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リアクション
湖の約束
霧に包まれた、タシガンの夜明けは、静かに始まる。
「グラニ、ごらん。美しい景色だな」
ララ・サーズデイ(らら・さーずでい)は、愛馬グラニの首を優しく叩きながら、そう声をかける。彼女の声に応えるようにして、グラニもまた首を巡らせ、白々と明けていく森の向こうの空へと目をやった。
まだ頭上は薄く星明かりも残るほどの早朝だ。凜とした空気はまるで冷水のようで、深く吸えば体内をすっきりと目覚めさせる。その快さに、白薔薇の騎士は口元に微かに笑みを浮かべた。
リリ・スノーウォーカー(りり・すのーうぉーかー)にも感じてもらいたかったが、あいにくリリは夜型で、昨夜も遅くまでなにやら研究をしていたらしい。ララが外出する時には、ソファでぐっすりと眠っていたし、おそらく帰宅してもまだ夢の国にいることだろう。
リリとララは、なりゆきで真珠舎とは深く関わることとなったままだが、それはそれで充実した日々だ。利便性を考えてタシガンの市街に新たに構えた新居にも、だいぶ慣れてきた。朝の遠乗りも、このところのララの日課になりつつある。
「さて……」
手綱をとると、グラニが軽くいなないた。この次に行く場所を、すでに愛馬はきちんと覚えている。ララに、さぁ行きましょうと誘っているようだった。
そんなグラニに頷き、ララはゆっくりと森へと入っていく。
タシガンはまだ自然が多く、こうした森もいくつもある。危険なものもあるが、ここは割合と静かなところだ。もっとも、多少の危険などは、もとから気にするララではないが。
一行の目的地は、森にかこまれた湖だった。早朝ともなれば、人影もない。……そのはずだった。だが。
「……やぁ。おはよう」
偶然だ、と優雅に微笑むルドルフ・メンデルスゾーン(るどるふ・めんでるすぞーん)の姿が、そこにはあった。傍らではルドルフの愛馬が、ゆったりと水を飲み、休息をしている。
驚きに一瞬反応が遅れたものの、ララもまた丁寧に挨拶を返し、馬を下りた。グラニにも水を飲ませ、休ませるためだ。
二頭が自然と近づき、ともに草を食む。それを見守りつつ、自然と、ルドルフとララも、湖を前に草の上に腰を下ろした。
「最近は遠乗りの時間を作れるようになったんだね。ルドルフ、君はもっともっと自分の気晴らしに時間を使うべきだ。そうだ、…私は真珠舎に薔薇園を造ったんだ。もう暫くしたら最初の蕾が咲き始める。そうしたら…その、もし良ければ見に来てくれないか……」
「それは楽しみだ。さぞかし、……そう、この湖面にさざめく光のように美しいだろうな」
ルドルフは、そう、仮面の下で目を細める。
「確かに美しい。こんな時、気の利いた者なら詩の一つも作るのだろうけど……生憎私は武骨者でね…」
ララは立ち上がり、湖を見つめた。
金色の光が、揺れる。ララの揺れる心、そのままのように。
ややあって、ララの形の良い唇が、小さく動いた。
「……『沖深み 釣する海士の いさり火の ほのかにみてぞ 思ひそめてし』」
それは、式子内親王の恋の歌だ。
遠くの光を見つめるように、貴方を想っている、と。
遠回しな、しかし精一杯の、ララの告白だった。
「…………」
ルドルフが立ち上がったことが、気配でわかる。このまま立ち去れてしまうのか……と、ララが密かに目を伏せたときだった。
「『山深み 春とも知らぬ 松の戸に 絶え絶えかかる 雪の玉水』」
ルドルフは静かに、そう答えて吟じた。
――恋の歌ではない。けれども、拒否はされていない。それだけでも、今のララには十分だった。
「ルドルフ」
ぎゅっと手のひらを握り、ララは振り返ると、ルドルフの前に跪く。そして、長いカールされた金髪が、ララの肩を滑り落ち、揺れた。
「ルドルフ。私は、君のイエニチェリにはなれないことは理解している。それでも私は……私は、君の背を守る者でいたいんだ。君の持つ数多の剣の一振、数多の薔薇の一輪、それでいい。私を君の騎士に加えて欲しい。それが私の望みなんだ」
恋人になれないことは、わかっている。
一番の側近になることもできない。
それを理解した上で、ララは膝をつき、ルドルフに心からそう願ったのだ。
ルドルフは、すぐには返答はしなかった。彼なりに、迷う心はあったのだ。
「ララ・サーズデイ」
静かに、ルドルフはララの名を呼ぶ。ララはしかし、顔をあげはしなかった。ただ、じっと、その言葉の続きを待った。
「僕は、君を、騎士として認めている。その君が、僕の剣となってくれるというのか?」
ララは、ただ頷いた。
「……ならば僕はその剣の使い手として、よりふさわしい男にならなくてはならないね」
「……!」
受け入れてくれたのか、とララは顔をあげる。
次の瞬間、彼女を見下ろすルドルフの表情に、驚きに息を呑んだ。
「さぁ、我が騎士に最初の命を下そうか。……遠乗りを再開しよう」
ルドルフはすぐに背をむけ、いつものように優雅にララを誘う。ララもまた、素早く立ち上がり、答えた。
「はい、ルドルフ様」
主となったのであれば、呼びかける言葉は当然変わる。しかし、以前よりも増して、ララにはルドルフへの距離を近く感じることができた。
再び、二騎の影が走り出す。
――ララの光は、すぐ、そこにあった。