|
|
リアクション
第一七章 塹壕にて
ひとたび落ちた巨人の下顎は、またするすると上がっていき、雲の中に隠れた。
猫背気味だった背筋が真っ直ぐに伸びると同時に、雲の中、ちょうど眼の位置にあたる場所が強く光った。
曇天はますます黒くなり、雷が鳴る。
「……本気で怒ったかな?」
カガチが周囲を見回しながら言った。
「心の中や夢の中は、言わば人の聖域。ドカドカと踏み込まれれば、アタマにも来るでしょう」
そんな台詞を口にしながら、クナイも「禁猟区」を用いて次の襲撃にに備えた。凄まじい反応が返って来た。ここは敵地のまっただ中――と言うよりも、「敵の中」そのものだ。当然と言えば当然かも知れない。
動きが出て来た。
彼方にまた、何かが生み出された。鉄条網だ。その向こう側に並ぶ人影。また、餓鬼ソルジャーと、そして岩山トカゲである。
突然、突入部隊のいた領域が突然大きく沈下した。
同時に、銃声と砲声が轟き始めた。
「きゃあっ……これって何なんでしょう!?」
メイベルが悲鳴を上げた。
「塹壕戦のつもりなのかもな……! くそっ、どこまでトラウマを押しつければ気が済むんだ!?」
朔が毒づく。先刻よりも密度や威力が高くなった銃撃に加え、砲撃も激しくて、頭を覗かせる事もままならない。
「塹壕戦だけじゃなく、爆撃戦もやりたがってるようですわね……」
フィリッパが空を指さした。
巨大ハーピーが空を飛んでいた。遠近感が狂うのは、やはり先刻戦った者よりも遙かに巨大で、そして高々度を飛んでいるからだろう。
ハーピーの口の辺りが光った。発した光は見る見るうちに大きくなっていき、突入部隊のすぐ近くに着弾した。
「うわあぁぁぁっ!」
「きゃあぁぁぁぁっ!」
爆風が一同を吹き飛ばす。
「各員、被害状況はどうなっている!?」
ジークフリードの声に、(だから何でお前が仕切る!?)と多くの者が心中で思ったが、
「カガチ、縁、アイン、軽傷!」
「真人、セルファ、軽傷!」「こんなの傷に入らないわよ」
「イオタ、無傷!」
「北都、クナイ、軽傷!」
「藤原、かすり傷ですわ!」
「メイベル、セシリア、フィリッパ、軽傷!」
「ブルーズ、無傷!」
「リカイン、ルナミネス、無傷!」
「満夜、ミハエル、軽傷!」
「鬼崎、赤羽、問題ない!」
という返事があちこちで聞かれた。
ブルーズが精神を集中した。高々度の巨大ハーピーに向かい、「奈落の鉄鎖」を用いる。
羽ばたいていたハーピーは、空中でジタバタとあがきながら、高度を失っていった。
十数秒後、落着。地面に激突した際、首を強く打ちつけ、断末魔の声を上げて動かなくなった。
歓声は上がらない。
銃撃と砲撃でその場に釘付けにされていた、というのもあるが、次の巨大ハーピー達が、高々度を飛んでいるのが見えたからだ。
それらの口に、光が見えた。
「むーぅ」
騎沙良 詩穂(きさら・しほ)は、対策本部の会議室の中で唸っていた。目の前には、これまでの調査で判明した資料や、推論仮説のメモが並べられている。
本当なら、彼女も夢への突入組として美術館にやってきた。ただし、戦う為ではなく、画家の魂を鎮める為に。武装は何も持たず、手にしてきたのはアコースティックギター一本。
――もっとも、画家の魂は単純な慰めや癒しを求めていたわけではなかったらしい。彼女は「現実側」に居残り、これまでの調査結果を眺める事ぐらいしかすることはなかった。
画家の望みは何か? 巨人の絵を完成させる事。でもモデルの巨人の肝心な顔は、雲に隠れて見えはしない。
(じゃあ、画家は何を描きたい? 何を描かせたい?)
「……どうぞ」
手元にお茶のペットボトルが置かれた。隣を見ると、オルフェリアが立っていた。
「あぁどうも。気が利くね」
「あなたは夢の中の事、観に行ったりはしないんですか?」
「別に? 心配するような人達でもなさそうだからね」
「そうでしょうか?」
「それよりも心配なのは、画家さんの亡霊だか残留思念よ……癒しや救いを求めていない、って言っても、何かが欲しくてこの世にいるわけだからね?」
「それはもちろん、絵を描いて欲しいからでしょう?」
「そう、絵を描いて欲しいから。じゃあ、どんな絵を……」
何かが、頭にひっかかった。
「そうよ……画家さんは、どんな絵を描いて欲しいのかしら?」
「それはもちろん、巨人の絵……」
「そう、巨人の絵。なら、どんな巨人の絵を描いて欲しいのかしら……いや、どんな巨人の絵を描きたかった?」
詩穂は、資料の中からコピーをクリップで綴じたものを取り出した。
生前に画家が使っていたスケッチブックの、「顔なしの巨人」と「表情の素描」の頁を写したものだ。
幾度も描いては消されている笑顔の数々。
「描いては消して、描いては消して……」
「消しては描いて、だと全然意味が変わりますね」
「そうね……意味は変わる……全く変わる……!」
その時、階下から声が上がった。
――うわ、こいつはヤバい!
――危険だ、撤退させろ!
――でも、一度撤退したら再突入はもっと難しくなるんじゃ……
――そんなこと言ってる場合か!?
耳に入る台詞からして、どうやら我らが突入組は苦戦しているらしい。
逸る気持ちを抑え、詩穂は「財産管理」で得られた情報を再度洗い直してみた。
夢の中の居残り組から巨人に向かって、攻撃スキルが次々に繰り出された。
が、その火線の数々が届く事はない。
分かり切っていた事だ。この悪夢の世界は、この巨人によって統べられている。空間も法則も思いのままだ。全てが、この巨人の――アルベール・ビュルーレのほしいままに存在する。
なら、巨人は何を思う?
絶望? 嘆き? 怒り? そんなものは分かっている。
「――これが望みなの!?」
アスカは大声で巨人をなじった。
「弱い者を自由になぶり続けるのが、あなたの望みだったの、アルベール・ビュルーレ!」
答えはない。
(みなさん! 一度撤退しましょう!)
(危ないよ、みんな! 一度戻ろうよ!)
アリアと波音が、突入組に伝えた。
高々度を悠然と飛ぶ超巨大ハーピーの爆撃は、いよいよ激しさを増していた。防御系スキルを持つ者が上向きにスキルを使用して被害を抑えているが、劣勢なのは否定できない。
だが、そこにエヴァルトからの報告があった。
(もう少し踏ん張れないか!? 巨人から伝わる衝動に、何かが混ざっている!)
(何かって何ですか!? みんなもう限界ですよ!?)
(何かって……絶望とも嘆きとも、怒りとも違う……そうだ、「期待」だ! 巨人は、突入組に期待しているんだ!)
(期待って何!? 飛び込んだ人達って、画家さんと戦う為に飛び込んだんだよ!?)
(なら、誰かと、何かと戦う事が画家の望みだったんだろうさ! 戦わなければ死にきれなかったんだろう!?)
「……あのさ。思ったんだけど」
郁乃が、近くにいた終夏に話しかけた。
「何?」
「アルベール・ビュルーレは絶望とか嘆きを抱えて生きてきて、いっぱい絵を描いてきたんだよね?」
「記録とかを見ると、そうみたいだね?」
「で、この騒ぎは、多分画家さんの残留思念ってか、亡霊ってか、そういうのが引き起こした事。
絵を描きたい、完成させたい、完成させれば望みは叶って多分成仏。言わば遺作を描き上げたいって事だろうけど……」
「それが?」
「人生最後の作品も、今までみたいなネガティブな作品にしたがるもんかな?」
「でも、傷だらけの体に笑顔はないんじゃない? それじゃシュールレアリズムじゃなくて、ただの悪趣味じゃない?」
「じゃあ、こういう考えはどうかな? 画家だから、描こうとする絵や描いた絵は、画家本人の心の動きの結果に過ぎない、って。
描きたい絵はあった。目標はあった。けれど、そこに届く為の何かが欠けていた。
本当の望みは、絵を描く事じゃなくて、絵を描こうとする過程の中で見つけ出そうとしたものだった――」