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【蒼空に架ける橋】後日譚 明日へとつながる希望

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【蒼空に架ける橋】後日譚 明日へとつながる希望
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「え? 仕事ですか?」
 伍ノ島へ着いて早々ナ・ムチ(な・むち)の屋敷へ向かった千返 かつみ(ちがえ・かつみ)は、応対した執事からナ・ムチがそこにいないこと、仕事場である庁舎へ行っていることを聞いて、驚きのあまり思わず訊き返していた。
「そうですか……。あ、じゃあ向こうへ行ってみます。ありがとうございます」
 頭を下げて礼を言うと、離れて待つエドゥアルト・ヒルデブラント(えどぅあると・ひるでぶらんと)千返 ナオ(ちがえ・なお)、そしてナオのフードのなかにいるノーン・ノート(のーん・のーと)の元へと戻る。
「ナ・ムチはいないって」
「うん、聞こえていたよ。まさか祝日にまで仕事とはね。彼らしいというか……ほら、前に弐ノ島での天燈祭りのときも自室にこもろうとしたし。仕事熱心なのは悪いことじゃないけど、本当にそれだけかな」
「あいつは、融通が利かない、頭にばかがつくくらい真面目なんだ」
 かつみは少し憤慨しつつ、エドゥアルトに答える。
「どうせ、ツク・ヨ・ミのことを忘れるには忙しくしていた方がいいとか考えてるんだろ。それしか思いつかないんだよ」
「なるほど。
 で、次はどうする?」
 問いながらも、エドゥアルトはすでに答えを持っていた。
「もちろん、仕事机からあいつを引っ剥がす」
 そんなことをしたって無駄なんだと、教えてやらなくては。
 たしかにそれで忘れられるものもあるだろう。だけどあれは、ああいう想いは、まったく違う。別のものだ。肉体や頭をいくら酷使したところで、心は1ミリも動かない。
「行くぞ」
 かつみは3人を連れて、ナ・ムチがいるという庁舎へ向かった。


「……ちょっとちょっと。なに? ツク・ヨ・ミを忘れるために、とか。そんなロマンティックでオイシイ展開があったの?」
 高柳 陣(たかやなぎ・じん)にくっついて、やはりナ・ムチを訪ねてきていたユピリア・クォーレ(ゆぴりあ・くぉーれ)が、かつみとエドゥアルトの会話を聞くでもなしに耳にして、とたん色めきたった。
「えーと……。そうみたい」
 ティエン・シア(てぃえん・しあ)の肯定に、ユピリアは前のめりに陣へ詰め寄る。
「もう! どうして私も連れて行ってくれなかったのよ、陣! そうしたら私があの手この手でその2人のために全力を尽くしたのに!」
「おまえ、あのとき自分が何したのか、もう忘れたってーのか」
「ちょっと旅費をお洋服代につぎ込んじゃったくらいが何よ!」
「……ちょっと?」
 陣の声が2段階ほど低くなり、不穏な気配をはらんだのだが、ユピリアは早くも空想――妄想ともいう――の羽を全開し、そのナ・ムチとツク・ヨ・ミとかいう2人が、互いに好き合いながら別れなくてはならなかったというロミジュリ的悲劇なシチュエーションを思い描いてすっかり自分の世界に入ってしまっていて、陣の変化にはこれっぽっちも気づいていなかった。
「愛し合う2人がシャンバラと浮遊島群で離れ離れになってるなんて、こんな不幸なことってないわ! ぜひとも2人を一緒にしてあげなくちゃ!
 あ、でもその前に、私たちの用事をすませとかなくちゃ。こちらのすてきな服を買い込みましょ。ティエンと私、仮装用の衣装でしょ、それから普段着と、ドレスと、それぞれに合うパンプスと、バッグとぉー」
 指折り数え始めたユピリアの姿に、陣は「こいつ、ちっとも反省してねぇな」と言わんばかりのため息をついた。そしてティエンと木曽 義仲(きそ・よしなか)に、指をくいっと曲げてついて来いと合図を送って歩き出す。
「――あら?」
 ユピリアが気づいたとき、そこにいたのは自分だけだった。
「って、みんないないんですけどー!」




 伍ノ島庁舎の太守の部屋の隣に設けられている第一秘書室。そこは4人いる太守の秘書官が共同で使っている。4人の秘書官にさらにそれぞれ2名の秘書がついており、彼らの仕事場とはパーティションで区切られているだけである。
 総勢12名がそれぞれ執務用の長机を持ち、資料用の棚を構えているため、結構な広さの大部屋なわけだが、今、そこはがらんとした静寂に包まれていた。
 いるのはナ・ムチ1人だけだ。
 未決裁の箱に入っている書類を取り出し、目を通して、サインを入れて決裁済箱に入れるか、ほかの秘書官の意見も要すると、未決裁箱へ入れる。確認や書類作成が必要であれば秘書用の箱へ入れる。そういったことを淡々とこなしていた手をふと止めて、ドア上に設置された壁時計へと目をやった。11時半。昼まであと少しだ。
『じゃあお昼になったら迎えに行くから。一緒に外へ食べに行きましょ』
 昨日、帰宅中の馬車のなかで、彼の明日――つまり今日だが――の予定を聞いたキ・サカが、別れ際にそう言ったのを思い出した。彼の返答も聞かず「いいわね?」と言って、ナ・ムチに断る隙も与えずさっさと館へ入ってしまったのだ。
 はっきり言って、食事に外へ出ることさえ気乗りがしない。庁舎の食堂ですませたかったが、キ・サカはああいった、大衆的な場所を嫌う。提案したところで、絶対に「うん」とは言わないのは目に見えていた。
 本当はキ・サカは、一緒に祭りを回りたいと思っていたのだろう。それを我慢して妥協したのなら、自分も妥協するべきなのかもしれない。……食事に出てそのまま強引に引っ張りまわす計画をたてている可能性もあるが。
 目の奥が痛み始めて、閉じたまぶたに指を押しあてる。大きくため息をついたとき、ドアをノックする音がして、そちらを向いた。
「よぉ、ナ・ムチ。元気か?」
 開いたドアを背にかつみがいた。手はまだノブを掴んだままだ。
「……どうして」
 無表情の下でナ・ムチが自分の登場に十分驚いているのを掴んで、かつみはにんまりと笑顔になる。
「おまえんとこの執事に聞いたんだ、ここにいるって」
「ああ」
 かつみは室内へ入ると、机の間をすり抜けてナ・ムチの執務机の前まで進む。後ろに続いてエドゥアルトナオも入ってきたが、エドゥアルトは2人に遠慮して距離をとり、ナオは早くも壁面を埋める本棚に目を奪われたノーンの指示を受け、くるりと方向転換してそちらへ向かった。
「にしても、太守の秘書官だって? すごいな。あのあとだ、いろいろ大変なんだろ」
「キ・サカのお守役ですよ。すぐ癇癪を起こす彼女のなだめ役です」
 飛び級したとはいえ、まだ17の自分が三等秘書官に抜擢されたのは、キ・サカがそばに置くことを強く望んだこともあるが、一番はそれを期待されてのことだと見当はついていた。ようは彼女にスムーズに仕事をさせるための、棒の先にくくりつけられたニンジンというわけだ。
 そうと分かっていても受けたのは、ナ・ムチもしたいことがあったからだ。
「したいこと?」
「天津罪刑の法を改正します。今すぐには無理ですが……少なくとも親族まで及ぶことはやめさせたいと思っています。おれの生きているうちに」
 数千年続いた体制を変えるには、数十年単位の年月と途方もない労力が必要になるだろう。だけど、必ずやり遂げてみせるとナ・ムチは誓っていた。そのために、伍ノ島太守の秘書官という肩書きは役に立つ。
 淡々と語る彼の表情、その青い瞳から、彼の決意が本物であることは十分伝わってきて、かつみはうれしくなった。
 ナ・ムチがどうしてそう考えたのか、分かったからだ。
「そうか、がんばれよ。俺も応援する。もし何かできることがあったら遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます。
 ところで、おれに何の用ですか?」
「そりゃ決まってる、祭りに誘いに来たんだ。――まあ待て」
 せっかくですが、と言いかけた切先を制してかつみは続ける。
「おまえがほんとに仕事中ならおれだってそんなことは言わない。けど、ここにいるのはおまえだけ。どう見ても時間外だろ? さっきおまえが言ったとおり、法改正だって今日明日って話じゃない。
 目標を定めるのはいいことだが、力抜けよ。緩急つけないと、長続きしないぞ。言ったろ? それはそれ、これはこれ、って」
 ぱん、と胸をはたくかつみに、ナ・ムチはかなわないというように小さく苦笑し、おもむろに机上の通信機に手を伸ばした。キ・サカを呼び出し、食事のキャンセルを伝える。キ・サカは驚き、思ったとおり拗ねてごねてきた。しかし、2カ月ぶりに会った地上の友人たちが訪ねてきてくれたのだと言うと、しぶしぶ応じてくれた。
 その会話でかつみはナ・ムチにランチデートの予定があったことを初めて知ったわけだが、通信機から聞こえてくるナ・ムチへの返答がやけに媚ていたりナ・ムチに罪悪感を持たせようとしたものであることにあまりいい印象を持てず、「先約があるならそっちを優先しろよ。こっちはそのあとでもいいし」という言葉は口内に留めて、そこから先には出さなかった。
「さあ行きましょうか」
「ナオ、行くぞ」
 エドゥアルトと3人でドアへ向かい、戸口から本棚の前のナオを呼ぶ。
「はい。
 もういいでしょ? 先生。行きますよ」
「え?」
 床に座り込み、熱心に読んでいた本のページから、ノーンがきょとんと顔を上げた。
「え? って……。話しましたよね? これから僕たち、お祭りに行くんです」
「お祭り……?
 いや私はそういうのには興味ないから、ここでおまえたちが戻るのを待っているよ」
 再び本に目を落とすノーンの上に、人型の影がかぶさった。
「そうはいかないぞ」
 いつの間にかやってきていたかつみが、ひょいとノーンの読んでいた本をつまみ上げた。そして本棚へと戻し、ノーンはナオの手のなかにぽとんと落とす。
「こら放せー、本読ませてー!」
「往生際が悪いぞ、ノーン。
 ナオ、しっかり放さないように」
「はい」
 ぎゅっと両手でノーンを握る。
 ノーンはそれからもしばらくじたばたしていたが、庁舎から出るころにはあきらめもついたのか、初対面のナ・ムチにあいさつをする際にあらためてあの本を読ませてほしいとお願いをしてひとまずは満足すると、移動の際の定位置、ナオのフードのなかへもぐり込んだ。


 ナ・ムチの案内で、さまざまな屋台が軒を連ねているという公園広場へ向かった4人は、そこでスク・ナとばったり出会った。
「スク・ナさん!」
「ナオ! おまえも来てたのか!」
 かじっていたジャムのパイ――クロスタータの屑で汚れた口元で、にっぱり笑う。
「おまえも、って。だれかに会ったんです?」
「うんっ。ハデスおにーちゃんとデメテールおねーちゃん……あ、そーだ。オレ、仕事につくことになったんだ! ハデスおにーちゃんが雇ってくれるって。なんか、戦闘員? ってやつ。えーと、オリュンポス浮遊島群支部所属だって!」
「……えっ?」
 目を丸くするナオの前、スク・ナは仕事先ができたのがよほどうれしかったのか、えっへんと胸を張る。
「スク・ナさん! それは……あの……」
「あ、そーだ。おまえ、何か食ったか?」
「いえ、まだ……」
「そっか。
 ほら、これやる。おまえも食えよ。おいしーぞっ」
 あきらかにオリュンポスの戦闘員が何か分かってないスク・ナを見て、どう説明すればいいのか……仕事ができたとこんなに喜んでいるのに、ととまどうナオに、スク・ナは握りしめていた紙袋に手を突っ込んで、無邪気にチョコレートのカステラ生地でドライフルーツの入ったチーズクリームを筒状に巻いたケーキ、カンノーロを差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
 複雑な表情でそれを受け取っているナオを、これまた複雑な表情で見守るかつみたち。
「おい。あれ、いいのか?」
 つんつん肘でつっつく。
 言われるまでもなく、ナ・ムチは気に入らないというように表情を硬くしている。
「雲海が消えたことで職を失った漁師は数多くいます。漁をするためには遠海――つまり、シャンバラやカナンの海域まで降下しなくてはいけません」
 これもオオワタツミが退治されたことで生まれた弊害の1つだった。数千年、オオワタツミが生み出した環境下に島民は順応して生きてきた。それが突然失われたことで、さまざまな問題があちこちで起きている。各島の太守たち、そしてその下で働くナ・ムチのような者たちは、彼らから届く陳情書や要望書の山とその調整に多忙な日々を送っていた。
「この件についても現在委員会がシャンバラやカナンと調整中ですが、先の見通しはまだついていません。スク・ナの家族が陸で仕事を探しているのは知っていました。それで、スク・ナも自分もと思ったのでしょう。
 どういうつもりか、あとでおれの方からハデスさんに話をつけておきます」
 そう口にしつつも、ハデスがスク・ナのことをかわいがっているのはナ・ムチも知っていた。あんなになついているスク・ナを、よもや危険なめにあわせたりはしないだろう。
「そっか。
 じゃあとりあえず、どこか席について食べよう」
「あそこがいいんじゃないかな」
 エドゥアルトが見つくろったテーブル席に5人で腰かけ、屋台で買ってきた料理を広げて食事にする。話題は主に、この2カ月どうしていたかというものだった。
「ナ・ムチ、ヒノ・コは元気だったぞ」
 シャンバラから南カナンへ向かう途中、立ち寄ってきたイルギス村での出来事を語る。
「消耗していたが、元気で満足そうだった」
「そうですか」
「おまえんとこのおばあさんは?」
「祖母ですか? 外出時には車イスが必要ですが、リハビリのおかげで館のなかでは杖で歩けるまで回復しました」
「そうか。よかったな。
 もし何か伝言があったら、帰りに持って行ってやるけど」
「いいえ」
 ナ・ムチは首を振る。
 ヒノ・コが余命半年もないことを知って、彼が地上へ降りる手続きをしているとき、ナ・ムチは彼と一緒に地上へ行ってはどうかと祖母に提案した。しかし祖母は笑って首を振った。
『この年で、この体でしょう? 見知らぬ土地で暮らす気にはなれないわ。それに、年をとったせいかしら。愛する人よりも、愛してくれる人のそばにいたいの。それはあの人もそうでしょう。
 彼を愛する家族に囲まれて、彼はきっと幸せだわ。そこに、わたしの居場所はないのよ』
 そして後遺症の残る手で、弱々しいながらもナ・ムチの手を握り返してきた。自分の居場所はここだと。
 不安を見抜かれていたのだと思う。その上で、祖母はナ・ムチを選んでくれたのだ。彼女を愛し、必要としているのはヒノ・コでなく、ナ・ムチだ。
「おれも、祖母も、ありません」
 きっぱりと言い切るナ・ムチの姿には、かつて彼を蝕んでいたヒノ・コへの憎しみは見当たらなかった。
(許したわけではないんだろうな)
 その横顔に、エドゥアルトは見当をつける。
(ヒノ・コが彼にしたことは到底許せることじゃない。だけど折り合いがついて、整理できている様子だ)
 今の彼になら言えるかもしれない。
「ナ・ムチ。たしかにヒノ・コは大罪人かもしれないけど、同時にこの浮遊島群を守るために生涯の大半をかけて橋を架けた人でもある。
 恩赦とか、出せないものかな?」
 エドゥアルトの問いかけに、ナ・ムチは少し考え込んで、首を振った。
「分かりません。それを決めるのはおれではありませんから。
 ただ、島民の意識を変えるのは難しいことです。もちろんあなたの言うように、橋が架かったのは彼のおかげと思っている人もいます。あの橋は、島をつなぐだけでなく、島民を1つにつないでもいます。新しい浮遊島群の象徴になろうとしています。でも、そういう人ばかりじゃない。いまだに彼の所業に腹を立て、彼が功績を立てたことに憤慨し、自由にしていることを不愉快に思っている人も少なくないんです。
 時間がかかるでしょう」
 浮遊島群からの永久追放というかたちでヒノ・コを地上へ降ろしたのは、そういった人々から彼を守るためでもある。
 何事も一朝一夕にはいかない。1年か2年、あるいはもう少しかかるかもしれない。ただ、それまでヒノ・コの命がもたないことも、残念ながら現実なのだった。
「そう」
 嘆息を漏らし、エドゥアルトは「じゃあせめて、ツク・ヨ・ミやその両親だけでも可能性はあるかな?」と訊く。
「彼らは自由ですよ。その意味もあって、彼らは監視なしで地上で暮らしているんです」
「なら、地上との交流が深まれば、自由に行き来できるようになる?」
「彼らがそれを望めば。ですが、可能性は低いかと。他人の罪で4000年近く軟禁されていましたから。島に良い思い出はないかもしれません」
 そのとき、ふいに後ろの方から聞き覚えのある曲が流れてきて、ナ・ムチは食べようとしていた手を止めてそちらを向いた。