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早苗月のエメラルド

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早苗月のエメラルド
早苗月のエメラルド 早苗月のエメラルド

リアクション



A Storm Is Coming


「天気、悪くなってきたわね」
 船首に立っていた宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)は、交替するイオテス・サイフォード(いおてす・さいふぉーど)に見張り用の双眼鏡を手渡すと、手を額にかざして日除けにしながら空模様を眺めた。
 どうにも急に空の流れが変わってきたような気がする。
 波間を滑る風は強く、彼女の豪奢な黒髪を勢いよく持ち上げては弄んでいく。
 暗くなった空を見つめていると、後ろから香ばしい香りと共に声がかけられた。
「さっき定期通信で特別問題無しーって通信したばっかりなんだけどね」
 そう言いながら現れたのはシルヴィア・セレーネ・マキャヴェリ(しるう゛ぃあせれーね・まきゃう゛ぇり)
 隣でコーヒーのカップを祥子達に手渡しているローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)と共にウェザー当番をしていた。
「通信……あ、忘れてたわ」
 祥子はカップから唇を離すと、大きく息を吸い込んで合図をした。
「オールズ・ウェル・サー!」
 すると船尾どころかあらゆる場所から返事が聞こえてくる。
 今この船に乗っている乗組員は契約者であって本物の船員では無いから、真面目な定期連絡と言うよりは「祥子さーん」とか「オッケーだよ祥子ちゃん」とか気の抜けた返事も混じったものだった。
「問題なさそうね」
 クスリと笑った祥子に、イオテスとシルヴィア、ローザマリアが釣られて笑いだす。

 航海に出て7時間。
 彼女達の乗る帆船は、船酔いする者こそ居たが、それすら予定通りの順調な航海を続けていた。
 この船の舵を取るのは、雅羅・サンダース三世。
 女子高生が操る船。と言うと怪訝な顔をされるかもしれないが、この雅羅号はこれ以上無い位に安定している。
 それもそのはず、この船は文字通り操舵手の”思い通り”に進む船なのだ。
「どう? 私カッコいい?」
 ほぼ飾りと言ってもいい操舵輪に凭れかかってポーズを取る雅羅に、彼女の前に居た少女達がクスクスと笑っている。
「よっ! キャップテンマサラちゃん!!」と合いの手を入れてくれた東條 カガチ(とうじょう・かがち)にサムズアップを突きだすと、振って置いて何なのだが、
 本気で「雅羅、素敵だよ」とか「雅羅可愛い」と言ってしまう想詠 夢悠(おもなが・ゆめちか)想詠 瑠兎子(おもなが・るうね)の横をすり抜けて、雅羅は一休みすることにした。
 前を向いている分にはほぼオートと言って良い様なものだったし、疲れた時はマニュアルに切り替えて源 鉄心(みなもと・てっしん)らと交替していたから余裕も有る。
 雅羅は荷物の箱の上に座るジゼルの隣に腰を下ろした。否、ジゼルを膝の上に置いた。
 たまたまジゼルの周囲に居ただけの男子生徒達を目で牽制したのも無意識だ。

「どうしたの雅羅?」
 肩に顎を乗せられてくすぐったそうに身をよじるジゼルに、雅羅はボソボソ呟く。
「別に〜? ただ私はジゼルの保護者だし」
「保護観察官デショ?」
「どっちも同じよ。だからジゼルを色んな”悪いモノ”から守る義務があるの!!」
「悪いモノ??」
 首を傾げるジゼルと雅羅の上に呆れた声が降ってくる。
「雅羅ってばスッカリお母さんに……」
 雅羅の親友である白波 理沙(しらなみ・りさ)が腕を組んで立っていた。
 何度か話には聞いていたがジゼルに会うのは今日がほぼ初めてだったから、理沙は自分の親友がこのドールライクな少女相手にこれ程迄に過保護になっているのは知らなかったのだ。
「そんな事無いわよ。ただね、私は保護観察官として、友達としてこの娘を守る義務があるの。
 例えばそこのパンツ男とか!
 それからそっちの変態男とか!」
 そう言って雅羅は甲板で作業をしていた国頭 武尊(くにがみ・たける)蔵部 食人(くらべ・はみと)を指差した。
 少々私情は籠っていたが、雅羅にとって許せないパンツハプニングとブラジャーハプニングを起こした二人である。
「もー雅羅。武尊も食人私の大切な友達なのよ? 食人のアレなんてワザとじゃないのだし――」
 何時もの様に言われているのか少々困りながらそう言うジゼルは、キリッとした表情で付け加えた。
「武尊は私のパンツを巡って攻防するライバルでもあるけど」
「うん、何か分かった。ジゼルって結構天然入ってるのね」
「そうよ、苦労してる」
 肩に手を置いてきた理沙に、雅羅はため息混じりにそう答えた。
 けれどこの妙なやり取りのお陰で、チェルシー・ニール(ちぇるしー・にーる)は逆にジゼルに興味が増したらしい。
「ジゼルさん、好きな方は居られないんですの?」
「はいはーい、それイリアも気になるーっ!」
 理沙の隣から投げかけられたチェルシーと、イリア・ヘラー(いりあ・へらー)の言葉に、ジゼルは首を傾げた。
「ん? 私皆、大好きよ。」
「そうではなく、特別に好意を持たれているという意味ですわ」
「イリアにとってのダーリン、みたいにジゼルが特別に想ってる人の事だよ」
 箒の柄を両手で持ちながら聞いてくる美麗・ハーヴェル(めいりー・はーう゛ぇる)達に、雅羅は慌てて立ち上がると声を顰めて理沙達を集める打ち明けた。
「待って皆、この娘そういうの分かってないから。
 つい最近男と女が別の生き物だとか分かったくらいなのよ。
 厳密に言えば肉体的にも”見えている部分の違いしか分かっていない”というかつまり……」
「まあ」と口をあんぐり開くチェルシーと美麗の横で、理沙は雅羅を憐憫の表情で見た。
「それは本気でちゃんと見ててあげないと怖いわね」
 話し込んでいた彼女達の元へ、フレンディス・ティラ(ふれんでぃす・てぃら)がやってきた。
「雅羅さん、少々宜しいですか?
 今ウェザー担当のローザマリアさん達がお話しをと……」
「あーはいはい、今行くわね。
 じゃ、ちょっと失礼」
 雅羅が仕事に戻って行ったので、ジゼルは一人甲板を歩きだすと船縁から海を見る。
 天気こそ怪しくなってきてはいたが、海は波の感覚も一定で平和そのものだ。
「――やっぱり鯨なんてホントは居なかったのかな」

「鯨がどうかした?」
 ジゼルが声に振り返ると、高峰 雫澄(たかみね・なすみ)がシュラウドの最後の五段分ロープを飛ばして身軽に飛び降りてきた。
 珍しい船に興味津々のパートナー、水ノ瀬 ナギ(みずのせ・なぎ)と、
同じく帆船を見学していた次百 姫星(つぐもも・きらら)瀬乃 和深(せの・かずみ)と一緒にトップ台に居たのだ。
「……少しね、気になってたの。
 歌って人を襲うってもしかして……って。
 でもきっと勘違いね、セイレーンは私以外もう誰も残って居ないのだし」
「ジゼルさ――」
 スキルを使ってそのまま空を飛び降りてきた姫星が、何かを言おうと口を開いた時だ。
 船体がガクンと急に強く妙な揺れ方をしたのだ。
 そのまま船は地震のようにグラグラと揺れ続けている。
「ロープに!!」
 和深がシュラウド周囲のギア(ロープ)に走ると、姫星とジゼルも彼に続く。
「ナギ!」
 雫澄はシュラウドを降りていたパートナーの名前を呼び、飛び降りてきたナギを受け止めた。
「何かぶつかったんでしょうか?」
 姫星は船首に目をやるが、何か異常があるようには見えなかった。
「高峰さん、瀬乃さん、海の方見てましたか?」
「いや……」
「と言うより俺は下から突き上げられたみたいに感じたけど」
「な、なす兄、今のって……」
 不安そうにしているナギの向うでは、甲板に居たもの達がざわつく様子が見えた。
「……怖いよパパ」
「大丈夫だよ、パパがついてる」
 服の裾を掴む小さなユウキ・ブルーウォーター(ゆうき・ぶるーうぉーたー)を、リアトリス・ブルーウォーター(りあとりす・ぶるーうぉーたー)はそっと抱きしめた。
「パパ、今のは鯨?」
 リアトリスがユウキに答えようとしていた時、船体がもう一度大きく揺れた。
 甲板に悲鳴が上がる。
 ジゼルは様子を見ようとロープから手を離して海へ近付こうとしていた。
「ジゼル、そっちに行っちゃ危ないよ!」
「う、うん、でも――」
「戻ってジゼルさん」
 ナギの代りに追いかけてた雫澄がジゼルの腕を掴んだので、戻ろうとした瞬間だった。

 まるで子供に子守唄を歌う様に酷く優しげな女性の歌声が海を包んだのだ。

 その声にジゼルは彼女が特別懐いていた姉の姿を思い浮かべていた。
「この声、ヒメロパ姉様の?」
 ――ううん違う、姉様達はもう居ないのだから、そんな事ある訳ない。じゃあ一体誰が。
 海の中を覗き込もうと船縁を掴んだ時に、自分の腕を掴んでいた手が急に解かれたので、ジゼルは振り返って雫澄を見た。
 青い目が、何も映さないように焦点が定まらないままに海へ向かって行く。
「……なすみ? どうしたの?」
 死人が歩くようにゆっくりと海へと足を進める雫澄の服の裾を掴もうとしたジゼルの手が乱暴に振り払われた。
 ジゼルの背中にぞくりと冷たいものが走る。
 振り向くと姫星とナギもまた海へ向かおうとしていた。
「何が起こってるの?」
 甲板にいる誰もが彼と同じ様に安全な船から、太陽の光りの届かない海の底へ歩き出している。
 ジゼルの横をすり抜けていく友人達を引き止めようと、ジゼルは彼等の前へ回り込む。
「柚、しっかりして! 三月、そっちに行っちゃ駄目!!」
 普段ならば掛け値無しの笑顔を向けてくれるはずの杜守 柚(ともり・ゆず)も、杜守 三月(ともり・みつき)もジゼルの声に耳を貸してはくれない。
 聞こえてすらいないようだった。
 ジゼルは助けを求めて雅羅を目に留めると、彼女の元へと走った。
 彼女が最も信頼している友人なら、話を聞いてくれると思ったのだ。
「雅羅! 雅羅! どうしよう皆が……」
 抱きしめる様に制服を両手で掴んで見上げた友人の目は、皆と同じ様に虚ろだった。
「そんな……」
 後退るジゼルは成す術無く、冷たい木の床にぺたんと座り込んだ。
 そうしている間にも彼女の友人達は海へと近付いて行くのだ。
 ――どうしよう、これ、セイレーンの歌? どうしたら止められるの? 母様、姉様、助けて!!
 船に居る誰もが船縁を越えようとしている。一刻の猶予もなかった。
 迷っていては誰一人助ける事は出来ない。けれど皆を同じ様に大切に想っていたジゼルにはその取捨択一など出来ないのだ。 

「駄目だよ……駄目ぇえええええ!!!!」

 その瞬間。
 絶叫したジゼルの目に、海から飛び上がった鯨の姿が映った。
 その腹部にはおぞましく、醜悪で懐かしい姿が幾つも盛り上がっていた。

 強い恐怖と無力感に襲われて、ジゼルの意識はふつりと途絶えた。