天御柱学院へ

なし

校長室

蒼空学園へ

あなたが綴る物語

リアクション公開中!

あなたが綴る物語
あなたが綴る物語 あなたが綴る物語 あなたが綴る物語 あなたが綴る物語

リアクション


●現代アメリカ 9

 『カウントダウン・ナイトクルーズ』それがの持ってきたチラシだった。
 マンハッタン島の夜景を眺めながら船上のディナーを楽しみ、年越しパーティーで新年を祝う。
 ニューヨークでは毎年年越しの際には花火が打ち上げられる。それを船から眺めるというのもある。
 終はチラシから目を離してとなりの静を見た。
「これに行きたいのか?」
 言わずもがなだ。静は満面の笑みでうなずき、期待の目での返答を待っている。
 終は考えた。仕事の日程ではない。トレーダーの仕事はとうに辞めていた。ときどきディーラーのようなことをしているがあくまで趣味の範囲で、あくせくしてはいない。
 去年まではそうだった。だから年末年始もほぼ仕事で埋まっていて、旅行どころではなかった。静は何も言わなかったけれど、我慢していたのかもしれない。
 船上ディナーだのパーティーだの、こういったひとの大勢集まるイベント事にはあまり興味は持てないのだが。
「――面白そうだな。行こうか」
 そう言うと、静はうれしそうに笑ってしがみついてきた。
 


 自分の心臓が欠陥品だと言われたのは2年前だった。
 何もしないのに起きる動悸、息切れ、目まい、そして失神。呼吸困難による胸痛。
 狭窄症。心臓についた弁が機能を果たさなくなる病気だ。終の場合、4つのうち2つがイカレていた。
「手術で治る病気ですから。大丈夫ですよ」
 医者は元気づけるように笑ってそう言った。
 イカレてしまったのなら、交換すればいい。それだけの話だ。医者の言うとおり手術を受けた。開胸し、役立たずな弁を取り外して金属製の代替品を代わりに埋め込む。胸の半分ほどにも渡る手術痕は白い縦線となって残っている。
 問題は、弁を交換して半年後に起きた。
 激しい胸の痛みで息ができず、仕事場で意識を失った。運び込まれた病院のベッドで目を覚ます。医者が重い口を開く前に、手術が失敗したのだと気付いていた。
 詳しいことは分からない。アレルギーがどうのとか、拒絶反応とか、世界的にもめずらしい事例だとか。説明は受けたがそんなことはどうでもいい。
 ようは、助かるすべはないということだ。
 もう終わり。ジ・エンド。あとは大きな発作が起きて、再び弁がイカレるのを待つだけ。
「あー……、まあ、べつにそれでもいいですけどね」
 申し訳なさそうに見てくる医者に、終は笑って見せた。
 特に何かしたいことがあるわけじゃないし。未練とか、そんなご大層なものもないし。この世に愛着があるわけでもなし。
 終は笑って答えた。両親に、友達に、同僚に、上司に。だからそんな葬式みたいな暗い顔をするなと。
 そしてだれもいない場所で、ひっそり泣いた。暗闇のなか、壁をたたき続けた。
 それでも消えない、日に日に肥大していく恐怖から逃れようともがき、あがいた終がすがったのが静だった。
 レイプ同然に激しく彼女を求める終に、やめさせようと静は必死に抵抗した。
 そんなに興奮すると、発作が起きてしまうから。
「チクショウ! いいんだよ、どうなったって! どうせ死ぬんだろ!? 今か、明日か、1週間後か! それだけの違いじゃないか!」
 投げやりに彼女を抱こうとする終を見上げ、懸命に静は首を振る。そんなことはないと。あなたには1分1秒でも長く生きてほしい、そしてその貴重な時間をこんなふうに使ってほしくないと。
 まるで人形か何かのように物扱いされて、傷つけられているのは静の方なのに。
 彼女はそんなときですら、終が自己崩壊するのを止めようと懸命になっていた。
「ちくしょう……ちくしょう…。なんで俺なんだよ。ほかにも人はいっぱいいるだろ。なんで俺が。……くそったれ…」
 震えながら身を縮めて泣く終を抱き締めて、静は何度も繰り返した。
 決してあなたから離れない。いつだってそばにいる。もしあなたが死ぬのなら、私も一緒に死ぬと。
「……っ。そばにいてくれ……おまえだけは…。………………こわいんだ…」
 しがみつき、2人で朝まで泣き続けた。
 それから、静も大学を辞めていつも終のそばにいるようになった。決して離れず、どこへ行くにも2人で。いろんな所へ出かけ、たくさん話をして、行く先々で写真を撮って。1日も欠かさず終と眠った。うなされる終をやさしく起こし、抱き締めた。
「大丈夫よ。私はここにいるわ。いつだって、あなたのそばにいる」

 それがまさか、こんなことになるとは。



「くそッ! 静!! 絶対手を放すなよ!!」
 周囲の音や声に負けないよう、終は声を張り上げた。
 船は横転していた。なぜそうなったかは分からない。年越しパーティーの最中、激しい揺れが起きたと思ったら轟音とともに床が傾き始め、窓ガラスやドアを突き破って海水が浸入してきた。
 鳴り響く警笛に揺れるあかり、そこかしこで砕け散るガラス。
 なぜこんなことが起きたのか? そこにはなんらかの理由があるだろう。だが今はそんなことにかまっていられない。静だ。
 彼女は今、急斜面になった床に腹這いになり、固定されたテーブルの脚からかろうじてぶら下がっていた。
 パニックを起こした人々がたてる音や悲鳴に掻き消されてほとんど分からないが、まだ船のどこかが裂けるような重い振動と破裂音がしている。もしまた何か起きたら、静は海に落ちるかもしれない。
 真冬のニューヨークの夜は氷点下だ。しかも今は雪が降っている。そんななか、パーティードレス姿で海に落ちて、しかも船の沈没に巻き込まれたりしたら静はまず助からないだろう。
 自分のいる位置まで引き上げようと手を精一杯伸ばしたが、指はかすりもしない。
 静の腕は震えていた。しがみつくにはテーブルの脚は大きすぎて、掴みきれない。彼女の体は少しずつ、あきらかに下へと引っ張られていっている。
 静が死ぬ?
 死ぬのは自分の方だとばかり思っていたのに。静が先に死ぬなんて、そんなこと考えたこともなかった。
 これは罰か? 神が決めた死を受け入れられず、逆らい、罵倒した俺への罰?
「それなら俺に落としたらいいだろう!
 静! 今ロープを作るから、もう少し待っていろ!!」
 届かない手を伸ばすのをあきらめ、終は手近に転がっていたテーブルクロスを引き裂き始めた。




 同じ船には弾とノエルの姿もあった。そして彼らの方がずっと状況はひどかった。
 花火を見ようとデッキへ出ていた彼らは、最初の揺れで海上へ投げ落とされていたのだ。
「こんなはずじゃ……ノエル! ノエル!!」
 ノエルの姿を求め、傾いた船のあかりで照らされた海面に目をこらした。
 氷のような海水が急速に体温を奪い、水を掻き分ける手足の動きを鈍化させていく。
 こんなはずじゃなかった。彼女のなかの痛ましい記憶が少しでも薄れるよう、楽しい思い出で上書きしようと思って誘ったのに。
「また僕は大切な人を失ってしまうのか…?」
 暗い考えに支配されかけた頭を振って飛ばす。今はそんなことにとらわれて、自己憐憫にひたっているときじゃない。
 必死にノエルを捜す弾の目に、やがてちらりと赤いものが入った。動かないが、うつ伏せに浮かんでいる人のようだ。
「赤い布ベルト……ノエルか!」
 近寄り、表に返す。思ったとおり、それはノエルだった。
「……弾…」
 ほおを数発張るとノエルは意識を取り戻し、うっすらと目を開く。
「ノエル、よかった」
「私……もう、だめ…。手を……放して…。ジェイクの……」
「だめだ!」
 弾は一番近い救命ボートへ向かって懸命に手を振った。そして彼らが近付いてくるのを待たず、ノエルを引っ張って泳ぎ出す。
「きみは生きるんだ。今度こそ、生きないと!」
(――今度…?)
 どういう意味だろう? しびれた頭でぼんやり考えていると、ほおに何か触れた。引っ張られ、押し上げられる感覚がして、急に周囲が人の声で騒がしくなる。
「さあきみもだ!」
 ノエルを引っ張り上げた男性が、ノエルをまたいで弾へと手を伸ばしているのを感じる。
 今にも気絶しそうだったこのとき、ノエルはたしかに弾の声を聞いた。
「ノエル……よかった…。今度は助けられた…」
 満足そうな声だった。
 その声に何らかを感じて、切迫した思いで重いまぶたを押し上げたノエルの目に映ったのは、満足そうにほほ笑みながら沈む弾の顔だった。
「だめよ、死なないで! ……あなたと綴る物語は、まだこれからなのに!」
 けれど力尽きたノエルのその叫びは声になってはくれず、伸ばしたはずの手は1ミリも持ち上がってはいなかった……。


 救助作業は沿岸警備隊の出動によって迅速に行われた。
 船は大きく横に傾いて、船上デッキで花火を楽しんでいた人々が多かったにもかかわらず、死亡者はゼロだった。
「人は、いつ死ぬかなんて分からない。今日生きている、そのことに感謝して日々をすごすべきなんだ」
 レポーターからの質問に、恋人の肩を抱いて船から降りてきた青年がそう答えた。何かを吹っ切ったような表情は、テレビを見ていた人の記憶に長らく留まったらしい。
 後日、ノエルは弾がノエルと同じ3年前の船上事故で恋人を失っていたことを知った。
 彼もまたノエルのように、そのことをずっと胸の奥底で悔やみ続けていたのだ。
 同じ船の事故でともに大切な存在を失った2人が巡りあい、惹かれあうのはどんな奇跡か。
 彼はノエルを助けることでその傷を癒した。
 そしてノエルもまた……。



 さらさらという、紙の上をペンがすべるなめらかな音がその室内で唯一聞こえる音だった。
 そこに、キャーーーッという、小さな子どもの上げる楽しげな笑い声が聞こえてきて、手は動きを止める。手の先で、机上のデジタル時計が静かに9から0へと変わった。
 そっとペンを所定の位置に戻し、立ち上がる。窓を開け、下で遊ぶ子どもたちに声をかけた。
「そろそろランチにしましょう……弾さん!」
 突撃をかけた次男坊をがっちり抱きとめた弾が、笑顔で上を向く。
 振り返り、机上の原稿を流し読む。最後の行にペンネーム「クイン・ハーレー」のサインを綴ると、ノエルは静かに部屋を出てドアを閉めた。