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第2章 イルミンスールの森



 イルミンスールの森は、ザンスカールとヴァイシャリーの中間に位置する静かな森である。
 その広大な森には、様々な生物が生息していた。
 澄んだ水には小魚が、新緑に芽吹いた草木には昆虫や小動物が。
 長かった冬に終わりを告げるような暖かな日が、彼らを目覚めさせ、神が与えし使命を全うさせる。

「ザザッ……ピピピッ!! ……ッ。」

 一羽の小鳥が捕食者に捕らえられたようだ。
 口から赤い血を滴らせるハンターは、イタチ科の【イルミンスール・カマイタチ】。
 鋭い牙を持ち、硬質化した鱗の様な前足が、鎌のように変形している事からそう名付けられていた。
 だが、餌にありついた【イルミンスール・カマイタチ】も、次の瞬間には命を落とす。

「シュルルッ……シュルシュルシュルッ……。」

 そいつは獲物を飲み込むと、巨大な木に巻きつきながら消えていく。
 静かに、そして素早く、捕食者は体勢を立て直す。
 巨木の後方には、ハエが飛び交い、蟻や蛆虫などの餌食と化したサーベルタイガーが、無残に朽ちた姿で見せていた。
 音を立てる事無く姿を消した、五メートル級の【サーペント】は自然の摂理を良く知っているのだろう。

『昆虫や小動物は、それより大きな獲物に狩られ、より大きな獲物は、さらに大きな獲物に狩られ、最後には小動物に狩られる。』

 これが食物連鎖と呼ばれた、神が与えし使命なのだろう。
 そのような連鎖だが、西暦2009年の6月まで、その頂点に君臨していたのは理論上【地球人】であった。
 他の生命体にはない【異質な彼ら】は、他の生物にはないカルマ(業)を持っていた。
 だが、パラミタとの融合が、彼らを頂点から引きずり落としたのだ。

「グルルルルッ……。」

 どこかで獣の唸る声が聞こえた。
 同時に巨大な【何者か】も、鬱蒼たる繁みの奥から鎌首を擡げて動き出す。
 どんな理由があるにしろ、静かな縄張りに入ってくる者たち。
 侵入者を威嚇するように、メキメキと音を立てて蠢く【彼ら】も、他の生物にはないカルマ(業)を持っている。



 ☆     ☆     ☆



 あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
 森の中を探索する瀬島 壮太(せじま・そうた)は、うんざりそうに呟いた。

「それにしても、その魔女の意図がいまいちわかんねえな。ネクタルが欲しいってんなら、イングリットみてえな地球人じゃなくて、イルミンの事情に精通してる種族のやつを脅したほうが早かったんじゃねえの?」

 泥濘の多く、道なき道を進むのは困難だ。
 それだけではなく、ムシ暑い湿気や小さな虫、蛇などの野生生物などが、彼らの足取りを重くする。

「文句が多いのう。黙って仕事をするがよい。」
「……うるさい、ガキ。」
「わらわをガキと呼ぶでない! そなたよりは……ゴホン、ゴホン。」

 レキ・フォートアウフ(れき・ふぉーとあうふ)が誘拐され、気の立っているミア・マハ(みあ・まは)は壮太に食って掛かる。
 自身がその場にいながら、レキを連れて行かれてしまった事をミアは後悔していた。
 もちろん、自身の名誉の為にも口にはしないだろうが。

「まぁまぁ、今は仲間割れをしている場合じゃないよ。とりあえず、ネクタルの泉を探さないと……。」

 ノーン・クリスタリア(のーん・くりすたりあ)に呼ばれてやってきた、御神楽 陽太(みかぐら・ようた)はぴょんぴょんと木の枝の上を進んでいく。
 陽太がノーンからの連絡を受けたのは数時間前だ。
 いつもは自宅の家族の元にいる陽太。
 ヴァイシャリーには仕事で来ていたのだが、かなり焦ったノーンの連絡を受けて、急遽この探索に合流したのだ。

「美緒ちゃんたちが大変だって聞いたよ! イングリットちゃんをお手伝いするよ!」

 無邪気な彼女らしい連絡だったが、ノーンはノーンで必死なのだろう。
 当のノーンは、ネクタルのおおよその場所を探すべく、頭をひねっていた。
 彼女は、ザンスカール領内の精霊指定都市イナテミス周辺の『氷雪の洞窟』出身なので、ネクタルの噂を聞いた事があった。
 しかし、かなり昔の事なので、的確な場所を示すのは難しい。

「おにーちゃん、やっぱりわかんないから、精霊ちゃんの力を借りてみない?」
「時間はかかるかもしれないけど、少しずつ進むしかないかもね。」

 陽太は立ち止まると、深緑に包まれた森を見渡す。
 鬱蒼とした森は、彼らの侵入を拒むように静かに見下ろしている。
 情報を仕入れるのも、そう簡単にはいきそうにない。
 そんな中、壮太も巨木の前に立ち止まり、木に持たれかかった。

「何をしているのじゃ?」

 ミアが尋ねると、壮太は笑いながら言う。

「ハムを連れてきたからさ。」
「ハム?」

 木の上から、チョロチョロと上 公太郎(かみ・こうたろう)が降りてきて、彼の頭の上に乗った。
 小柄な公太郎は木の上に登ると、高い位置より周りを見渡してきたのだ。

「壮太殿! ここより東北の方角に煙が見える。おそらくは獣人の集落じゃ!」
「獣人かぁ……。」

 獣人は、主にジャタの森に多く住む種族で、獣に変身する能力を持つ種族である。
 必要に応じて体の一部、あるいは全体を獣のように変えることができ、感情が昂ぶると勝手に耳や尻尾が生えることがあるらしい。
 彼らは基本的には、人里を避けて、森の中で生活しているようだ。

 ここで壮太は、2つの選択を迫られる事になった。
 時間のロスになろうとも、獣人より情報を得る。
 もしくは、このまま皆と行動する……。

「オレ。ちょっと、行ってくらぁ。」

 しかし、壮太の心は決まっていた。
 公太郎を頭に乗せると蔦に手をかけ、獣人の集落へ向かう。

「ちょっと、待つがよい!」
「それがしも参る!」

 後ろから、ミア・マハ(みあ・まは)オットー・ハーマン(おっとー・はーまん)が追いかける。
 「置いていかれるなよ。」と言うかのように、後ろを気にせず壮太は駆けた。
 今は僅かなヒントでも、得ることが大切だった。



 ☆     ☆     ☆



「あ〜、あの人たち行っちゃったよぉ。」

 その場に残されたのは陽太とノーンら。
 ノーンが精霊を呼び出すべく、動く事ができなかったようだ。
 しかも、今の彼らの行動に気をとられ、意識が乱れてしまったらしい。
 この辺りは磁場も乱れており、精霊が姿を現すには不向きな場所だったようだ。

「ごめんね。おにーちゃん。」
「いいよ、別に。」

 ノーンはせっかく来てくれた陽太に謝る。
 焦れば焦るほど、意識が乱れてしまう自分が不甲斐なく落ち込んでしまう。
 しかし、そんな彼女の目の前に、一輪の青い薔薇が差し出される。

「えっ?」
「謎の密林の奥地に、幻のネクタルが沸く泉を見た! ……タイトルこれで行きましょうか。」

 そこには、背の高いエレガントな出で立ちの紳士が立っていた。
 彼の名前はエメ・シェンノート(えめ・しぇんのーと)
 彼はノーンに薔薇を手渡すと、口を横一文字に大きく伸ばし、満面の笑みで右手を振った。

「テッテケテー、テッテケテー、テッテケテー!」

 すると、西南の方角より長靴を履いたネコならぬ、バスティアン・ブランシュ(ばすてぃあん・ぶらんしゅ)が【従者ニャンルー】らを引き連れて、姿を現したではないか。

「ぜんたーい、止まれにゃ!! 番号!」「ニャン!」「ニャー!」「ニャニー!」
「ニャニーじゃ、わからないないにゃーッ!!」

 バスティアンはニャンルーを注意する。
 その姿は、立派なバスティアン探検隊隊長である。
 エメはデジタルビデオカメラを片手に、彼の勇士を収めながらインタビューをおこなった。

「バスティ、どうでした? 東の方角は?」
「あっちは危険にゃ! 毒蜘蛛タランチュラや、大サソリがいたにゃ! 危険にゃー!!」
「ほうほう、そうですか。そうですか。では、南の方角は?」
「……あっちはとてつもない急斜面があったにゃ。寸での所で助かったにゃが、私でなかったら……死んでたにゃ!」
「なるほど、なるほど。」

 バスティアンは恐怖の為に額に汗を流していた。
 勿論、その方角はすでにエメのスキル【トレジャーセンス】で調査済みだった。
 撮影に使えそうな場所を物色して前撮りし、毒蜘蛛とかサソリの玩具もセッティングしておいたのだ。
 当然、最優先は人助けなのだが。

「くすっ……。」

 焦るばかりのノーンには笑顔が戻ってきた。
 そして、そんな彼女の目の前に、バスティアン探検隊隊長が立ち止まる。

「ここは磁場が悪いから、別のところに移るにゃ。」
「で、でも、他のところに行っても……。」

 ノーンはすっかり自信をなくしてしまっているようだ。
 バスティアン・ブランシュ(ばすてぃあん・ぶらんしゅ)は、真っ赤な帽子を取ると、胸に手を当てながら言った。

「だーいじょうぶ、間に合いますにゃ。……私は幸運を呼ぶのですよ。本当ですとも。」

 刻一刻と迫る時計の針。
 焦れば焦るほど蟻地獄のように飲み込まれてしまう。
 だが、その緊張を緩ますような愛くるしいバスティアン。
 陽太らは、バスティアン探検隊とともに移動する。
 そして、ポツンと残ったエメは、腕を組みながら感慨深げに呟いた。

(成長しましたね。バスティ。)

 実はぬいぐるみの大蛇も準備していたのだが……出す機会を逃してしまったようだ。
 それに気づいたエメは、指をパチンと鳴らすと口惜しそうに目を瞑る。

「ま、今回は良しとしますか。美しい乙女に免じて……。ブツブツ……。」

 それだけが心残りだが、まずは時間、時間。
 エメは、額を指で押さえながらツカツカと歩き出す。
 その先の池に落ちるとも知らずに……。