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リアクション
●スプラッシュヘブン物語(4)
高月 玄秀(たかつき・げんしゅう)にとっては、去年も一昨年も酷い夏休みだったと言わざるを得ない。
主に、精神的に!
だが今年は違うと、彼のパートナーティアン・メイ(てぃあん・めい)は言いたい。
力強く言う。
「楽しみたいの!」
はっきりとそう言いたい!
のだが……。
「ちょっと。付き合ってくれたのは嬉しいけれど、どうしてその格好なわけ?」
更衣室から出て早々、ティアンは不機嫌な顔になった。
玄秀が桃幻水を使って、女性に変身していたからだ。
玄秀らしさはいくらか残っているから見分けは付くが、これはもう、どこに出しても恥ずかしくない美少女そのものである。
よくもまあ、それで男子更衣室から出てこれたものだ。
「なぜと言われても……いつもの格好で出てきたらいらぬ混乱を招くじゃないか。ねえ?」
「いらぬ誤解……!」
ぴくっと、こめかみに青い筋が走ってしまうティアンである。
「私と一緒にいることが『いらぬ誤解』だというんなら帰るよ」
返答次第ではぶった斬る!、と言わんばかりの顔でティアンは玄秀をにらんだ。
「違う違う!」
命の危険を感じた玄秀、泡を食って両手を振り、
「素顔でバカンスは問題があるので! うん、それだけのことだ!」
嘘ではない。色々事情があるとはいえ、お尋ね者の玄秀である。無防備な状態をさらすことになるゆえ、変装したほうがいいのは事実だった。
「本当かしら……」
「まあ落ち着け。暑いからそうカッカするのだ。酸を抜いたアシッドミスト……つまりただのミストだな、を展開してやるから涼むといい」
「意味ないことしないでいいの。どうせプールに入るから涼しくなるでしょ!」
「あー、そうか、しかし、プールに来てなにを楽しめというのか」
「私と一緒にバカンスをすることを楽しみなさい!」
「うむ……ま、そういう楽しみかたもある、のか」
「そういうこと。行きましょ」
煮え切らない口調がつづく玄秀を拉致するように、ティアンはガッと彼の腕をつかんで歩き出した。
前回、スプラッシュヘブンに来たときのことを、正直遠野 歌菜(とおの・かな)はよく覚えていない。
いや、正確に言えば覚えているのだ。
ドキドキが止まらなくて大変だった。
一言で表現すればこうなる。これ以上もこれ以下でもない。
はっきり言ってプールがどうだったとかいう感想が思いつかない状態だった。今考えても、プールとかアトラクションのことを思い出すのは難しい。
――うーん。
腕組みしながら考えてしまう。
あの頃の歌菜は、月崎 羽純(つきざき・はすみ)のことを考えるだけで精一杯だった。
いや、今だって彼のことが最優先事項だ。羽純がいてこその自分であると思っている。
けれどけれど、いつでも新婚気分であるとはいえ、ようやく羽純との生活に慣れてきた今日この頃、周囲のことにももっと心を向ける余裕がでてきたと歌菜は思っている。
だから、
――こ、今回は、プールを楽しみますよッ。
そう決めているのである。心の拳を握って。
おっと、いつまでも更衣室で腕組みしているわけにはいかない。出撃、いや、合流の時間だ。
そうして更衣室を出て、歌菜が羽純にまず告げたのはこの一言だった。
「超巨大ウォータースライダー、滑ってみたいのです♪」
「なに?」
「超巨大ウォータースライダーですっ、緩急自在の世界最高速、時速102キロにも達するという話のあれですよ」
「え、あー……そう」
「さあ行きましょう! 行列はあそこです♪」
歌菜は彼の手を引いて、行列の最後尾に並んだ。
本日の羽純はサーフパンツの水着を着用、すらりとした体格と広い胸にはこうしたすっきりデザインが似合う。意外にたくましい上腕筋も映えたりして、我が夫ながら歌菜は、惚れ惚れとしてしまうのであった。
ところが羽純の表情のほうは、いけない。
せっかくの楽しいアトラクション参加というのに、浮かぬ顔をしている。ランチにカレーライスを食べて、夕食がカレーだったと知ったときのような。
それもそのはず羽純としては、スプラッシュヘブンと聞いて連想することは一つだけだったからだ。
――てっきりカップル用でのんびりするかと思いきや……。
どうやら今年は違うらしいと、いささかがっかりの彼なのだった。
ところが、歌菜が思ったのは別のことだった。
――羽純くん、何だか不満顔? ……こ、この新しい水着、好みじゃなかったのかな?
ちらっと我が身を再チェックしてみる。
ビタミンカラーのビキニだ。フリルをあちこちにあしらっている。かわいいと思っていたのだが。たしかに、人妻がチョイスするにはやや子どもっぽいかもしれない。
すると今度は心配になってきた。
ウォータースライダーに並ぶ列にも女子の姿は多い。
可愛い水着の女の子がたくさんいる。もっと、大人っぽい子も。
――その中で、私だけ水着似合ってなくて、場違いみたいな……そんな状態だったら、どうしよう!?
ううっと、涙ぐみそうになる歌菜だった。なぜって、夫の羽純は、妻の自分ですらクラクラするほどに素敵なのだ。それに不釣り合いな自分は、なんて罰当たりな配偶者なのだろう……。
歌菜の表情の変化に、羽純はすぐに気がついた。
まず、疑問。
そして不安。
やがて、悲観……。
――意地悪かもしれないが、百面相が楽しいので、少し黙っていよう。
やがて、そ知らぬ顔をして彼は言ったのである。
「そろそろだぞ、順番」
歌菜は勘違いしていたようだ。いわゆる、時速102キロになる爆速スライダーは個人用、二人がならんでいたのは、カップルボート用スライダーだった。といっても、これもスリル満点のシロモノであることは疑いようがないのだが。
疑心暗鬼まっさかりだった歌菜に、説明書きを読んでいる余裕はなかった。なので歌菜は、用意されたものを見て声を上げてしまった。
「ビニールボート……あれ? 二人乗りなんですかっ」
はいどうぞ、と係員が二人をボートに案内する。腰掛けてまたびっくりだ。
「ああ、これって羽純くんと密着状態じゃないですか!? 聞いてないですよ!」
羽純も全然、説明書きを読んでいなかったので、
「へぇ、これは面白い趣向だな」
なんて言って笑っていた。
ところが歌菜はもう、ウォータースライダーのスリルに対するドキドキが、羽純と密着することへのドキドキへと瞬間ですり替わっていた。顔をケトルのように熱くしながら、
「羽純くん……嫌じゃない?」
「嫌なわけ、ないだろう?」
むしろ願ったり叶ったりだ――という言葉を羽純が言うよりも早く、ボートが滑り出した。
滝のような水の流れへと、急降下する。
「よかった、羽純くん嫌じゃなかったんだ……って、こ、これ凄い速さ……」
以後の歌菜の言葉はすべて、悲鳴へと変わってしまった。羽純にしがみつく。
加速加速加速急カーブ! 加速加速回転! さらに加速そして怒濤のストレート! 最後に……翔ぶ!
ずばーん、という爆発的な音とともにボートは着水した。
歌菜は言葉が出ない。心臓が、二回くらい裏返った気がする。目が回る。
そうして彼女は、彼にしっかりと抱き寄せられていたことにここでようやく気がついたのだった。
「意外と、楽しかったな」
羽純は、白い歯を見せて笑っていた。
歌菜はまだ言葉が出てこない。
でも、ひたすらに感激して、ひたすらに彼を愛おしく思って、そしてボートが止まるまで、ずっと羽純に抱きついていた。
「さて、肝も冷やしたことだし、休憩するとするか」
今度は羽純が歌菜をリードする番だ。彼が妻を導いたのは……。
「こ、ここはカップル用プール!?」
とても小さくて、それなのにしっかり深くて、二人で浸かろうとするのであれば、密着するほかないあのプールだ。しかも椰子の木陰で外からの視界をシャットアウトできるようになっている。
「俺は歌菜と二人きりで過ごしたい。嫌か?」
ぱっと歌菜は羽純を見上げた。
「ここなら、誰にも邪魔されず、歌菜を独占できるだろ? それに、キスもできる」
漫画的表現に頼ると、このとき歌菜の目は彼を見上げたまま、ふたつのハートマークになっていた。
「嬉しくないわけはないのです……!」
このとき歌菜は、最初に羽純が不満そうだったわけも理解していた。
つまり水着が失敗だったというわけではないこと――良かった。
こうしてまた、水に入って甘いキスを彼と交わせること――これはもっと良かった。
海と柚の高円寺夫妻も、水飛沫の天国を楽しんでいる。
「流れるプールは、流れがゆっくりなので助かりました」
「波のプールに比べて、だろ?」
「そ、それは……はい」
彼らはついさっきまで流れるプールにいた。その直前までは、波のプールで揉まれていたのである。
「名物だけあってすごい波だったな。柚は流されそうになってしまって」
「その先は言わないでください……」
「オレにしがみついてくれて……」
「だから言わないでください、って。恥ずかしいです」
「ははは、でも嬉しかったよ」
――私も、と内心、柚は思うのである。
海の体を柚はいつも家で見ているのだが、やはり場所が変わるとまた新鮮な目で見ることができる。
海はバスケットボールの選手なので、バランスの取れた理想的な体つきをしていた。筋肉は付いているが固太りとは無縁で、しゅっと締まって美しい体型なのだ。細胞レベルで美しいように思う。肌もすべすべで、抱きついたとき、柚はドキドキしてしまった。
回想して気恥ずかしさに上気しつつ、ごまかすように柚は行く手を指した。
「あそこ、グラビアの撮影会をしていますね」
「そうだな」
なんとなく赴いて、ローラが撮影されているのを見学する。
「ふーん」
海はただなんとなく、という様子でこれを眺めていた。
でも柚は気が気でない。
――海くんもスタイルが良い方がいいのかな。
心配だ。なぜってモデルのローラは、豊かな上形の良いバストをしていたから。女の自分でも、ちょっと触らせてもらいたくなるほどに。
それに比べて柚はあくまで普通だ。困るほど不足はしていないが、誇れるほどセクシーな旨をしているわけでもないと柚自身は思っている。
――ワンピースの水着じゃなくてビキニにすれば良かったかな?
そんな柚の悩みを知ったのか、知らずか、
「じゃあ行こう。アイスでも食べようよ」
海は言って、柚の手を引きアイスクリームスタンドに向かったのである。
「いらっしゃいませ」
店員の女の子をどこかで見た気がする。
たしか、小山内南という子だったはずだ。
彼女も柚には見覚えがあったらしく、こちらを見てにこっと笑った。
「私はイチゴのアイスを、彼にはチョコを」
「チョコはダブルで頼むよ」
南からアイスを受け取って、水際のテーブルについた。
ダブルにしてカップに入れたアイスが気になるのか、しばらく海はじっとそれを見つめていた。
――あっ、胸の形……みたいな?
柚もはっとなる。そのとき海が言った。
「オレ、柚が好きだから。性格も、見た目も全部……」
やっぱり、海は柚の心に気がついていたのだ。
「だからその……そのままでいいんだ……お、おっぱ……胸は」
海は、こういう台詞はかなり不得手なのである。柚は知っている。だから彼が、耳まで真っ赤になって汗までかいているのもよくわかった。手まで震えている。
そんなに恥ずかしいのなら言わなければいいのかもしれない。
でも、柚はそう思わなかった
そこまで想われていることが嬉しかった。
「海くん、今日、家に帰ったら一緒にお風呂に入りましょうね」
「えっ! と、突然何を!」
夫婦であるからもちろん、そういう経験はあるが、あらかじめ計画してのものではない。つもなりゆきで……という感じだった。だから純情な海はそんな申し出をされて仰天しているようだ。
「あの……も、揉んでもらったら……おっきくなるとか…………聞いたことがあります」
大胆に切り出しておきながら柚も気恥ずかしくなり真っ赤になった。
二人とも、アイスが溶けてしまいそうなほどに体温が上がっていた。
こく、と海はうなずいた。
柚もうなずいた。
なんだか共犯関係を結んだ気分!
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