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リアクション
●長い、夜
空京ロイヤルホテルは、この都市でも一二を争う超高級ホテルだ。
各国の要人や映画スターなどが利用することで知られ、中でも、上層階のスイートルームは信じられないほどの宿泊料を取ることで知られている。
無論その料金に見合う、最高級のサービスが提供されることは言うまでもない。
そのロイヤルホテルの15階、夜景を楽しめるレストランに漆髪 月夜(うるしがみ・つくよ)が姿を見せた。
――緊張する。
月夜にとっては未体験の世界だ。エレベーターのドアが開いた瞬間からもう異世界のよう。どちらを見回してもスーツを着こなした紳士、ドレスをまとう淑女といった様相で、まるで自分が、孔雀の生息地に迷い込んだ鶏になったかのように感じてしまう。
――いや、大丈夫。
場所に呑まれてなんかない、そう自分に言い聞かせる。自分だって、大胆に着飾ってドレス姿で来たのだ。たしかに月夜はこの場所の平均年齢よりはずっと低いだろうけど、それでもうんと背伸びした服装で来た。引け目を感じる必要はない。
それに――月夜を待っている彼がいる。
ハイヒールの足取りに気をつけながら、案内されて月夜は個室に入った。
そこには、スーツ姿の樹月 刀真(きづき・とうま)がすでに着席していた。
「よく来てくれた」
刀真は立ち上がって月夜を迎えた。手袋をした彼女の手を取って微笑む。
「これが今の俺の精一杯だ、もっと良い雰囲気とかはこれから頑張る」
言いながら刀真は真っ赤なワインをグラスに注いだ。人払いはしている。ときおり料理が運ばれてくるとき以外は、完全なふたりきりだ。
「これ以上、良い雰囲気なんて思いつかないわ」
でもね、とワインで唇を湿らせて彼女は言った。
「なんだか少し、無理をしているみたい。気負いすぎているというか……ね」
「気負いか……そうだな」
ワインよりも赤い瞳で、刀真は月夜を見つめた。
「少し、気負わなければ言えるもんじゃない」
「なんて言うつもり?」
「……ただ一言。『今夜部屋を取ってある』、という一言を」
その意味がわからないほど、月夜は幼くはない。
「月夜、『帰る』と言えるタイミングは多分いまだけだ」
「そんなことは言わない。代わりに言いたいのは……」
月夜は首を振った。
「ただ一言。『いいわ』、という一言」
飲みつけないワインのせいだろうか、それとも、メインディッシュの仔牛料理のせいだろうか、月夜の肌は内側から、突き上げるような熱を帯びていた。
部屋はスイートルームだった。
ネクタイを解き、上着をクロークにかけて刀真はベッドに腰を下ろした。
「えっと……」
彼に続いて部屋に入り、月夜は言葉を探した。
ちょっと、気の効いた言い回しが出てこない。
刀真は本気だ。
最高級のディナー、最高級のスイートルーム、美しい夜景が一望できる絶好のロケーション、絶好のタイミング。
お膳立てが完璧すぎて、そこに彼の緊張が見え隠れしている。
もちろん、張りつめているのは月夜も同じだ。
――今日、私たちは一線を越える……。
それを思うと胸の鼓動は早鐘のようになり、他のことを考えられなくなる。
素晴らしいディナーだったにもかかわらず、ほとんど味を覚えていないのもその証拠だろう。テーブルで交わした会話にしたって同じだ。まるっきり空虚な言葉を交換したにすぎない。
月夜に男性経験はない。おそらくは、刀真も同じように清い身だと思う。
初めて同士、それはえてして上手くいかないという。失敗することそのことはともかくとして、刀真に恥をかかせることにならないか、それだけが月夜には心配だった。
――だったらせめて、雰囲気作りだけでもしなくちゃね。
そう心に決めて、月夜はどこか、映画かドラマで見たような台詞を口にしていた。
「それで、私が先にシャワーを浴びてこようか? それとも刀真、先に入りたい?」
とりあえずこういうことは、シャワーを浴びて互いにバスローブ姿になったところから始まる……そういうイメージが月夜にはあった。真実はまったくわからないが。
ところがそうはいかなかった。
「シャワーは要らない」
という言葉をつぶやくと、刀真が彼女を背中から抱きすくめ、振り向かせて多少、強引な形でキスしてきたからだ。
「ん……」
月夜は拒まない。それどころか、舌を使ってそれに応じる。
――女は魔物よ。わかった? 刀真?
その言葉は、月夜がかつて彼に言ったものだった。
なら男は――刀真は思う。
男は……ケダモノでいいか。
もはや彼にためらいはない。
刀真にとって月夜は、パラミタに来る前から一緒にいる剣であり、パートナーだ。ただそれだけ……それだけだと思いこもうとしていた。
しかし月光の下、封印が解け一糸纏わぬ月夜の姿を見て、刀真は間違いなく魅せられた。
それから一緒に過ごす日々で、お互いの気持ちもはぐくんできた、と思う。
――始めはなにも知らない無垢な女の子だった、今の印象は……清らかで艶やかな華。
何度もキスを繰り返しながら、刀真は獣性を解き放っていく。
やや強引なまでに月夜の衣服を剥ぎ取り、自分も邪魔なものを脱ぎ捨てていった。
――それに気づいた時、踏み込めば溺れて抜け出せないと無意識に分かっていたんだろう、だから気づかないふりをした。
だけど、
だけどもう、無理だ。
ならば溺れればいい。月夜を愛し、溺れよう。彼女に。
月夜に印をつけるように、彼女の躰のいたるところに触れる。手で、唇で、舌で。
月夜の匂いを胸に吸い込む。
月夜はまるで罠にかかったウサギだ。もがくほどに深く、刀真に喰らわれる。
しかしウサギは罠から逃れようとするものだ。月夜はむしろ、その罠にさらに深く食い込もうとした。彼女なりの本能で。
両者は昂ぶっていく。ひたすらに、
月夜が発する喘ぎ声、
あるいは刀真を呼ぶ声、
吐息すらも、
すべて食い尽くすように、刀真は何度も月夜と唇を合わせた。
「……来て」
月夜はそれだけ告げて、ついに刀真を許した。
長い、夜になった。
どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。
ただはっきりしているのは、今が朝だということ。
月夜は身を起こし、広い部屋に差し込んでくる朝日の眩しさに目を細めていた。
はっとなって刀真の姿を探す。いなくなっているような気がしたからだ。
しかし杞憂だった。彼は、彼女のすぐ隣で片肘をついて彼女を見上げていた。
「きゃっ」
昨夜あれだけ愛し合ったというのに、恥ずかしい気持ちになって月夜はシーツに頭から潜り込んでいた。
「月夜、どうした?」
理由はわかっているだろうに、刀真は苦笑するようにして彼女を呼ぶ。その優しい声がまた、昨夜のことを思い出させたのか、月夜はシーツの端から顔を覗かせて抗議の弁を述べたのである。
「ケダモノ!」
と言っておいて、二秒ほどあけて、付け加えた。
「……でも大好き」
――やはり溺れたな、俺は。
刀真は諦念と決意と幸福をいちどきに感じながら、彼女をシーツごと抱きすくめるのである。
一生離さない、そう思いながら、彼は彼女に目覚めのキスをした。
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