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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●現代アメリカ 5

 その後ろ姿を見た瞬間、永井 託(ながい・たく)の体は凍りつき、一切の活動を停止した。
(今のは……まさか…)
 真っ白になった頭がようやくそれだけのスペルを思い出す。
 息苦しさに、はじめて自分が息を止めていたことに気がついた。
「あ、おい。託?」
 突然走り出した託に驚く友人ダグの声。
 託は彼女の肩を掴み、呼んだ。
「あやめ!」

 今思えばなんとも致命的な、とんでもないことをしたものだ。

 振り返った彼女はアイリスという女性で、あやめではなかった。
 当然だ、あやめはもう2年も前に死んでいる。しかもこのアイリス、あやめとは(中身が)似ても似つかない。
「へーっ、そんなに私と似てるんだ。ね? ね? 写真持ってる? 見せてよ! んーと、今は急いでるから明日ね! E棟前のベンチに10時!」
 と、人間違いの弁明をする託に向かって言ったあと、勝手に待ち合わせの日時を指定してさっさと歩いて行ってしまった。
「いや、あの、俺、行くって言ってないですけど…」
「とんでもない女、ナンパしちまったな」ご愁傷さま、とばかりにダグが肩をたたく。「よりによって彼女かよ」
「おまえ、知ってるのか?」
「ん? なんだおまえ、マジで知らなかったのか? 今年の新入生のなかでもちょっとした有名人だぞ。理由は分かるだろ? 美人なのにあの歯に衣着せぬもの言いで、一体どれだけ告ったやつらのハート引き裂いてきたか」
 有名人と言われても、託にはぴんとこなかった。
 あやめを失ってからずっと、モノクロの世界で暮らしてきた。あとを追うことも許されなくて、ただ親たちの望むままに流されて生きてきた自分。周囲など流れうつろっていくだけで、全く目に入っていなかった。
「明日行くのか?」
「そうだな。まあ、とにかく行くよ。悪いのは俺の方なんだし」
 ダグは「大変だぞ」と言いたげな目をして託を見たが、もう何も言わなかった。
 それまでのように、教室のあるA棟へ向かって歩き出す。話題は年末の試験のことに変わった。あたりさわりのない、適当な言葉で受け流していると、ふと、そういえば彼女の周りだけビビットだったことを思い出した。



「おっそーーーい!!」
 翌日、待ち合わせ場所に遅れて来た託をアイリスは叱りつけた。
「……でも……俺……急いで…」
 切れた息でのどをぜいぜいいわせながら託は必死に弁解する。講座が終わってすぐ駆けつけたのだ。だがE棟とA棟は端と端というくらい距離がある。しかも託の教室は3階だった。
「言い訳はなしよ! 4分29秒遅れたわ! だから……そうね、あれをおごりなさい!」
 アイリスが指差した先には自動販売機があった。
 まあ、飲み物ぐらいおごってもいいけど。すたすた歩いて行くアイリスについて歩きながら思う。
「ちなみに、もっと遅れてたらどうなってたの?」
「さあ? 私、5分以上待ったことないもの」
「……いや、もうちょっと待とうよ」
 うわお、かなりやばかったんだ、と冷や汗をかきつつベンチに戻り、コーヒー缶を口にした。
 横のアイリスをチラ見する。
「……なによ?」
 同じように缶に口をつけいた彼女が視線に気付いてじろりと見上げてきた。
「ううん、べつに」
「じゃあさっさと写真見せなさいよ。持ってきてるんでしょ?」
「あ、うん…」
 託の取り出したミニアルバムをさっそく開いて、アイリスは歓声を上げた。
「うわー、ほんとに似てるわ! すごい! 私、てっきりあなたがナンパの口実に使ったんだとばかり思ってたのに! 死んだ恋人に似てるなんて、ナンパの手法でも古典すぎるでしょ! 頭悪い男と思ってたのよ。だから今日も絶対来ないと思ってたわ!」
「そんなことはしないよ」
 なんだろう? この子のこのテンポは。かなり失礼なことを言われているのに怒る気になれない。
 苦笑していると、アイリスがじーっと見つめてきた。
「なに?」
「あなた、笑うと目元がやわらかくなるのね。もうちょっと笑った方がいいわよ」
 アイリスは何気なく言ったのだろう。しかし託には衝撃的だった。
「……俺、笑ってた?」
「自分でしていたことも分からないの?」
 どう答えたものか。託はあいまいな表情を浮かべて目線を飛ばす。そうして、ぽつぽつと2年前の出来事を話した。できるだけ簡潔に、当時の感情にとらわれないように、手のなかのコーヒーのぬくもりに意識を集中するようにして。だけどうまくいかなかった。話すにつれ、どうしてもあのときの記憶に引っ張られてしまう。
 事故は託の不注意によるものだった。あやめをからかいながら路地から走って飛び出した直後、こちらへ向けて突っ込んでくるトラックに気付いた。運転手はパニックを起こして必死でクラクションを鳴らしていた。避けなくてはと思った。だがすくんだ足は一歩も動いてくれず、まるで地面に貼りついてしまったかのようだった。ぶつかる衝撃を覚悟して、ぎゅっと目をつぶった。できれば痛みも感じずに死ねますように…。
 しかし次の瞬間託が感じたのは自分を突き飛ばすあやめの手だった。彼は向かいの壁に激しく頭と肩をぶつけた。だがそんなもの、あやめの感じた痛みに比べればどれほどのものか。託の前、あやめはまるで人形のように跳ね飛ばされ、地面に落ちたところをトラックの前輪に轢かれた。
 轢かれたときにはもう彼女の意識はなかっただろう、とあとになってだれかが言った。まるでそれが慰めになるかのように。
「彼女はほとんど意識を回復しなくて……1週間後、病院のベッドで亡くなった。亡くなる直前、彼女は……何か口にしたんだ…。だけどそれが何だったのか、思い出せない」
 まるで無声映画のようだった。心拍数が激しく乱れ、警告音を発する枕元の装置。半狂乱になった彼女の両親。あのときの光景ははっきりと思い出せるのに、どうしても彼女の声だけは聞こえない。託を見て、唇は何かを伝えようと動いているのに…。
 カウンセラーは無意識的な防御が働いているのだろうと言った。
 あやめを殺したのは自分だ。死ぬべきなのは自分の方だ。彼女を殺した自分が生きているなんて許されない。そんな罪悪感にとりつかれているせいだと。だけどその命は彼女が己の命にかえても助けてくれた命だ、きみは彼女の分まで生きなくてはならないとさとされて――死ぬ機会を失った。
 彼女の死とともに、世界は灰色と化した。
 毎日生きるのがつらいのに、死ぬこともできない。
 こんな僕のために。
 こんな僕のせいで。
 あやめは死んだ。
「ふーん。で、今も死にたいの?」
「……どうかな。機会を逃がしちゃったからね。でも、いつ死んでもいいかな、とは思ってるかな」
 こんなこと、今までだれにも話したことはなかった。両親に言えばまたカウンセリングに放り込まれてしまうからだが、それにしても昨日会ったばかりの女性になんて。
 不思議に思っていると、アイリスが不意打ち的なキスをしてきた。託が反応するより早くアイリスは身を引く。
「! あ、あああアイリス!?」
「及第点ってとこかしら。私はそれでいいと思うわ。どうせだれも生きる目的なんてそんなご大層なこと考えながら生きてるわけじゃなし。それにね、私はその彼女を知らないから多分だけど、彼女はあなたに自分の分も生きてほしいだとか、そんなの考えてなかったと思うわよ?」
「え? それはどういう――」
「あっ、と。そろそろ行かなきゃ。次の講座が始まっちゃう」
 アイリスは元気よく立ち上がり、E棟の入り口へ向かった。
 これで終わりだ。託は息を吐く。なぜあんなことをしてしまったのか、説明は果たしたし。彼女は文系で俺は理系。重なっている講座もない。もう会うこともないだろう。
 少し残念な気持ちで見送っていると、突然彼女が振り返った。
「ねえ! あなた、まだ私がその彼女に見える?」
 どういう意味だろう? 託はゆっくり首を振る。
「そう。それはよかった。じゃあ私たち、つきあいましょ!」
 


 あやめは人見知りだった。ひっこみじあんで、託の友達と会ったときも彼の後ろに無言で隠れているような、おとなしい少女だった。
「そこがすごくかわいかったんだ。こう、俺が守ってあげなくちゃ、って気にさせられるというか」
 思えばよくからかったものだった。彼女がどういう反応をするか分かった上で、コートのなかに抱き込んだりして。真っ赤になってあわてるあやめをニヤニヤしながら見ていたものだった。
「おーいー託くーん?」
 かえってこーーーい、とアイリスが呼びかける。
「パニック起こしてるのが分かるんだよなー。耳まで真っ赤になってさ。すごく分かりやすいというか。そのいうの見たら男としてはさ、ぎゅーーってしたくなるじゃん?」
「ふむふむ。それは分かるわ。女でもそうだもの。かわいいは正義よね」
 同意にうんうんうなずくアイリスを、託は不思議な気持ちで見た。
 なぜかアイリスは会うたびにあやめの話を聞きたがった。せがまれるまま、話してきたが…。
「……前の彼女の話聞くの、そんな楽しい?」
「え? 楽しいというのとはちょっと違うわね。でも託くんを知るにはこれが一番早いでしょ」
「そうかな?」
「うん。おかげで託くんがどれだけ彼女を神聖化しているかが分かったわ。理想の女性、永遠の女神像というわけね」
「そんなこと……ないよ」
 ちくりと胸を刺された気がして、やましさからうつむいてしまう。が。アイリスの分析はそこで終わらなかった。
「ついでに女々しくて、Mが入ってて、妄想癖があって、すぐいじけて思い詰めるタイプだとも分かったわ。根暗ね」
「おまえそこまで言うか?」
 あきれたようにため息をつく。さんざんな言われようだと思ったけど、やっぱり腹は立たない。
「ったく。いやなやつだな」
 それを聞いてアイリスはにっこり笑った。
「そうよ。私、いやな女なの。だから彼女みたいに私を神聖化なんてしないでね」
「するかよ」
 アイリスはあやめとは全然違う。とことん前向きで、ひとの先頭に立ってぐいぐい引っ張っていく人間。障害物があろうが突進して、突破して、豪快に笑うタイプだ。彼女の笑顔は生き生きとした活力にあふれていて、あやめのほほ笑みとは似ても似つかない。似ていると思ったことすら今は信じられなかった。彼女たちは別の人間だ。
「なあアイリス。クリスマス、何か予定あるか?」
 思い切って尋ねてみた。それまでずっとアイリスからモーションをかけられるばかりで、託から誘ったことは一度もなかった。つきあっているのだし、一応はイベント的なものを2人でするのもいいんじゃないかと…。
「あ、ごめんなさい。無理」
 あっさりアイリスは断った。
「えっ?」
「だって私、そのころには多分入院してるから」
「入院?」
「この前、体の調子が悪いって言ってたでしょ。あれは白血病だからなの」
 寝耳に水の告白だった。あまりの衝撃に言葉も出ず、託は凍りついたように動けなくなった。
「いつ…」
「9月。入学する直前かな」
 託がそういう反応をするのは分かっていたと、初めてアイリスは申し訳なさそうな顔をして託を見た。
「即入院かと思ったんだけど、まだ体力があるうちはいいって。でも、準備はしておきなさいって。だからクリスマスは一緒にすごせないの。ごめんね」
「なん…っ、なんで、そんな平然としてられるんだよ! どうして――」
「泣いたり暴れたりするのは、もうさんざんやったから」アイリスの指がそっと託のほおをなぞった。「ねえ託くん。前、世界は灰色だって言ったけど、それってもったいないと思わない? だって世界はこんなに美しいのに。私がいなくなってもこの世界は美しく、変わらぬ光に満ちている。そう思うと私は涙が出るくらいうれしくてほっとするの」
「アイリス……だめだ…」
 理解の追いつかない頭のまま、託はアイリスの肩に手をかけた。とにかく何か言わなくてはと思ったが、頭が真っ白になって何を口にしているかもよく分かっていなかった。
「ねえ、教えて。今、託くんの見える世界って灰色?」
 託が首を振るのを見て、アイリスはうれしそうに笑顔になる。
「私、奇跡なんか起きないって思ってた。でも託くんと会えたわ。これって奇跡よね!
 だから託くん、私が入院しても会おうなんて思わないでね。あなたの目に映る世界がきれいなままであってほしいから」
 私、あのころはあやめさんのこと、何も知らなかった。でも今は少しだけど理解してるつもり。
 あのね、彼女はあなたに自分の分まで生きてほしいなんて思ってなかったわよ。私もそう。あなたはあなたの人生を生きて、幸せになって。この美しい世界で。

「いつもあなたが幸せでありますように」

 その瞬間、託のなかのあやめの最期の姿とアイリスの姿が重なった。
 託は必死に奥歯を噛み締め、こぶしを握り締めて泣くまいとした。だけど涙を防ぐには不十分だった。
「なれないよ……きみがいないのに…。……死なないでくれ……頼むから…」
「なれるわ。もしあなたがそれを奇跡と思うとしても。私に奇跡は起きたもの。あなたにもきっと奇跡が起きるわ」
 そして一歩後ろに退いた。
「あーすっきりした。
 ね? それでどこに私を連れて行ってくれるつもりだったの? もうお昼すぎちゃったけど、今からでも行けるかな?
 クリスマスじゃなきゃ行けない場所じゃないんでしょ。連れてって、託くん」



 それから1カ月後、アイリスは入院した。
 本当は即入院しなくてはいけなかったのを、できる限り引き延ばしたせいらしい。多分彼女は病院へ入れば二度と出られなくなることを知っていたのだろう。
 白血病の進行は早い。アイリスは半月ももたなかった。
 彼女の死の報告を、託は病院の外で受け取った。
『私がいなくなってもこの世界は美しく、変わらぬ光に満ちている。そう思うとほっとするの』
「……うん。アイリス。そうだね」
 まばたきをして、こみあげてきた涙をこばむ。
 彼が泣いて立ち止まることを、アイリスはきっと望んでいない。あやめも。
「さあ、幸せを探そうか」
 この美しい世界で。奇跡を起こそう。