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水宝玉は深海へ溶ける

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水宝玉は深海へ溶ける
水宝玉は深海へ溶ける 水宝玉は深海へ溶ける

リアクション

「私は忍者です。
 目的の為ならば犠牲を払う事も出来る暗殺者です。
 それは忍びの里の頭領の娘として生まれた私には当たり前の事で、私の誇りでもありました。

 けれど……ジゼルさんの命の源である宝玉アクアマリンを破壊したあの日から、
私の中には蟠(わだかま)りが残ってしまったのです。

 初めて敵対者以外に手をかけた。

 それは後から悔やんでも悔やんでもどうしようもなく……」
 彼女の語りは続いている、だが戦いは止まる事は無い。
 アレクの上段からの斬撃を、フレンディスは刀の鍔を利用し相手の刀の軌道に沿わせる。
 女性ならではのしなやかな筋肉で身体ごと半回転すると、フレンディスの左手はアレクの右腕を捕らえた。
「一度溢れた水は盃(さかずき)に戻す事は出来ぬのです」
 肩越しに伝えられた言葉に、アレクは両の目を見開く。
 その目が映しているのは相対しているフレンディスのジゼルと同じ乳白金では無く、
あの夜月明かりに照らし出された妹の血に濡れた黒髪だった。
 瞬間的に込み上げる吐き気に、アレクは搗ち合っていた肩ごと右手でフレンディスを振り払う。
 その言葉を受け入れる訳にはいかないと、心ごとフレンディスの存在を拒否していた。
「あの日、
 あれを奇跡と呼ぶのか私には分かりませぬが、ジゼルさんは生きていてくれました。
 私はとても安心して、ジゼルさんが生きて、私と友になってくれる日々に喜びました。

 ……でも同時にどこかに負い目を感じる様になったのです。

 私がジゼルさんを手にかけてしまった。殺してしまった!

 ジゼルさんが私に微笑む度にあの時私が青い石に刃を突き立てた時の感触が、
白い砂浜の上で動かなくなったジゼルさんの姿が、忘れることができぬのです!」
 フレンディスの目に、耐えていた涙が込み上げてくる。
 今彼女がアレクに向けているのは刃だけでは無い。己の思いの全てを、目の前の男に痛い程叩き付けていた。
「こんな思いは初めてで、もう繰り返したくなくて……もし……ッ!」
 涙で歪んだ視界はアレクの繰り出す撃を見切れずに、フレンディスは後ろへ弾き飛ばされる。 
「もしあなたがジゼルさんを殺すというのなら私は、あなたを殺したい!」
 仲間達に常日頃天然だとか鈍感だとか言われている程穢れを知らないフレンディスの中には今、はっきりとした殺意が宿っている。

 その感情は藤紫色の静かなる闘気となり、瞬間的に爆発し彼女の白い肌に纏わり付き、彼女の身体能力を極限まで高めた。

 走り出したフレンディスのスピードは先程とは比べ物に成らない程格段に向上している。
 それに惑わされれば負けだ。
 アレクは右足を引いた半身の状態で刀を頭の上に掲げ、切っ先を下げる柳の構えで機を待った。
 剣士同士の一騎打ちはそれ即ち終わりを意味する。
 次の瞬間には決着が付き敗北者の上には死の一文字が訪れるだろう。
 満身創痍とはいえ格上だとはっきり分かる相手に、フレンディスは命を繋ぐ事は出来るだろうか。


「ご主人様!!」
 耐えきれず戦いの場へ飛び出そうとしたフレンディスの忍犬ポチの助の首輪を、フレンディスの恋人ベルクが掴んだ。
「このッッ!!」
 睨み上げられてもベルクの表情は変わらない。
 フレンディスを止めたくても、彼女の後悔を作った発端が自身にもあった以上強く出る事は出来ない。
 それに何よりも、彼はフレンディスの事を深く信頼していたのだ。


 フレンディスの早さは更に増して行く。
 先手を取るべく動いたのはアレクの方だった。一瞬捉えたフレンディスの肩口に向かって、上から彼女の身体をまっ二つに斬り裂く。
 何処からか悲鳴が聞こえた気がした。

 が、手応えが無い。

「残像だ!!」
 唯斗の声が耳に入った時には、アレクの右脇腹は懐に飛び込んで来たフレンディズの忍者刀で斬られていた。
「浅い」
 唯斗の横で何時でも飛び出せるようにしている耀助が言うように、今の一撃が『入っていない』のはフレンディス自身が一番分かっている。
 追撃を掛けようと振り返るも、そこへ来たのはアレクの横薙ぎの刃だった。
 咄嗟に受けたつもりだったが、所詮大太刀と忍者刀。
 早さと利便性のみに重点を置いた拵えのフレンディスの刀が、相手を粉砕する為の刀の力に敵うはずも無い。
 きっと刀ごと受け止めれば、刃が割られそのまま一閃喰らってしまうだろう。
 フレンディスは瞬時にそれを頭で理解し、後ろへと飛び退いた。
 そして受け身を取りつつ立ち上がりながら彼女は考える。

「(早さの上では負けておりませぬ。今度こそ全力で!!)」
 今度こそと全速力を出しフレンディスは走り出す。
 その瞬発力の為に酷使される下腿三頭筋は悲鳴を上げ、もはやこれが最後だと彼女へ告げていた。
「もう一度!!」
「二度目は無い」
 フレンディスの耳に低い声が入った時、唐突に目の前に氷の壁が立ちはだかった。
 しかしフレンディスの推進力は最早止められない。
 勢いのまま壁を飛び越えるが、そこへ彼女を待ち構えていたアレクの突きが飛んできた。
「くッッ!」
 どうにかこうにか間に合った刀で大太刀を払うと、
自分ですら訳も分からずアレクの長身に組み付いて敵の身体を地面へ叩き付けた。
 しかしこのまま畳み掛けるのには自身の状態が良く無い。

 フレンディスは冷静にアレクの身体から飛び退き間合いを取ったが、
次に敵を捉えようとした視界はスモークグレネードの煙で塗りつぶされていた。
「!?」
 動揺は既に遅く、目の前にアレクの刃が来ている。
 避けるが、切っ先は執拗にフレンディスの小さな身体を追いかける。
 大太刀とは思えない程の連撃をフレンディスは必死に捌くが、
その早さについていくのがやっとで二度受け止めてしまっていた。
 三度目の正直の重過ぎる斬撃にフレンディスの愛刀は踏み耐えられず硝子の如く砕け散って往く。
 その間に敵の刃は彼女の首を落とそうと迫ってくる。
 立て膝になるまで追い込まれたが、フレンディスの手にはまだ柄が残っていた。
 フレンディスはアレクの右手の拳に愛刀のひと欠片――鍔をぶち当てた。
 刀を支える為の右手にまともに攻撃を喰らい骨は砕け、力が瞬間的に萎える。
 勝機を逃さぬくノ一はそのまま敵の顎へ向かって掌底を繰り出した!

 しかしそれを後ろに反る事でギリギリ躱し、アレクは逆に左膝をフレンディスの顎に叩き込んだ。
 数メートルは吹き飛んだであろうフレンディスの頭は激しく揺れている。
 通常だったら脳震盪を起こし立ち上がれない程の衝撃の中、
フレンディスはガクガクと震える身体を気力で持ちこたえ、アレクの非対称の色の瞳を意志を宿したままの青の瞳で見据えた。

 肉体的は明らかに限界だった。

 しかし彼女の意志はまだ死んではいない。

 朦朧とした、もう無意識にすら近い状態で、フレンディスはアレク向かって手を伸ばす。
 最早握る事すら出来ないその手は
己と敵の血で赤黒くなったアレクの覚悟と復讐の象徴であった彼の亡くした故郷の軍服の腹へ当てられる。
 赤子の力よりも弱いそれを、わざわざ避ける必要すらない。
 もう攻撃とは言えないそれを無視してアレクはフレンディスの乳白金の髪を左の手で掴んだ。
 右腕の血振りは殺人の宣言で、もうこれで本当に、全てが、終わりなのだ。
 階段から駆け下りてくる少女の姿を白んだ目で見ながら、二人は思っていた。
 間合いへ入って来たと細い首へ突きつけた刃に、少女の動きがピタリと止まる。
「Цве?е цвета ако умреш.」
 刀は向けた。
 だが今のアレクには彼女が何者なのか、もう分からない。
 破壊すべき兵器なのか、愛していた妹なのか。それとも別の誰かだっただろうか。
 一つだけ認識出来るのは、痛い程正面から全力でぶつかってきたフレンディスの存在だけだ。
「負い目があるのなら、悔いが残るくらいならいっそ全部無くせばいい。苦しまずに済む」
 自らの絶望を受け入れたその言葉に、フレンディスは溢れている涙を止める事なく落として、少女に向かって微笑んでいた。


「……それでも私は、ジゼルさんが生きてくれている事に感謝しているのです」


 涙に震えている声はか細く頼りない。
 それでも彼女の声は、言葉は何も聞こえなくなっていたアレクの胸の奥深へ浸透していく。
 見開いたままだった目を閉じて、もう一度開いて彼女を見れば、
 そこに広がるのは海の中へ落とせば溶けてしまいそうな色だった。
 それは自分が同じ場所をぐるぐると回りながら求め続けていた妹の琥珀色でもなく、
 忌み嫌いながらもひと時も忘れる事が出来なかったあの日の恐ろしい光りの白色とも違う、

 どこまでも青い、藍緑色だった。

「アレク! 
 あの……あのね!!

 …………き、緊張して……なに言おうとしてたか真っ白になっちゃった。え、えと……どうしよう……

 あのね、私上手く言えない。けど……アレク、
 あなたはちゃんと『ここにいる』から。それに、私も『ここにいる』の。

 だから……大丈夫だから。

 一緒に帰ろう」

 遠かった全てのものが一気に目の前にやってきたような気分だった。
 いつの間にか知らぬ間に血が滲む程握りしめていた刀の柄さえ取り落としていた。
 殆どまともに見えないはずの緑の瞳には今しっかりと彼女の姿が映っている。

「……ジゼル…………。

 …………ああ、そうか……

 ミリツァは……もう居ない。あの日俺は??間に合わなかった。ミリツァは、死んでた。
 何故分からなかったんだろう…………俺が何をしても、何を、壊しても――もうミリツァは帰って来ない。

 だから今此処にいるのは、俺の前に居るのは『君』だ。君なんだ……」
「うん、そうだよ。
 私はジゼル。

 蒼空学園の、ジゼル」
 微笑んで目の前に差し出された救済の手に、アレクは無意識に、傷ついた手を伸ばしていた。