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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

リアクション

 鈴木 周(すずき・しゅう)は途方にくれていた。
 置き去りにされた人形のように、一点を見つめて動かない少女を、何とかして笑わせようとしていた。
 電脳空間の館の中は空気が張り詰め、外もなんだか薄暗いし、気が滅入りそうになる。
 大笑いじゃなくていい、ただ肩の力を抜いて、今抱えているその物騒な考えを、ほんのちょっと脇にどけて欲しい、考え直してくれればもっといい。
 応答はしてくれるし、そのときは表情も動く、何かしているときはそれなりに振舞えるくせに、やりとりの隙間にこんな、生気をなくしたようなというべきだろうか、途轍もない断絶が落ちてくる。
 彼女は今自分だけでなく、他何人もとの会話や電脳空間の処理を同時にこなしているというからかと思ったが、以前同じような処理と並行して、豊かな表情をも創り上げていたものだ。
 つくりものとは思えないような、眩しい微笑みであったこと、今それが出来ないのは、ひとえにその状況と心理にあること…。
 とうとう、彼は腫れ物に触る扱いを諦めた。
「いいか、ヒパティア。女の子は笑ってるのが一番可愛いんだぞ?」
「はい、お気遣いありがとうございます」
 にこりとしてみせるが、作った笑顔に周は騙されない。本来の微笑みも、将来的なそれも(何年か後を想像するのは、さらにムフフだ)、先行投資しておいて損はないものと、とっくにお見通しだからだ。女の子がこんな怖い顔してはいけない。
「そういう訳でだ! この周おにーさんが肩車してやるぜ! おらよっと!」
 ヒパティアをひょいと肩に担ぎ上げ、その場で思い切り回転する。彼は女好きだが、子供だって大好きだ。
「あ、あの?」
「笑えよー、どーかにこにこ笑ってくれよー?」
 焦るヒパティアと、満面の笑みで回る周、ぶんぶん振り回し、ひととおり満足してくるりと降ろす。
「こらーっ! 女の子に、な・に・し・て・る・の…!?」
「…って、レミ痛ぇ痛ぇ! わ、わかったから離せ! アイアンクローに気合入りすぎだ!」
 レミ・フラットパイン(れみ・ふらっとぱいん)が半眼でオーラを漂わせながら、猛然とお仕置きを開始する。
「もー、女好きのクセに子供相手だとこれだから…。女の子を振り回すとかしちゃダメでしょ!?」
「俺はただ、彼女の緊張をほぐしつつ、大人になった頃のフラグを…た、タンマ!」
 ゆっくりと拳を下ろしながらレミは、その時突如館の奥から飛び出して行った生き物に目を見張った。
「…え、猫?」
 次の瞬間、彼らの周りの景色が変わった。

「そろそろ、俺達は戻らなきゃならない時間だな」
 斎藤邦彦がもう既に何度目かわからなくなるほどの時計を見やった。うっかり気づいてしまったのが悪い。そうでもしないと、体内時計とものすごい誤差が生じ、感覚が狂うのだ。
「そうですか、これ以上の無理は後に響くかもしれませんね」
 何度も時計を確認するおかげで、彼らにはあまり記憶障害などの弊害が現れていない、そうやって無意識のうちに自分自身を確認し続けているからだ。
 その時、彼らの足元に、するりとキジトラの猫がまとわりついた。
「え、こんな所に猫が…? どこから来た?」
 どう見ても猫だ、毛づくろいをし、懐いたようにごりごりと頭をすりつけ、ニャアと鳴くその生き物はまさしく猫だ。
 ただしここは電脳空間のはずである。
 猫は彼らに「ついてこい」と言うように一声鳴いて、やがて一つのドアにたどり着き、開けろと言うのかかりかりと爪を立てはじめた。
「ここってサーバーじゃないか…?」
 空京大学に籍を置く邦彦のおぼろげな記憶によれば、ここは確かサーバールームのひとつがあったはずだ。
 意を決して彼らはそこに飛び込んだ、ドアを開け放ち、武器を構えてなだれ込む。
「うわあ…」
 思わず呆然と声を洩らした。無理もない。まさか部屋の中が、超巨大な温室になっているとは予想だにしない。彼らは知らないが、このサーバーは普段植物学系統の学科に主に割り当てされているのだった。
 侵入者に気づいて、蟻どもの中から兵隊蟻の群れが一斉に襲いかかってきた。
 巨大な葉陰や、山のようにそびえる鉢の向こうから現れる敵に、皆それぞれ武器を向けた。
 働き蟻は我関せずであるのが助かる、ただでさえ兵隊蟻の相手だけでも数で劣るのだから。
 その足元をすりぬけて、猫が蟻達に向かって駆け出した。
「ね、猫が…」
「待てよ、もしかして罠ってことは…」
 そうこう言ううちに、猫は蟻の傍をすり抜けて鉢の陰へ飛び込んだ。
「あれ、もしかして!?」
 小さな人影がそこから飛び出して来た、猫はその肩に乗って、こちらをチラリと振り向いた。
 辺りを見回しても、他の契約者達が居た気配はない、鉢や株の間を抜け、出口に向かうあのあの少年は…
「兄さま!!」
 彼らをサポートしていたはずのヒパティアが突如降りて来た。
「どわー!」
「な、なに!?」
 ちょうどヒパティアと話をしていた周とレミも巻き込まれ、同じところに落ちてきた。
 走り去る子供の影を知覚領域にようやく捕らえ、今まで話に聞くばかりの存在を確信した。
 相変わらず所在が掴めないのは、それは彼女が契約者達『ひと』を独立して行動する『個人』と当てはめる条件と合っていないから。ログインをヒパティア自身が管理できないイレギュラーだからだ。
 だから先ほど別件で報告をうけ、兄を見つけたといわれたときはその存在を確認できなかった。
 しかし、この場所に兄がいるとピートが教えてくれたのだ。彼らを導いたあの猫は、フューラーが昔作成し、彼女の護りにつけていたAI猫のピートである。
 彼女を守って傷をうけ、眠っていたはずが何故か、勝手に飛び出してフューラーの一部を探し当て、またネットワークの中に消えていったのかはわからない。
 しかし、ようやくヒパティアは兄への糸口を掴むことができた。
 ただ待つばかりでなく、取り返せるリンクの気配が思考をかすめた。まだ散漫としていた戸惑いや衝動が、それを芯にして激昂へと名前を変えた。
 敵を殲滅せしめねば、取り戻せるものはないという意識に、まるで爆発と紛うほどの熱量が加わった。
 一瞬膝を折りそうなほどの重圧がかかって、偶々一番側にいたエヴァルトはこれは何よりも危険だと直感で理解した。
「来てはダメだ!」
 彼女のごく側にいた蟻はセキュリティに煽られて消えるものの、今度は働き蟻が、巨大なリソースの匂いを嗅ぎつける、つまり彼女は今危ないほど身を乗り出していることになる。あの重圧がその証拠だ。彼女全体から見てほんの指先を伸ばせば良いものを。
「もう、邪魔よ!」
「今忙しいんだ邪魔すんな!」
 周とレミが息を合わせて蟻を退け、煉獄斬とファイアストームが辺りを焼き尽くした。
「ほう…わざわざお越しいただけようとはなぁ…」
 まるで呼ばれるように、敵の少女が姿をあらわした。
「私は、貴方に会いに来たわけではありません」
「歓迎してやろうというに、無粋じゃのう」
 今はまだ、彼女が直接対峙できる体勢ではない。少年を追いかけようとするヒパティアに立ちふさがる相手を、どうすり抜けるべきか…
「…止むを得ない」
 止めるべき、いや今はここから引き剥がさなければ、ガートルードは最初に出来れば使わないで欲しいと打診された手を持ち出す。
「ヒパティア、すみません…」
 心の中で、強く戦闘機の姿を思い浮かべる、速度と重量を纏い、蟻をなぎ払うイメージと共に、彼女の想像の中でそれはより大きく引き出されてくる。
 重圧が再び皆を襲い、ある種の質量弾となって辺りを煽った。

「…無茶苦茶だなあんた!」
「も…申し訳ありません…」
 なんとか混乱に紛れてあのサーバーからログアウトすることができたが、さすがに目を覚ましてエヴァルトはガートルードに食ってかかった。
 あの質量は一歩間違えれば、もろともに自滅していたかもしれない、いくらなんでも無茶だった。その代わり、高負荷のかかったサーバーからはじき出されることに賭けたのだ。
 元の場所に戻ったとわかった周は、状況の滅茶苦茶っぷりに、ふへへと変な笑いをこぼしてしまった。
 ヒパティアのために、とんでもないことをやらかす者もいたものだ。
「ま、そういう訳で何とかしようっつーお人よしがいっぱい来てるからさ、ガキが抱え込んだ顔してんじゃねーよ」
 頭を撫でてやるかわりに、彼女のモニターをコンコンとたたく。
 だがその時笑顔を浮かべかけたヒパティアは、邦彦のログアウトがキャンセルされたことに気づいて顔色を変えた。