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第8章 心の尽きる病

 ライナスの研究所の一室で、隆が薄く目を開けた。
「ここは……」
「目が覚めたか? ああ、そのままでいい」
 クレア・シュミット(くれあ・しゅみっと)が、ベッドから起き上がろうとする隆を止めた。クレアは、メイベル・ポーターたちと協力しながら、主に隆の看病をしていた。
 隆の顔色は良くないものの、意識ははっきりしているようだ。
 そんな隆に、パティ・パナシェ(ぱてぃ・ぱなしぇ)がコップを差し出す。
「どうぞ、お水ですぅ」
「あ、ありがとうございます……僕は、どうしてここに? あなたたちは一体……?」
 隆の言葉に、クレアが眉をひそめる。
「覚えていないのか?」
「ええと、なにをでしょう?」
 険しい表情をしするクレアの視線を、隆が追いかけた。
 隆の隣のベッドには、意識を失ったソフィアが横たわっている。
 じっとふたりを見つめているクレアとパティ。
 しばらくソフィアの顔を眺めていた隆だったが、やがて困ったように口を開いた。
「ええと、彼女は誰でしょうか……?」

 
「彼は、ほぼ全ての記憶を失ってしまったようだね。ここに来た目的はおろか、ソフィア君のことさえも」
 クレアから話を聞いたライナスが、深いため息をついた。
「そんな、せっかくここまで来たのに……」
 ロザリンド・セリナ(ろざりんど・せりな)が、顔を曇らせる。
「ライナスさん、医療用パーツが来るまでの間、他になにか出来ることはないんですか?」
 諦めきれず、朝野 未沙(あさの・みさ)がライナスに訊いた。
 彼女のパートナーの朝野 未羅(あさの・みら)朝野 未那(あさの・みな)も、なにかできることはないかと必死に考えている。
 同席していたクレアも、自身の意見を述べた。
「隆とソフィアの精神的な同調により、症状が互いに影響するとするならば、一方だけでも症状を改善できればそれもまた他方に影響するのでは?」
「でしたら、使われてない機晶姫の記憶ユニットのようなものを使って、影響を抑えるというのはどうでしょう? 具体的には――」
 ロザリンドも提案してみるが、ライナスは首を振る。
「気持ちはありがたいが、今の私の技術や知識ではそこまでの治療は不可能だ。なんにせよ、医療用パーツが届かないことには、ふたりを助けることはできない」
 どうすることもできない現状に、一番悔しい思いをしているのは、専門家であるライナスなのかもしれなかった。
 その後も彼らは、いくつか治療の方策を立ててみるが、芳しい結果は得られない。
 やがて意見も尽き、自然、誰もが口を閉ざすようになる。
 重い沈黙の中、ライナスがそれまで言わずにいた意見を述べる。
「……ソフィア君から隆君の記憶を消せば、彼女だけは助けることができるが」
「それは絶対にダメです!」
 未沙が叫ぶ。
 クレアとロザリンドも力強く同意した。
「わかっている。ソフィア君自身もそれを望んでいないし、僕だって隆君を見捨たくはないさ」
「では……」
 ライナスに視線が集中する。
「ぎりぎりまで待とう。パーツが届き、彼らが助かると信じて」
 その言葉に、その場にいた全員が頷くのだった。


 ベッドの上で、隆がひとり頭を抱えている。
(僕は……誰だ? どうしてここにいるんだ?)
 自分が記憶を失っているのだということは、お見舞いに訪れた学生たちによって説明してもらっていた。
 それでも、記憶を無くしたという実感すら、隆は感じることができなかった。基準となる記憶がないのだから当然だ。
(まあ……どうでもいいか……)
 『心の尽きる病』の影響なのか、隆はあっさりと思考を放棄する。
 そうして横になろうとした隆は、ふと隣に眠っている少女を見た。
(彼女、僕のパートナーだってさっき誰かが……パートナー……?)
 途端、それまで平静だった隆の心が、焦燥とざわめきに支配される。
 なにかをしなければ、とは思うが、なにをすればいいのか、隆にはわからない。
(彼女は……彼女の名前は……たしか……うう)
 なにもかもが手のひらからすり抜けていく感覚。
 得体の知れない不安に押し潰されそうになり、隆は膝を抱えた。
 そんな時だ。
(……歌?)
 隆の耳に、歌声が届いた。
 声も曲も知らないのに、なぜか心地いいメロディ。
(どこから聞こえてるんだろう)
 不思議と安心して目を閉じた隆は、そのまま穏やかな眠りに落ちていった。

 
 研究所の外の広場で、星野 翔(ほしの・かける)が歌っている。
 ギターのイリス・アルバート(いりす・あるばーと)とベースの星野 巡(ほしの・めぐる)が、それぞれ翔のバックで演奏していた。
「いい音楽は人の心を満たすという。なら、俺たちの音楽で人を救ってみせるさ」
 翔のその思いの元、彼らは隆たちに歌を聞かせるためにここに来た。
 わざわざ外で歌っているのは、眠っているソフィアを慮ってのことだろう。
 それでも、歌声が隆たちまで届くと、翔たちは確信していた。
「ふむ……歌による治療か……これもまた興味深い」
「歌で全てを解決、とはいかないけどね。ま、否定はしないよ」
 翔たちの歌を聴きながら会話をしているのは黒崎 天音(くろさき・あまね)ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)だ。
 後学のために、隆とソフィアの治療に参加した彼らだったが、パーツが届かないと治療が進まないので、暇を潰していた。
 もちろん、やれることは全てやった上で、だが。
 広場では、他にも何人かの学生が彼らの歌を聴いていた。
 雰囲気を壊さないよう歌の合間を縫って、ブルーズは小声で隣の天音に話しかける。
「……しかし、歌にせよなんにせよ、彼等を助ける事ができると良いのだが」
「僕としては、今回の症例とライナスの治療に興味があるだけなんだけどね」
 軽く聞こえる天音の言葉だが、それが本心なのかどうかは、彼自身にしか知る術はない。
「それ以前に、きちんと医療用パーツが届くかどうか。回収に行った人達からの朗報を待つしかないね」
「ふむ……待つだけというのは、どうにも心許ないな」
 そこで、天音がなにかに気付いたように立ち上がる。
「ま、もうすぐそれも終わりそうだけどね」
「なに?」
 天音が荒野の見つめる荒野の果て。遠く、小型飛空艇と箒にまたがった人影が見えた。
「あれは……パーツを取りに行った者たちか!」
「みたいだね。あの急ぎ方からして、上手いこと手に入れたんじゃないかな」
 弾んだ声でそう言い、天音はライナスに医療用パーツの到着を知らせに行く。
 治療技術を学び来た彼らにとっては、これからが本番だった。