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第17章 離れていても離れないもの

「……? どこからか、猫の鳴き声がしますね……」
 エルンスト・コーエンは、空京の住宅街の一角にあるエース・ラグランツ(えーす・らぐらんつ)の自宅の前に立って軽く視線を巡らせた。住宅街とはいっても家同士の間隔には余裕があり、道幅も広く取られている。見通しは悪くなく、彼が見た限りでは、近くに猫の姿は無い。
 彼の前には腰よりも少し高い程度の門があり、インターホンを押すと、数秒後に『今、お迎えにあがりますので少々お待ち下さい』という声が聞こえた。間もなくエオリア・リュケイオン(えおりあ・りゅけいおん)が玄関から出てきて、笑顔で門を開錠する。
「遠い所をお疲れさまです。さあどうぞ」
「おーいシヴァ、どこに行くんだ」
 その時、庭だろうか、家の脇の方からエースの声が聞こえてきた。そこから黒い猫が飛び出してきて、こちらに走ってくる。続けて、黒い猫をもう1匹抱いたエースが顔を出してきて、エルンストを見て「え?」と目を丸くする。完全に不意を打たれたらしい彼に、エルンストはラグランツ家の執事として丁寧に礼をした。
「ご無沙汰しております、エース様」

「そっちがシヴァで、そっちがゼノン、俺の愛猫だよ。使い魔だけど」
 客間で向かい合い、エースは改めて黒猫達を紹介した。興味があるのか、先程からエルンストに「にゃあ」「みゃあ」と愛想を振りまいている。
「使い魔……ですか?」
 耳慣れない言葉に黒猫達にきょとんとした目を向け、それからエースに微笑みかける。
「何にしろ、エース様がお元気そうで安心しました」
「ところで……今日は何の用で来たんだ?」
「はい、緊急にエース様に決済いただきたい書類がありまして」
 しかし、これは超想定外の事態だった。エルンストを見た瞬間は、まさかこっちに来るなんて……とエースは内心焦った。今も、まだちょっと焦りが残っている。何せ、エルンストはエースの教育係であり、小さい時は兄弟のように育った、兄のような存在だ。
 でも、リリア・オーランソート(りりあ・おーらんそーと)メシエ・ヒューヴェリアル(めしえ・ひゅーう゛ぇりある)が外出中で助かったかもしれない。
 エルンストは書類を差し出してくる。それを受け取りながら、エースは聞く。
「そんな理由でわざわざ来たのか?」
「重要書類なので他の人に託す訳にはいきませんから。エース様の署名が必要なんです」
「うっ……、わかったよ」
 にこやかな顔で力説されて、エースは少し身を引いた。内容を見て手早くサインをして彼に返す。そのタイミングで、エオリアがハーブティーとお菓子を持ってきた。
「エルンストさんはゆっくりこっちで羽を伸ばしてくださいね。パラミタでのエースの身の回りの世話は僕の役目ですから」
「ありがとうございます。そうさせていただきますね」
 会話する2人の様子を見ながら、エースは釈然としない表情を浮かべていた。エルンストとエオリアは、以前に地球の実家で顔を合わせていてお互い既知の存在だ。そして、エルンストは予定の擦り合わせを絶対に欠かさない、律儀が服を着ているようなドイツ気質な性格をしている。
(さてはエオリアと謀ったな……。俺に直接言うと、アレコレ理由をつけて回避するとか思ったんだろ)
 エースの顔を見て、エルンストは内心で苦笑した。書類が方便であることを見抜かれてしまったらしい。緊急決済が必要なのも本当なのだが。
 パラミタでのエースの暮らしについてはエオリア他から色々と報告を受けているが、今年は彼の帰省がまだだったこともあって様子を見に来たという訳だ。
 エオリアは、お茶とお菓子を置いたら客間を出て行った。エルンストは色々と話したい事がありそうだったし、その邪魔をしないようにと思ったのだ。
「せっかく来たんだから、ゆっくりしていくと良いよ」
 彼が辞すると、エースは仕方ないな、と笑ってそう言った。
「エルンストは暫くここで休日気分を満喫して行くのも良いんじゃないかな。どうせ休暇が溜まってるんだろ」
「そうですね。あまり特別に休暇を取りたいと思わないので」
 まさにその通りだったので、エルンストは否定も出来ずに微笑んだ。
「最近、パラミタでの生活はどうですか?」
「そうだな……。ちゃんと勉学にも励んでいるよ。植物を育てるのは楽しいし、パラミタ固有種も色々と育ててる。そうだ、小さな植物園を敷地に作ってるんだ。エルンストも見てみないか?」
 この機会に家の中も案内しようかと思っていたエースの言葉に、エルンストは頷いた。
「ええ。是非見てみたいです」

「こちらが植物園です」
 エオリアに案内されて、エルンストはエースと一緒に植物園に入った。色とりどりの植物が、綺麗に花を咲かせている。
「地球の植物もたくさん育ててるけど、パラミタ固有の花もあるんだ。エルンストにも新鮮で、面白いんじゃないかな」
 生き生きとした笑顔で、エースは植物の様子を見ながら歩いている。パラミタでも植物を色々と育てているのが彼らしい。それが微笑ましく、瑞々しい花々の中でエルンストは自然と笑顔になった。
 園を一周し、エースは彼を振り返った。
「あとは、パラミタに来てから猫の保護を始めたんだ。猫部屋もあるんだよ」
「猫の保護……ですか」
 猫部屋には沢山のおもちゃやキャットタワー等が用意されていて、そして、猫達がわらわらと居た。子猫から成猫まで、種類も様々である。
「このにゃん達は、いずれ他の人に譲渡するつもりで一時的に保護してるんだ。譲渡会の開催や、ニルヴァーナの猫カフェでこの子達の譲渡先を探しているよ。この子達は故郷で暮らすのが一番良いからね」
「譲渡先を探すのはいい事ですね。全部を自分で抱え込む事は良い事ばかりではありませんから」
 エースが猫好きなのは知っていたが、思ったより猫の数が多い。それに多少驚きながらも、エルンストは言った。彼のその表情に、2人の様子を背後で見守っていたエオリアはちょっと良いなぁ、と羨ましい気持ちになった。“エースのこういう嗜好は良く判ってますよ”というような、包み込むような彼の温かさが。
(離れていても、エースの事を色々と解っているんですね……)
 きっと、早く地球に帰ってきてほしいと考えているのだろう。パラミタでの生活は、当主となるエースの社会勉強ということなのだから。