短い。
 かといって素肌は見えていなかった。チュールのガーターが両足をおおっている。そしてふとももの、それこそスカートの裾ギリギリのところで繊細なレースが5センチほど入っており、真正面から見るといやでもそこに視線が集中した。
 アイボリーのドレスは全体的に同系の糸で刺繍が入っていて、コルセット部分といい、すっきりとした清楚な、どこかクラシカルな雰囲気がただよっているのだが、全体的に見ればかなり現代的なウェデイングドレスだ。
「これくらい全然OKだから大丈夫だって。要にしか見えねーよ。神官は女なんだから問題ないだろ」
 それだけきれいな足してるんだ、見せつけてやれ、とまで茶化すルーフェリアに、悠美香はほおを赤らめた。
「で、でもこのガーターのレース……これ、きっと高いわよ、ね…?」
 これはルーフェリアからの贈り物だった。花嫁が身につけると幸福になれる4つの物(サムシング・フォー)のうちの1つ、新しい物だ。それに今、目立たないようにルーフェリアは青い物、リボンを縫い込んでいる。
「こんな繊細なレース、爪とか引っかけて、破いちゃいそう……」
「気にすんなって。どうせ脱がすのはおまえじゃないし。そのころには破けようが気にならなくなってるよ」
 手元に集中しながらのルーフェリアの言葉に、一拍遅れてその意味を悟った悠美香が今度こそ真っ赤に染まった。露出した胸や肩まで真っ赤っ赤だ。借りた物――これは「わたしがつけていた物でよかったらどうぞ」とアナトが貸してくれた――真珠のネックレスと対比して、その赤さが際立っていた。
 一方ルーフェリアは頭の後ろで腕を組んで、きょとんとしてる八斗の存在に遅れて気付く。――しまった。
 だが幸いにも八斗は先の2人の会話の意味が理解できていないようだった。しかし教育上良くないのは分かりきっている。
「八斗、おまえ暇か?」
「え? うん……手はすいてる、けど……?」
 何をさせられるのか、用心深く答える彼の前に、ルーフェリアは紙を1枚ひらりと出した。
「これ、礼拝堂の事前準備。先に行って、やっといてくれ」
 箇条書きされた内容に目をとおしていた八斗の顔が、さーっと青ざめた。
「こ、こんなにあるの!? 今から俺1人じゃ全然無理だよ、ルー姉っ!!」
「いいから。ほら、ここでそんなこと言ってる時間があるなら働け」
 ルーフェリアは容赦ない。猫のようにうなじの所をひっつかみ、扉からぽいっと廊下に放り出した。
 どうしよう? どうしよう? 本気でパニックを起こしそうになって涙目になってうろたえている八斗の手から、するりと紙が抜き取られる。
「事情はSFM0029679#笹野}さまからすべてお聞きしました。わたくしたちにおまかせください」
 そこにいたのは、奥宮の召使いたちだった。



「どうした? 悠美香」
 チュールに触れたまま、何か考え込んでいる風の彼女に気付いて戻ってきたルーフェリアが脇から覗き込む。
 彼女が触れているヴェールは古い物、が届けてくれた物だ。2人が時間をかけて、ああでもないこうでもないと、このドレスに似合う伝統的なヴェールを探してくれた。美しい純白の逸品。
「……みんな、こんなにも……。だってこれ、本物の式じゃないのに……」
 その言葉にルーフェリアは「は?」となる。
「何言ってる? これは本物の式だぞ」
「でも――」
「式っていうのは儀式だ。互いが互いに心からの誓いをたてるもので、それ以上でも以下でもない。おまえたちの心が本物なら、これは本物の式だ。
 おまえが考えてるのはお役所的な手続きだ。そんなのはいつだってできる。役所へ行って、もらったペラ紙に名前書いて提出すればいい」
 そうアッサリ言われると、なんとなく悠美香もこちらの方がずっと大切で、神聖なものに思えてくる。
「おまえの気持ちは本物だろ?」
 鏡台の上に置かれていた、贈り物のブーケを手渡されて。
「ええ」
 悠美香ははっきりと答えた。