蒼空学園

リアクション

　荒野の空には、星と呼ばれる無数の浮島が瞬いている。
「かつて、最初の人間であるヤマの死を悲しむヤミーを慰める為に、神が夜を作り出したんだ」
　幾度と繰り返された夜の空で、星々は精一杯輝き続けていた。

■夜の果て■

「出かけよう」
　と、黒崎　天音（くろさき・あまね）は言った。
　まだ陽の昇る前のタシガン。
　ブルーズ・アッシュワース（ぶるーず・あっしゅわーす）は、寝ぼけた頭で天音を見返し、数度、瞬きをしてから、不機嫌に喉を鳴らした。
「……今からか？」
　とん、と鼻先に、折られた雑誌を置かれる。
「ヨマの民の事が載ってる。覚えてるかい？」
　ヨマというのは、シャンバラの地を巡っているジプシーの一団のことだ。
　天音とブルーズは、このヨマの民に関連する幾つかの事件に関わったことがある。
「記事によれば、彼らは最近までタルヴァに寄っていたらしい。会いに行こう」
「…………」
　嘆息して、ブルーズは、とりあえず、手に取った雑誌の記事へと視線を落とした。
　1ページ程度の記事だ。
『消えいくヨマを追って』
　若者が次々に離れ、存続が危うくなっているヨマへの取材記事を通し、シャンバラの古い文化の保存について警鐘を鳴らしている。
　15年前に地球と繋がって以来、パラミタに暮らしていた者の生活は、それぞれ多かれ少なかれ変わった。
　それは地球の方にも言えることかもしれない。
　ともかく、全く異なる文化と文明が流入し、混ざり合い、それは様々な発展をもたらした。
　女王という存在の復活と建国を経て、シャンバラは豊かになった。
　目まぐるしい速度でそこに住む者たちを取り巻く環境は変わった。
　故に過去から続く小さな文化が消えることも、そう特別なことではないように思える。
　元々ヨマのように決まった土地をもたない者たちは、疎まれることも多いのだろう。
　もとより、芸を糧を得る術としてきた者たちだから才と技術には恵まれている。
　アンテナ基地と光ファイバーによってメディアの発達したシャンバラでは、その土地土地で芸を披露して回るより効率の良い舞台は数多ある。
　未来ある若者と子供たちの未来を考える者が、厳しい生活を抜け、より良い環境を求めるのは当然で、それは誰にも責められることではないだろう。
　とはいえ、古くから残るものには、それなりの意味と価値があるというのもまた当然で、それを憂うのも、まあ、分かるが。
「……なるほど」
　ともあれ、ブルーズにとって大切なのは、今日、掃除洗濯をひと通り済ますつもりだった、ということだ。
　いつの間にか天音が持ち込んでくる本やガラクタ、脱ぎ散らかされたままの服で部屋が埋もれている。
「なにしてるの？　早く準備しなよ、ブルーズ」
　ブルーズが諸々を逡巡している間に、すっかりと出かける支度を整えていた天音が、緋色の組紐で長い髪を束ねながら問いかけてくる。
「……そう急ぐ必要はあるのか？」
「折角だから、少し綺麗なものを見ながらも良いかなと思って」
　天音は部屋の片隅から、何かを引き上げながら言った。
「さあ、背中に乗せてくれるかい？」
　にこりと笑んだ彼がガラクタの中から引き上げたのは、手綱だった。

◇

　タシガンの東、キマクの方から昇る陽が、西の果てへと永遠に続くような雲海の様子を露わにしていく。
　白々と朝が始まっていた。
　夜を超えて陽に触れ、気化して間もない水気を含んだ綺麗な風が、心地の良い感触となって、頬を撫で、ゆっくりと息を吸い込んだ鼻奥をくすぐる。
　下方、急速に白さを増していく雲海を滑るのは、天音を乗せ、翼を広げたドラゴンの影だった。
『――確かに美しいが』
　洗濯と掃除に未練をもった呻き。
　まだドラゴンとしては小さいが、その体躯は、この雲海と空とだけに挟まれた空間を統べるに相応しく思えるほど頼もしい。
　ごう、と風を切り続ける音と、ドラゴンの口の端から漏れる低く太い吐息の音がある。
「帰ったら手伝うよ」
　天音はクスリと笑みながら、自身を乗せて飛ぶブルーズの背を撫でた。
　ドラゴネット化したブルーズの身体にかけた鞍には、きっちりと纏められた天音の荷物が下げられている。
『あてにすると思うか？』
　諦めが篭った言葉が返ってくる。
　黒曜石のような鱗の、艶々と光る様や手触りが好きだった。
　固く、ひんやりとしているが、確かな息遣いがそこにある。
　感触をもっと得たいという欲求に逆らえず、指先でそっと引っ掻いていたら、ブルーズの身体が小さく身悶えした。
『なんだ……何かついているのか？』
　むずがゆかったらしい。
　少し笑って、天音は、触れていた指先から手のひらを落とすように同じところを撫で、「何でもないよ」と目を細めた。
　太陽が世界を完全に朝へと変えていく。
　遠く、霞んだ果てには、雄々しいパラミタの大地と山々が見えていた。
『寒くはないか？』
　柔らかく、心配そうな問いかけ。
　吹く風はまだ少し冷たい。
「気持ち良いよ」
『……そうか』
　その声はどこか満足そうな様子だった。

◇

　ヨマの民が辿る道を正確に知る者は少ない。
　時々の土地の様子に合わせてルートを変えることも珍しくはない。
　シャンバラ大荒野は広く、常に様々な顔を持っているからだし、ともなってその危険も多様だ。
　彼らが向かった方向を大体で調べ、後は、ブルーズの影から放たれた３匹の黒狼で周囲を探り、ようやく、それらしき一団を見つけ、辿り着いたのは、昼を過ぎてしばらくした頃だった。
　
　彼らの今日の移動は、ここで終いらしく、野営のためのテントが幾つか立てられ始めていた。

「この盤に込められた音をどうしても聴きたくてね」
　気難しそうな長老に挨拶と説明をし、案内されたテントで取り出したのは、一枚のオルゴール盤だった。
　明らかに幾つもの時代を経た遺物そのものだが、天音が修繕してある。
「数年前、テレビに出ていたウル・ジという女の子と会って、彼女に聞いたんだ。ヨマなら、この盤を鳴らすことができるオルゴールを持っている人が居るって」
「ウル・ジ……」
　その名前に、ヨマの長老は深い皺を尚更濃くした。
「知ってるの？」
「……役目を捨ててヨマを出た夫婦の娘だ」
「追わなかったんだ」
「わしの言うことなど誰も聞きやせん。どうせ、かの地へ近づかなければ何が起こることもなかろう」
「ヒラニプラの近く、ジャンクヤードという土地で彼女は、そこに埋もれていた遥か昔の飛空艇“亡霊艇”を目覚めさせた。……いや、正確には亡霊艇をそこに縛り付けていた何かしらの力、かな」
　天音の言葉に、長老は持っていたプラスチックのコップをゆっくりと地面へ置いた。
「ウル・ジはどうなった？」
「亡霊艇事件があってから一度だけ会ったけど、その後のことは僕には分からない」
「……そうか」
「あの場所にあったものは、ヨマに関係したものなんだね。白砂の砂漠の下に埋もれていた遺跡とも」
　天音はプラスチックのコップに入った香茶を飲んだ。
　ぬるいそれの味は薄く、ミントのように鼻へ抜ける清涼さがある。
　知っているような知らないような香りのお茶は、慣れれば、暑くなっていくこの時期にはちょうど良いものだと思う。
「なぜ、あれらは切り分けられ、土地を移ったたのか、あなたは知らないかな？」
「長い時を経て、多くの知識は失われ、我々はただ守るべきことを守るだけしかできん」
　長老は憮然とした様子で、どこかスネたように言った。
　テントをめくり、一人の優しげな老婆が入ってくる。
　背中が折れ曲がった丸い身体には様々な装飾品がぶら下がっていた。
　ジャラジャラと音を立てながら、端に腰を下ろすと、彼女はまぶたが垂れて細くなった目を天音へ向けた。
「持ってきたよ」
　言って、彼女が差し出したのは三角柱型の箱だった。
「母から貰い、母もその母から貰ったものさ。大して手入れも出来ちゃいないのに不思議と壊れない。だが、盤の方は駄目だね、聴くことが出来るのはもう何枚も残っちゃいないよ」
「ありがとう。来たかいがある」
　天音はそのオルゴールの本体を受け取り、笑んだ。
　材質に見覚えがある。ニルヴァーナの遺跡で多く見た金属だ。
　三角形の先端が開くようになっていて、そこに盤を挟み込むようになっている。
　中は、無数の歯車と櫛とが複雑に詰め込まれていた。
「少し時間がかかりそうかな……」
　ごちてから、天音は老婆の方へ顔を向けた。
「後で少しだけ記録させてもらえないかな。自分で作ってみたい」
「そいつは気の長い話だね。構わない、好きにしておくれ」
　好々とした笑みで言われる。
「さっきの話の続きだが……」
　長老が、茶を注いだカップを老婆へと渡し、独り愚痴るように零す。
「いつの時代も人間は愚かだ。触れる事のできる力があれば、己の器を超え、際限なく恩恵を得ようとする。そして、大きく失う。そうしてようやく戒めと未来のためにそれらを封じるが、肥大した力を鎮めるには長い長い時間がかかるものだ。繰り返すわけにはいかんというのに、愚かさは変わらん」
「愚か、ねぇ」
　老婆はゆっくりとした心地の良い声で漏らした。
「そうしなければ守れないものがあり、そうして守りたいものがあった。すべての最初は大体そんなものだろう。過去の正義も罪も、過去の彼らのものだ。私たちのそれがそうであるようにね。そして、未来は、そこへ辿り着く者が好きに選べば良いじゃないか」
　彼女の声で紡がれるものは、すべて歌の一節のようだ、と天音は思った。
　ヨマの古い歌を紡ぐ歌い手だ。その人生のほとんどは土地を巡り、歌うことで出来ている。
「――さて」
　見慣れない仕掛けに少し手間取ったが、盤をオルゴールに挟むことは出来た。
　しかし、これはどう動かせば良いのか。
　と、ジャラリと音を立てて立ち上がった老婆が、よいしょと近づき、本体の側面に指を滑らせた。
　指の辿った跡に、ぼんやりと薄い光が灯った後、コチリ、とオルゴールの盤は回り出したのだった。
　耳馴染みの良い、柔らかな金属を弾く音。
　それが一つ、二つ、と並んで、やがて、たくさん。
　高くと低くと近くと遠く、音があちこちへと飛び遊ぶ。散りばめられる。満ちていく。
　気づけば、それは一つの不思議な音楽だった。
　
　テントの外。
　ヨマの子供２人に捕まって、ヨマの飼う家畜の乳で出来たヨーグルトのようなものや蜜パンを次々にふるまわれていたブルーズは、テントから流れてきた音の方を見た。
　子供たちもブルーズの膝にまとわりついたまま、そちらの方を見ていた。
　三人は、ただ黙って、その音を聴いていた。
　ヨマの大人たちも、彼らの連れる動物たちも。

　老婆の歌声が混ざる。
「知っているの？」
　天音の問いかけに、老婆は首を振った。
「ただ自然に、合わせているだけだよ。心の傾くままに、泳いで混じり合うのさ」
　無数の音と老婆の歌声とが混じったその歌は、古く懐かしい響きを持つ、ヨマの、新しい歌だった。

　テントから聞こえていた音が途切れてから、しばらくして、天音がテントの入り口からひょっこり顔を覗かせた。
「琴を持ってきてくれないかな。鞍の荷物に包んでもらったヤツ」
「二つあったが、どちらだ」
「どちらも。歌を教えてもらえることになったんだ。だから、代わりに歌を返す。ヨマの歌には龍頭琴の方が合いそうだけど、僕の歌には百弦琴が必要だ」
　天音の言葉に、ブルーズの肩によじ登っていた少年と足元の少女が嬉しそうに声をあげた。

　結局、夜は火を囲んでのささやかな宴会となり、天音は多くのヨマの前で歌を習い、返しの歌もそこで披露することになった。
　いつか人魚に教えて貰った歌だ。
　パラミタの水の湧くところ。内海にある蒼い水底。
　青に差して揺らぐ、美しい光を讃える人魚たちの歌。
　それは、ここから遠い遠い海で響いていたもの。

◇

　大荒野の東の夜空に浮かぶ星々は、遥か彼方にある無数の浮島だ。
　タシガンへ帰る前に天音が、それらを眺めていきたいと言った。
　反対してやるつもりはなく、東へと飛んで、地面から細長く伸びた岩塔の上に降りた。
　空には薄い雲の切れ端があるだけで、月が明るい。
　眼下には風が渡る大荒野があり、獣だか怪物だかの遠吠えが疎らに響いている。
　近くでは細々と溢れる虫の声がふつふつと鳴っている。
　渡ってきた風には乾いた草と砂の匂いがある。
　岩に腰を降ろしているブルーズの隣で、天音は寝っ転がって遠い夜空を見ている。
　天音の身体の表面には淡い光があるように見えた。
　彼が髪を束ねるのに使っているあの組紐は浮遊島、浮遊大陸、ナラカとを結ぶ星脈を感じることが出来るものだという。
　いつか、イーダフェルトで星脈と機晶石との関係を探った天音は、暗闇の中に無数の光を見、懐かしさを感じたと言った。
　今もまた、同じものを見ているのだろうか。
　彼の隣で、ブルーズもまた幾つもの小さな浮島が瞬くのを見上げた。
　ふと、天音が言う。
「かつて、最初の人間であるヤマの死を悲しむヤミーを慰める為に、神が夜を作り出したんだ」
　ゆっくりとそちらを見下ろすと、彼の目はまだ夜空に向けられていた。
「昨日、今日、明日。今は過去へと過ぎ、未来がやがて来る。時間という概念は、悲しみの慰めとしてもたらされた」
　そんな地球の神話を思い出したよ、と彼は言った。
　ブルーズはゆっくりと息を吐いた。
「お前は、時々えらく唐突だ」
　自身の鱗に軽く触れ、零す。
「一度、その頭の中を覗いてみたいものだ」
　天音の上半身が持ち上がり、その目がこちらへ向けられる。真っ直ぐに。
「いつかね」
　そう言った天音は微笑を浮かべ、少しだけ顔を傾けた。
　風が巡る。
　荒野を渡る音と匂いと感触とを連れて、それはまた、朝へ向かうのだろう。