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 第6章 逃亡の理由

 ――まさか、電話が掛かってくるなんて思ってなかった。
 通話を終え、翠門 静玖(みかな・しずひさ)朱桜 雨泉(すおう・めい)の部屋に向かった。母親から連絡が来た事を知らせると、雨泉は表情を若干曇らせる。
「お兄様の処に、お母様からの電話が……」
「今まで掛かってきた事はなかったんだけどな」
 だから、もう話す事もないと思っていた。強化人間となりパラミタに移った時、もう隠れる必要はないからと一応、番号を教えた。だがそれから音沙汰も無く、電話を気にすることも無くなっていた。それが突然の、連絡である。
「俺は、オッサンには秘密で会ってこようと思う。メイにも会いたいらしいんだが……」
 僅かに俯き、雨泉は間もなく顔を上げる。
「……はい。私も一緒に行きます」

 数日後、静玖達の母――朱桜 あかねはパラミタの地――空京に足を着けていた。
「此処がパラミタなのね……」
 静玖と雨泉が『逃げた』場所……それを見ておきたかった。大丈夫だとは聞いているけれど、念の為、知り合いから小型結界装置を借りてきてもいる。待ち合わせ場所に行くと、果たしてそこには2人の姿が認められた。来ていない、と思っていたわけではないけれど。
「……久しぶり」
 最初に口火を切ったのは静玖だった。続けて、雨泉が挨拶する。
「お久しぶりです、お母様。お元気そうで何よりです」
 家族の再会としては少々距離のある位置で、3人は向き合った。自然とはいえない、ぎこちない空気が流れる中であかねは微笑む。
「2人とも誘いに乗ってくれて、有難う」

「パラミタは地球と違って、自由があるからな」
 すれ違う人々が、たまにあかねの方を振り返る。年齢よりも遥かに若く見える彼女は、静玖達と歩くと3人兄弟の1人にすら見える。息子も娘も母の血を濃く受けた容姿なだけに、それは一入だった。その中でも彼女は一際、人の目を惹きつけている。
 獣人や機晶姫、ドラゴニュートや羽が生えた者まで、様々な種族が行き交う雑踏の中、静玖は1人話し続ける。
「研究はまあ、思い通りにいかないけどな……。主にオッサンとかオッサンとかが腰痛やら何やらで動けなくなるからすぐ俺の処に回ってくるし、掃除しないとすぐラボが汚くなるからそれで時間が取られて……って、何言ってんだ、俺」
 彼が我に返り、話が途切れて沈黙が生まれる。街中の音で誰も気に留めないが、それは確かに沈黙だった。
「そう……、楽しくやってるのね……」
 少しだけ、あかねの顔に影が落ちる。無意識なのか意識的なのか分からないが、地球と違って自由があるという言葉は、彼女に対する揶揄にも思えた。薄々感じていた事ではあったが――
「……あなたたち2人に、聞きたかった事があるの」
「聞きたかった事、ですか?」
 それまで言葉少なだった雨泉が、そこであかねに目を向けた。前へ歩きながら、かつ静玖と雨泉を視界に捉え、母は言う。
「どうして強化人間手術なんて受けたのか……教えてくれないかしら」
「……、それは……」
「……あんたも分かってるだろ。俺たちは逃げたかったんだ」
 静玖から出たのは、淡々と、どこか冷たさを湛えた声だった。言い淀みかけていた雨泉が、後を継ぐように話し始める。
「あの頃の私たちは、お母様の『愛情』が怖くて仕方なかった。……大事に思われている筈なのに、お母様が私たちに抱いていた理想が歪みすぎていて、いつか殺されてしまうんではないかと不安に思っていました」
「地球で逃げても、あんたが邪魔して失敗した。あんたが来れないパラミタに逃げるしかないと思ったんだ。でも、俺たちは契約者にはなれなかった。だから強化人間手術を受けたんだよ。
 あと、パートナーロストで俺たちが死に至る可能性があると知れば、あんたも迂闊に契約者に手が出せなくなるからな。そういう事も考えてた」
 だが、あかねの元夫であり自分達の父であると契約したのは全くの偶然だった。打ち合わせも何もない。
「俺たちだって驚いた位なんだからな」
 そこまで言って、静玖は少しだけ口調を和らげた。話している内に3人は、小さな広場に着いて足を止めていた。パラミタに住まう人々を、街の風景を眺めながら、彼は続ける。
「……リスクは背負ったけど、俺たちは普通の生活が出来てる。あんたと距離を置いたから、こうやって会う事も話をする事も出来る。……今日は、そういう事が出来た日だよ」
 受け入れられる気がしていなかった。だがこうして会ってみると、意外と話も可能であったことを知った。そして気付いていた。自分達の間に流れる空気は、他人と話す時とは違う、確かに親子の間でしか感じられないものなのだと。
 彼の表情は変わらない。だが、纏う雰囲気が変わったのを感じたのか、あかねは微かに笑みを浮かべた。それはどこか寂しそうで、しかしどうしようもなく、暖かい。
「……そうだったの、私から距離を置きたかったのね……」
「お母様……」
 申し訳無さそうに雨泉は一歩近付いた。しばらくの時を別々に過ごし、あかねは随分落ち着いたように見えた。彼女から感じられるのは、父母が一緒にいた頃、家族4人が一つ屋根の下で暮らしていた頃の優しい雰囲気。
 まだ子供だったけれど、その頃の笑顔を雨泉はよく覚えていて。
「……良いのよ、気にしないで頂戴。私が厳し過ぎたのがいけなかったんだもの。こうして、あなたたちとまた話が出来て嬉しいわ……」
 本当に有難う、というあかねに、彼女も自然と笑うことが出来た。
「……私も、お話出来て良かったです」
 今日訪れた、微笑み合える時を噛み締めるように、雨泉は話す。
「職員以外立入禁止ですのでお父様のラボには案内出来ませんけど、折角ですから空京のご案内はさせて頂きますね」
 彼女達は一緒に歩き出す。少し遅れて、気が進まない態で静玖が続く。振り返ったあかねと目が合って、不承不承というように彼は言う。
「……案内するっていう雨泉に、ついていくだけだからな」