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八月の金星(前)

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八月の金星(前)

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【十 希望に向けて】

 佐那の提案を受ける形で、機関用潤滑油を垂直式弾頭発射管から模擬弾頭に込めて数発射出した敬一と淋だったが、海上の様子が分からない為、効果があったのかどうか、いまいちよく分からない。
 実際には、ノイシュヴァンシュタインもヴェルサイユも、海面上に浮上した大量の油からバッキンガムの着底位置の当たりをつけるなどして、相当にこの機関用潤滑油を頼りにしている。
 もしこの状況を知れば、敬一は手放しで喜んだかも知れなかったが、とにかくこの密閉された空間内では、外で何が起きているのかさっぱり分からなかった。
 自分自身の行動に手ごたえを感じられず、悶々とした思いを抱いている敬一と淋を、佐那と恭也のふたりが様子を見に訪れた。
「油の射出は、もう終わりましたか〜?」
 発射管操作室に顔を覗かせながら問いかけてくる佐那に、敬一は何ともいえない表情を返す。
 やれるだけのことはやったが、効果が出ていると断言してやれないところが、何とももどかしかった。
「あれだけ大量の油を打ち上げたんだから、全く誰にも気づかれないってことは、ないと思う。多分」
「何だか随分と、威勢に欠けるなぁ」
 歯切れの悪い敬一の応えに、恭也が微妙な表情で溜息を漏らした。
 別段、敬一を責めているという訳ではなく、この深海の中の密閉空間という状況そのものに、不安と先行きの不透明さを強く感じてのひと言であった。
 と、その時何かを思い出したように、恭也はふと顔つきを真剣な色に変えて敬一に問いかける。
「そういえば、あの報告はもう、聞いたか?」
「あぁ。葛城中尉が見たっていう、あの黒い巨漢のことだな」
 敬一のむっつりとした反応に、佐那は何故か残念そうな面持ちで唇を小さく尖らせる。
「聞いた話だと、頭の先が天井すれすれだったっていうことですね。これじゃあ折角遭遇しても、フランケンシュタイナーがかけられるかどうか、分かったものじゃありません」
 妙なことに不平をぶつける佐那に、敬一、淋、恭也の三人は一瞬呆れたような表情を浮かべた。
 だが、決して余裕をかましていられるような状況ではない。
 吹雪の目撃談によれば、謎の黒い巨漢は一般人の乗組員を謎の力で微粒子化し、どこかへ連れ去っていっているというのである。
 微粒子化された乗組員の生死はいまもって不明だが、しかしまだ死んだとは断定出来ない以上、何とか救出する方向で今後の対応を練らなければならない。
 そういう意味では、ただ単純に脱出だけを考えれば良いという訳でもなかった。
「俺の用意している武器は、ハンドガンとナイフだけなんだが……正直いって、例の謎の影に効果があるかどうかは、疑わしいな」
 吹雪曰く、謎の影は何もない空間から忽然と姿を現し、そして消え去ったという。
 即ち、物理的に空間内に溶け込む能力があることを意味しており、物理的な攻撃が役に立つかどうかは、実際にやり合ってみないと何ともいえなかった。
 だがひとつだけ、恭也の中では結論が出ていることがあった。
「その謎の影って奴は……多分テロリストとかそんなケチな奴じゃなくて、もっと得体の知れない……俺達の理解を越えたような存在だって気がするぜ」
「それに、もしかしたら、ですけど……中央管制システムを乗っ取っているのも、その謎の影かも知れないって気がしてきました」
 いいながら、佐那は自身が何とか掻き集めてきた電子データのうち、バッキンガム建造に際して関わった電子系企業の中でひとつだけ、参画意図不明の企業が紛れ込んでいるとの報告を口にした。
「その企業名なんですが……マーヴェラス・デベロップメント社という会社に、聞き覚えはありませんか?」
「いや……知らないな」
 敬一は即答してかぶりを振ったが、恭也は眉間に皺を寄せて、首を捻った。
「はて。どこかで聞いた覚えがあるような名前だが……どこだったっけな。思い出せねぇや」
 佐那は期待一杯の視線を恭也に送り続けていたものの、結局恭也は思い出せず、何度もうんうんと唸るばかりである。
「このマーヴェラス・デベロップメント社という企業は、中央管制システムの構築に携わってるようなのですけど、どのデバイスを担当しているのかが明記されてないんですよね。ちょっと怪しいと思いません?」
 怪しいといえば確かに怪しいような気もするが、システム周りは敬一にとっては門外漢である為、ただただ佐那の疑念に曖昧な相槌を打つぐらいしか出来なかった。

 ルースと鈴は、大急ぎでソナールームへと急行していた。
 シリウスが打ち続けているピンを、即座に止めさせる為である。
「そのピン、ちょっと待ったぁ!」
 叫びながら勢い込んできたルースに対し、シリウスとサビクはぎょっと驚いたような表情で、慌てて振り向いた。
 一体何事かと、疑問に思うのが普通であった。
「ど、どうしたんだ? オレの打ってるピンが何か問題でも、引き起こしたのか?」
「いえ、そういう訳ではありませんが、とにかく一度、ソナーを止めてください!」
 シリウスは鈴にいわれるがままにソナーを停止し、じっと耳を澄ませている様子の闖入者ふたりに、幾分緊張した顔を向けた。
 最初のうち、シリウスは気づかなかったのだが、傍らのサビクが何かに勘付いた様子で、思わず小さな声を上げた。
「これって……何かが叩いてる音?」
「そう……それも、内部ではなく、外部からです」
 艦全体に、金属を殴打する鈍い音が殷々と鳴り響いているのである。
 鈴は改めてメモ帳を取り出し、その規則性のある金属音にじっと耳を傾けつつ、手早くその内容を書き留め始めた。
 それは間違いなく、モールス信号であった。
 シリウスにも、この音が外部からの呼び掛けであることが、次第に分かってきた。と同時に、自分達は決してこの暗い海底に取り残され、放置されている訳ではないということを素直に理解した。
「や、やったぞ……助けが来たって訳だな」
 僅かに表情が明るくなったシリウスの傍らで、鈴は尚も送られてくる信号を書き留め続けた。
 やがてひと通りの文章が完成したところで、シリウスは手にしたバールを手近の壁に打ち付け始めた。こちらもモールスで応答しようというのである。
 外部から信号を送ってきたのは、深海探査筒に乗艇している羅儀だった。
 既にノイシュヴァンシュタインとヴェルサイユがバッキンガム捜索の為にこの海域へ到達していること、そして敬一が海上に放った報告文書で、ブロワーズ提督とギーラス中佐は事態のおおよそを把握している旨を伝えてきたのである。
 これに対し鈴は、吹雪が目撃したという謎の存在について追加の情報を送り、事態は一刻を争う旨を最後に付け加えた。
「なぁ……向こうは、何ていってきてるんだ?」
「もう間もなく、DSRVが救助の為に進水するとのことです。こちらの中央管制システムが完全に掌握不能となっていることも伝えましたから、サルベージではなく、乗員のみ脱出という方向になりそうですね」
 シリウスの問いかけに、鈴はいささかほっとしたような様子で穏やかに応じた。
 いつになるかは分からないが、とにかく助けがやってくる――もうその一事だけで、シリウスの心は随分と落ち着きを取り戻しつつあった。
 だが、依然として謎の影という脅威は残っている。油断は禁物であった。
「こういう時、一番怖いのは……ついついほっとしちまって、安易な行動に出るってことだよな」
「そうですね。今一度、単独行動は絶対に起こさないよう、全員に通達を出す必要があります」
 ルースも思いは同じであった。
 最後の詰めを誤ったが為に、とんでもない被害を出してしまうという事例は、過去に幾度となく繰り返されている。
 ここでそのような憂き目に遭わない為には、実際に海上への脱出を遂げるまでは一切の油断を排除する以外に方法は無いだろう。
「これから全員に通達を出しますが、艦内放送設備が使えない為、走り回って伝えるしかありません。申し訳ありませんが、ご両人にもお手伝い願えますか」
「勿論さ」
 ルースの要請を受けて、シリウスは自身の胸をどんと叩いた。
 全員で助かる為であれば、どんな役回りでも快諾するつもりだった。