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9


 その日、完全魔動人形 ペトラ(ぱーふぇくとえれめんとらべじゃー・ぺとら)が目を覚ますと、アルクラント・ジェニアス(あるくらんと・じぇにあす)シルフィア・レーン(しるふぃあ・れーん)の姿はなかった。
「おはようさん」
「うにゃ……おはよー」
 いつもなら三人そろっているテーブルに、今日はエメリアーヌ・エメラルダ(えめりあーぬ・えめらるだ)がいるだけ。
「エメリー、マスターとシルフィアは?」
「あのふたりなら、今日は朝から出掛けてるわよ」
「え、出かけちゃったの?」
 どこかへ行くなら一緒に行きたかった。ふたりだけでなんて、ずるい。声さえかけてもらえないなんて。
 頬を膨らませて椅子に腰掛ける。
「あんたや私が来てから、ふたりでどっか行くって機会も少なくなってたし……たまにはいいんじゃないの」
 ペトラの心中を読んだかのようなタイミングで、エメリアーヌが言った。
「あまーいココア淹れてあげるから、それ飲んで機嫌直しなさい」
「直すっ」
「現金ね」
 ほどなくして目の前に、甘い香りを漂わせるマグカップが置かれた。すぐに口をつけず、マグカップを両手で包み込んで指先を温める。
 そうしていると、ふと、思いついた。
「ね、エメリーの本体ってマスターの日記データ? なんだよね?」
 八卦を見ながら言うと、エメリーは「あー」と間延びした声を出した。
「まあそうね。もともとアルクの日記データがメインで入ってたしね」
 考えは当たっていたようだ。にまり、微笑んで思いつきを続ける。
「だったらさ、あのふたりの出会ったときのこと、知ってるよね? 聞いてみたいな!」
 何せふたりは一様に口を噤み、ひとつとして教えてくれないのだ。これで気にならないほうがおかしい。不健全だ。
「全部の出来事を書いてたわけじゃないわよ? 教えてあげられるのは知ってることだけ」
「それでもいいよ! 何も知らないより全然いいもん」
「それもそうよね。それじゃあ……」
 エメリアーヌは眠るように目を閉じて、黙り込んだ。
 本当に眠ってしまったのではないか、と不安になるほどの時間が経ってから、彼女は静かに口を開いた。
「『2022年、2月。
 一緒にパラミタにいって名を上げよう、などと豪語していた友人の死より一月ほど。
 私は一人で空京に来ていた。』」
 アルクラントの記したことを、そのまま読み上げているようだ。別に口を挟むような部分もなかったので、ペトラは黙して続きを聞く。
「『1日目。
 私自身、何かを為そうとか、そういう明確な意思はなかった。
 ただ、誘われるままになんとなく、行ってみようと、そんな気分だった。
 そんな気持ちを見抜いていたのか、曽祖父……爺様はパラミタに行くことにあまりいい顔をしなかった。
 そんなパラミタ入り初日であったが、昨日出会った女性……どうにも、気になって仕方がない。
 大した言葉を交わしたわけではないが、また会えるだろう。そんな気がする』」
 この、『昨日出会った女性』というのがシルフィアなのだろうか?
 まだ、名前も手がかりも何もない。違っていたらどうしよう。からかってみようか。悪戯っぽく笑いながら、また、続きを待つ。
「『2日目。
 昨日出会ったばかりの女性……シルフィア、さんにいきなり街の案内をしてくれなどと。』」
 女性、はシルフィアだったようだ。彼女に対し、アルクラントの取った行動に思わずにやりとしてしまう。
(マスター積極的だな!)
『そういうキャラクターにあこがれなかったとは言わないが、私はそういう事が言えるタイプだっただろうか。
 所詮は付け焼刃の演技臭い私であったが、その少しばかりの勇気は彼女を多少元気付けることが出来たようだ。
 また、明日も会う約束をした。
 パラミタの地には不思議な力があるのだろうか。私も変れるかも知れない。』」
 ペトラが思ったように、アルクラント自身もそう思ったようだ。感じたままの言葉が綴られている日記には、誤魔化しは一切ない。
 さて、では『明日』はどうなったのだろう?
「『三日目。
 シルフィアと契約することに。家に住まわせてくれるらしい。
 両親亡くしたってことは一つ屋根の下。今正直ビビってる。
 これなんてエロゲ。』」
 急展開だった。
 どうして? 何があったの? わくわくと続きを待つが――
「はい、私が知ってるのはここで終わり」
 無慈悲な一言があるだけだった。
「え、あれ!?」
 拍子抜けしたというか、肩透かしを食らったというか。
 腑に落ちない、もやもやとしたものがある。
「こ、これで終わり? ほんとに??」
「本当よ。日記はここまでしか書かれてない」
「一緒に住むことになったところとか」
「契約したからじゃないかしら」
「じゃあ、その契約した経緯とか」
「ないわね」
「……うわー! なんだこの消化不良ー!」
 知らないより全然いい。
 先ほど自分が発した言葉だが、撤回したくなった。
 いや、でも。
「マスターもいろいろ悩んでたりしたんだね」
 そういう部分は、新しく知ったわけだから、やはり撤回する必要はないのかもしれない。
 今までペトラが知っていた『アルクラント』は、いつもかっこよくて、でもお茶目なところもあって、優しい、そんな姿だけだったから。
「今のアルクになったのは、いろんな出会いをしたからよ」
「出会い?」
「そう。ペトラ、あんたも色々経験なさい。そして、変わっていきなさい」
「うん」
 やっぱり、知れてよかった。
 紛れもなく、そう思った。
 けれどただひとつ、疑問があった。
「ねえエメリー」
「うん?」
「エロゲって何?」


 部屋の空気が凍り付いている頃、シルフィアとアルクラントは喫茶店にいた。たまにはふたりきりの時間を、と思ったアルクラントが誘い出したのだ。
 シルフィアは、アルクラントを見ながら、出会ったときのことを思い出していた。
 彼に対して初めに思ったのは、『無理をしてるな』だった。慣れないことをしていると。まるで、素人の演技のような。
 だけどそれは、母親を亡くして落ち込んでいたシルフィアを元気付けるためのものだった。
(元気出たなぁ、あれは)
 それに、また明日、と言われて嬉しかった。また明日、と約束してくれる人がいると知って。ひとりじゃない、と思ったのだ。
「どうかした?」
 じっ、と見つめていたからだろうか。アルクラントがきょとんとした顔でシルフィアに問いかけた。
「昔のことを思い出してたの」
「昔?」
「アル君と出会ったときのこと」
 告げると、アルクラントは恥ずかしそうに笑ってコーヒーを飲んだ。不意に、ああ、好きだな、と思う。
「あのときの夢って、お友達のことだったんでしょ」
「さあ。なんのことか」
「演技っぽかったなー」
「……やっぱり?」
「でも今は、演技じゃなくて、アル君としてかっこいいアル君になれてるよ」
 あの日から、いろいろあった。
 何があっても折れることなく前に進んで、そうしてある、今は。
「両方の足でちゃんと立ててる」
「本当に?」
「本当に。だから――」
 これからもよろしくね。
(あなたの行くべき場所まで)
 なんて、改まって言うには恥ずかしく、茶化して言うには重い言葉。
 口には出さずに、笑っておいた。
 アルクラントも無理に聞き出そうとはせず、微かに笑ってシルフィアを見ていた。