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春もうららの閑話休題

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第5章


 我輩は黒猫である。名前は涼介・フォレスト。


「にゃ?」
 どうしてこうなったかとんと見当がつかぬ。何だか温泉で娘とくつろいでいたところまでは記憶している。
「にゃに?」
 我輩はここで初めて自分が黒猫になっていることを自覚した。


 ――言ってる場合ではない。と涼介は思った。


 温泉につかっていたら黒猫になっていた、では全く説明にならないが、とにかく事実なのだからしょうがない。
 眠り込んでしまうほど酒を飲んだ記憶はないし、そもそも夢にしては感覚がリアルすぎる。湯船に映りこむ自分と風景の見え方の変異から、自分が猫になってしまったと考える方がまだ自然だ。
 根拠はないが、唐突にここがカメリアの山であることを思い出した。それと同時に、彼女の周囲で起こってきた珍妙な事件のことも。

 ――ああ、またか。

 うっすらと意識の隅で涼介は思った。
 今日は何の事件も起こるまいと思っていたが、まさかピンポイントで自分が被害者になろうとは思っていなかった。
 だが、次第に涼介は自身が黒猫化したというその原因よりも、眼前の問題にとりあえず対処しなければならないことを知る。

 理由はともかく、自分は黒猫で温泉に入っている。見るといつの間にか湯船の中央付近まで来ていて、端にはやや遠い。そして猫になる前、自分は麦酒を飲んでいた。

 猫、麦酒、水とくれば彼の猫の例になぞるまでもなく、待ち受ける運命はひとつであろう。

 ――冗談ではない、このままでは溺れ死んでしまう。
 慌てる涼介だが、しかし彼と彼の猫との間には大きな違いがあった。


「あれ? お父様がいらっしゃいませんわ?」
 それは、心優しい娘が一緒に温泉に来ていることである。
「――猫……最近の猫はお風呂に入るのかしら? でも、このままでは危ないですわね」
 ミリィ・フォレストは黒猫――それが自分の父親であるとはつゆ知らず――を抱き上げると、無邪気に尋ねた。
「ねぇ猫さん、お父様がどこにいらっしゃるかご存知ありません?」
 黒猫を抱いたまま、湯船の淵に移動するミリィ。それを見ながら、結局混浴に誘導されたカスパー・サンドロヴィッチは首をひねった。
「……猫、はわかるある。猫は裸ある。それに、あの猫を抱いている人もタオルある。
 裸とタオルの間には、いったいどんな違いが……? 男……女……見た目でわかる特徴を……」
 混浴風呂なのをいいことに、カスパーはきょろきょろと周囲を観察している。

「あれ、ウィンターさん。タオルは巻いたままでいいんだよね?」
 と、そこで榊 朝斗(さかき・あさと)が浴場に入ってきた。混浴とはいえ、やはりタオルくらいは巻くべきだろうか。
「構わないでスノー。水着の人もいるし、裸の人もいるでスノー。見せたければ好きにするといいでスノー」
「いや、別に見せたくないし。その前提おかしいでしょ」
「すると……見たいでスノー?」
「いやいや、別に見たいわけじゃ」
「見たくないでスノー?」
「いやいやいや、論点ずれてるし。見たいとか見たくないとかじゃなくてね……」
「見たくないのでスノー?」
「いやその……まったく見たくないわけじゃ」

「何が見たくないの?」
 ウィンターと朝斗の問答が水掛け論の様相を呈してきた頃、二人に声をかけてきたのがパートナーのルシェン・グライシス(るしぇん・ぐらいしす)アイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)である。
「朝斗がルシェンとアイビスの裸を見たいかそれとも自分の裸を見せつけたいか議論中でモゴッ?」
 変なことを言いかけたウィンターの口を慌てて両手で塞ぎ、朝斗は首を横に振った。
「な、ナンデモナイヨー。今日はみんながのんびりしてるところを見たいなぁってははは」
 ウィンターの口を塞ぎながら、朝斗はじりじりと後退する。
 その様子を見て、アイビスは苦笑いした。
「もう、あんまりはしゃがないのよ。他にも人がたくさんいるんだから。だから混浴じゃなくて、せめて家族風呂にしたらって言ったのに」
 アイビスは何となく周囲に視線を配りながら、かなり大きめのタオルで身体を隠している。人間の頃の記憶を取り戻したアイビスにとって、現在の機晶姫のボディは何となく違和感のあるものなのかもしれない。普段は特に気にすることもないが、こうして大勢の前で躯体を見せることになると、やはり意識してしまうのだろう。
「まぁまぁ、そう固いこと言わなくてもいいじゃない。せっかくの温泉なんだから。朝斗の言うとおり、仕事の疲れを癒すにはちょうどいいじゃない? 折角だから思う存分堪能しましょうよ」
 対してルシェンは堂々としたものである。身体に巻いたタオルのサイズは普通だが、元々長身でグラマーなルシェンが何気なく巻くと、相対的にタオルが小さく見える。
「ルシェン……確かに混浴だから、まぁいいけどさ、その……」
 色々あったとは言え、まだまだウブなところがある朝斗としては、そんなルシェンを直視することができない。それに、他の男性にルシェンを見て欲しくないという感情もある。あまり目立たないようにと、そっとルシェンを隠そうとする。
「朝斗ったら……もう、心配しなくてもいいのに」
 そんな朝斗を愛おしく見つめるルシェン。続けてぽつりと呟いた。

「むしろ朝斗のタオル姿のほうが……もう可愛いすぎてどうにか……やっぱり家族風呂にすべきだったかしら……」

「? 何か言った?」
 内心とは裏腹に輝く笑顔でルシェンは首を振った。
「いいえ、何でもないわ。さぁ、みんなでお風呂に入りましょ。……大丈夫よ……取って食ったりはしないから……たぶん……きっと……おそらく……でももしかしたら……」
「? 何か言った?」

「何でもないわ」

 そんなやり取りを傍目に眺めながら、アイビスは軽くため息をついた。
「もう……見せ付けちゃって。やっぱり一人で留守番しとけばよかったかしら……?
 でもルシェンは放っておくと何するかわからないし……あれ?」
 ふと視線をずらすと、そんなルシェンと朝斗の方をじっと見ている人物がいる。
 カスパー・サンドロヴィッチである。

 まるで地下鉄で道に迷ったおのぼりさんのように、朝斗とルシェンを軽く指差しながら、口の中でぶつぶつ言っている。
「胸部が大きく突出……美しい顔立ち……大きいけどあれは女ある……でもこっちは……?」
 自分でも知らず知らず、観察しながら朝斗の方へと近づいていく。
「……え? あの……?」
 いきなり距離をつめてくる初対面の男に、朝斗は面食らった。
「……胸はない……男……でもたいへん可愛らしい……背も、低いある……胸のない女種族ある……? しかし……」
 カスパーは差していた指をそのまま、朝斗の胸部付近に接近させた。

 ふにっ。


「ふにゃあああぁぁぁ!?」


「あ」
 熱中するあまり、カスパーは朝斗の胸元に触ってしまった。まさかいきなり触られると思っていなかった朝斗は、変な声をあげてしまう。
「ちょ、ちょっと! 私の朝斗になにするのよ!! 私だってまだそんなに触ってないのに!!」
 朝斗を庇うようにルシェンが前に立つ。

 だが、それにもましてアイビスの行動は素早かった。
「!!」
 一言も発さずに即座に距離をつめ、一瞬の間も与えずアイビスの右手がカスパーの顔面を掴んだ。
「あ、こちらは胸部の突出あり、美しい外見。ほぼ女ある」
 いまいち自分の置かれた立場を理解していないカスパーは、まだ呑気に状況を分析している。
 しかし。
「まったく……監視対象はルシェンだけかと思えば……朝斗に何をしているのですかこの変質者」
 ぎりぎり、と右手の圧力が増す音がしている。
「へ……変質者……なに、ある?」
「アイビス!!」
 朝斗が一応は制止の声を上げる。しかし、今のアイビスにその声は届かない。
「――変質者を掃討――」

 ぎりぎりぎりぎり。

「あ、痛い、ある」
 もちろん、カスパーの声など届くはずもなかった。

「――潰します」


 ぷちっ。


 以下、ブラックアウト。