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【蒼空ジャンボリー】 春のSSシナリオ

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【蒼空ジャンボリー】 春のSSシナリオ
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リアクション



●傾く時間のなかで 〜きみとともにあること〜


 カナンには空中庭園と呼ばれる場所が数多く造られている。
 とはいっても、本当に空中にあるわけではない。高台に造られた自然豊かな庭園を指す。
 これは主に古王国時代、故郷を懐かしむ女神イナンナをお慰めするためにと各国の人々が競って造ったもので、現存するのはその一部と言われているが、それでもかなりの数があちこちに残っている。
 なかでも首都アガデにある領主の居城に設けられた空中庭園は、その規模と美しさから、東カナン一と称されていた。



 岩をうがつ大砲のような音がすぐ近くでしている。
 上から激しく流れ落ちる水音。
 あれは……滝の音。
 林田 樹(はやしだ・いつき)は熱くしびれた頭のどこかでそんなことを考える。
 今は、昼間で。ここは庭園で。だれが来てもおかしくなくて……。
 けれどそれも、すぐ押し流されて消えた。
 熱い奔流。それが彼女を津波のように襲い、がんじがらめに捕らえて放そうとしない。
「んん……っ」
 それは章という名の奔流だった。ほかのことなど考えるな、彼の唇はそう言っていた。僕のことだけ感じていればいい。それ以外は許さないと、何度も何度も、噛みつくように彼女の唇をふさぐ。
 ほおに触れると冷たかった。のども、背中も、手が触れた場所はぐっしょり濡れて冷たい。
 重なった箇所は、どこも炎のように燃え上がっているというのに。
 ふいに彼女の体を抱き締め、拘束していた腕の力が弱まった。だが彼女を解放したわけではない。背筋を伝い下りた手は彼女のふとももに下りて、ぐっと持ち上げる。
 筋肉の盛り上がった腕の力は強く、安定していた。樹のつま先は地面から浮いていて、彼女の体重のほとんどは章にかかっているというのにゆるぎもしない。
 そのとき、開いたふとももの間にぐっと章の体が割り入った。ますます密着する。
「あっ」
 反応し、反った背中が背後の壁に触れた。痛くはなかった。滝の裏側にあたるこの場所の石はどれも濡れていて、人工の滝らしくけがをしないよう丸く削られてもいる。ただ、ほんの少し冷たかっただけ。
 バランスをとろうと、彼女の足は自然と章の腰へ回った。そしてそうする間も、章の唇は彼女を求めて動き……。
 ――なぜこんなことになったんだろう? 貪欲に求めてくる舌に必死で応えながら、ぼんやりと樹は思った。


 悠美香ルーフェリアの部屋を訪ねた帰り道。せっかくだからと空中庭園を散歩することにした。
 木漏れ日に目を細め、すがすがしい空気を胸いっぱい吸い込み、森林浴を満喫する。
「いい天気だ。絶好の1日になりそうだな」
 うーんと伸びをしながら歩く樹の後ろを数歩遅れて緒方 章(おがた・あきら)は歩いていた。
 彼女の横に並ぶスペースがないわけではないが、ここからだと彼女がよく見える。
「喜んでくれてよかったね、樹ちゃん」
「ああ。あんなに感激してもらえるとは思わなかった。探しがいがあったというものだ」
 笑顔で振り返る、彼女がまぶしい。
 章には今の樹が見られたことが、一番報われたことだった。
 いや、そもそも「報われた」とは言わないか。もともとつらい思いはしていない。樹と2人、あれでもないこれでもないと話しながら連れ立って歩き、探す時間は本当に楽しかったから。
 ただこういうとき、しみじみと思う。
(ああ、僕は何をしても、樹ちゃん主体なんだなぁ)
 と。
 それは、自他ともに認める事実だった。2人を知る者はみんな知っている。章は樹にぞっこんだと。なにしろ教導団食堂でのいきなりのプロポーズは有名な話だ。
『樹ちゃん、結婚しよう!』
 初対面でいきなり叫んだあげく、パートナー契約に至った。しかも今では婚約者。あと十何年かすれば、伝説にさえなるかもしれない。
 そのことを今さらとりつくろったり隠そうなんて思わないけれど、それでもときおり、自分でも不思議に思わないでもなかった。
 はじめのころ、実はそうではなかった。
 林田 樹という人物は緒方 章にとり、観察対象の1人でしかなかったのだ。
 『狂犬』と呼ばれ、周囲から一目置かれていた女性。何が引き金になるとも分からない、その反射的な他者への害意の裏にあるのはトラウマだと、すぐに気付けた。
 章は軍医だ。ちょうど神経症について学んでいる最中で、衛生課カルテの彼女の診断内容は、恰好の研究対象に思えたのだ。彼女で論文が1つ書けるかもしれないと。その程度の興味だった。
 強い不安感や強迫観念が引き起こすヒステリー。それが全く理屈に合わない、不合理なことであると自分で分かっていても止められない。なんとか我慢しようとする、その抑圧がさらに歯止めのきかない攻撃性となって強く表れ、周囲のすべてを破壊しようとする。
 そんな彼女を章は注意深く観察し続けた。
 当時、樹は全く気付いていなかっただろう。あのころの彼女に周りが「見え」ていたとはとても思えない。
 だが樹のことを一番考え、一番理解していたのは、章だった。そう自負していた。
 だれの目にも映らない彼女の苦しみ、孤独、そしてそれに懸命に立ち向かう不屈の魂。
 ほかの人間だったら、とうにくじけて壊れていたに違いない。これほど傷つきながら、それでももがいて、あらがって。それら1つ1つが章の目にはまぶしく映った。
 彼女はただの観察対象ではない。そんなものでは収まらない。そう悟って、章はひと目惚れを装ってプロポーズした。
 樹はほかのひととは全然違う。彼女なら、きっと自分にこれまでと全く違う世界を見せてくれるだろう、と。
(打算的だなぁ)
 当時を振り返ると、章は苦笑するしかない。
 結局「自分のため」だ。彼女のことなんか、これっぽっちも尊重しちゃいなかった。うす汚いギブ・アンド・テイク。彼女の孤独感を埋めてあげる、それで帳尻は合うと思っていた。
 心が壊れていないまでも、ねじれていたのはむしろ章の方。
 そしてそんな彼の目を開かせ、癒したのが樹の光だ。『狂犬』と呼ばれたその奥には、純金にも勝る、汚れない強い無垢の光が輝いていた。
 彼女の近くにいて、彼女を知るにつれ、章は己の小ささを知った。
 彼女は「患者」「研究対象」、自分は医者で彼女を救える立場だなんて、とんだ思い上がりだ。
 その魂に惹きつけられていくにつれ、彼は己を恥じ、そしてますます彼女に惹かれた。己を恥じるからといって、離れてなどやらないと思うほど。
 この手で彼女のためにできることは少ない。あまりに少ない。
 だからこそ、彼女を喜ばせることができると、こんなにもうれしい。
 彼女のトラウマはまだ存在する。無理に治したいとは思わない。それは自分が出会ったときから彼女の身内にあって、彼女の一部でもあるのだから。
 だけど……。


(……たしか、川をさかのぼって歩いて、そしたらこの滝があって……。「アキラ、魚だ! こんな人工の滝つぼにも生物が住むものなんだな!」と言ったら、アキラが……ええと……「樹ちゃん。これはわざと放流されてる魚だと思うよ」って生意気なことを言ったから……)
 滝つぼに突き落としてやったのだ。
 それで引き上げてやろうとしたら逆に引っ張りこまれて。
 顔の近くにきた手に、反射的におびえた彼女を見た章の目が険しくなったと思ったら、いきなりここへ連れ込まれた。
 そして彼女を両腕のなかに囲い込み、突然キスを始めて……。
「……っ!」
 いきなり章が彼女の唇を噛んだ。それほど強くはない。血が出ることもなく、舌で触れた瞬間には消えていく程度。
「何も考えないで、樹ちゃん。ただ感じて……」
 熱情に潤んだ眼差しが彼女を射るように見上げた。そうして再び手が彼女の首へかすかに触れる。しかし次の刹那、彼女は身を退いた。あの滝つぼのときよりもはっきりと。
 これは章。だが無理だ。考えずにはいられない。怖がってビクつく体を抑えられないように。
「……すまん、アキラ。どうしても……思い出すんだ」
 その言葉に、章が彼女の胸元に噛みついた。犬歯はボタンを噛んでいる。彼女と見つめ合いながらそれを噛み千切り、プッと吐き捨てた。
「アキラ?」
「……つくづく難儀だね、樹ちゃん。必ずそこからきみを救い出す、なんてヒーローめいたことは言わないよ。僕はただの男でしかないからね。僕にできるのは、ただきみを愛することだけだ」
 トラウマはしかたない。起こってしまったことも、過去も、どうすることもできない。
 だけど、きみにそんなにも強い影響を残しているものがあることについて、僕はどうすればいいんだろう?
 おかしいよね。それが僕ときみを出会わせたものなのに、こんな気持ちになるなんて。そんな傷よりももっと、もっと、強く「樹」のなかに入り込みたい。「章」という存在を刻みつけてやりたい。
「ああ……アキラ、アキラ、アキラ…」
 章に顔を上げさせ、両手ではさむ。
「それで十分だ。私を愛してくれるなら……それだけで。
 私のためを思うなら、頼むからアキラ、おまえだけは変わらずにそばにいてほしい。もう私は、親しい者を失いたくはないのだ」
 吐息が感じられるくらい唇を近づけ、ささやく。そして彼女の方からキスをした。
「樹ちゃん。一緒にいるよ。それだけは約束する。僕は何があってもきみから離れない。きみのそばにいて、きみとともにある。この有限の時間のなか、この身が塵に還る瞬間まで……きみとともに」
「アキラ……私を奪え」
 何も考えられなくぐらい、激しく。おまえのことだけになるように……。
 その願いに応えるべく、章は動き始めた。


*            *            *


「あら? まだだれも来てないようですね」
 遊歩道から開けた先へ抜けて、紫桜 遥遠(しざくら・ようえん)は周囲を見渡した。
「え? ほんと?」
 ひょこ、と少し遅れて緋桜 霞憐(ひざくら・かれん)が脇から覗く。
 しんと静まり返っていて、本当にだれもいない。
「ありゃ。遙遠もいないんだ?」
「ちょっと早く来すぎたようですね」
 かすかに遠くで鳥の鳴き声がしているなか、両開きの扉の前まで歩を進める。やはり鍵がかかっていて、なかは無人のようだった。
 鍵は? という目で見ると、霞憐は肩をすくめて首を振る。
(それもそうですね)
「鍵、もらってこようか?」
「いえ。すぐほかの人たちも来るでしょうから、ここで待ちましょう」
「だね。遙遠とすれ違うのも何だし」
 納得した遥遠が扉に背を預けると、霞憐は外階段に腰を下ろした。
 そこは礼拝堂だった。東カナン国の領主一族だけが使用できるという建物。そのわりに飛び抜けた大きさや華美さはなく、街に設けられている大聖堂とそう変わらない……いや、もしかするとこちらの方が小さいのではないだろうか?
 しかし、美しかった。細かな細工がほどこされた石のタイル1枚、屋根飾りにほどこされたアラベスク1つをとっても、すべてが精密に造られている。一級の職人による手仕事。
 派手さはない。陽の光を反射して輝く金線も、埋め込まれた宝石もない。植物とイナンナをかたどったステンドグラスがはめ込まれているだけだ。しかしそれらが荘厳な雰囲気を生み出し、歴史ある建造物だけが持つ厳粛な空気をまとっている。
 聖域。そう言うのかもしれない。
 ここにこうしているだけで、静けさと陽光に心身が洗い清められていく気がする……。
 あるいはこれも、この国に満ちたイナンナの祝福、力なのだろうか? そう思っていると、霞憐が不意に何かを口にした。
 霞憐は今、ゆるく膝を抱き寄せて前を向いていて、遥遠の位置からは頭だけで顔は見えない。声も小さかったから、本当に口にしたのかも分からない。
「すみません、聞き逃してしまいました。何です?」
「あの、さ……。あの……」霞憐は数瞬ためらいの間を開けて「ありがとう、って……言いたかったんだ」とつぶやいた。
「え?」
「遙遠、今いないし。遥遠と2人って、こういう機会、なかなかなかったなぁ、って思って」
「そういえば、そうですね」
 2人はともに遙遠のパートナー。遙遠を間に介して左右に並び立っているようなものだった。
 だけど、彼女に礼を言われるようなことは何もない、と思う。むしろ遥遠の方こそ、いつか霞憐に言いたいと思っていたことがあった。
「ごめんなさい」
 と。
「えっ? 何が?」
 知らぬうち、言葉に出してしまっていたらしい。振り仰いだ霞憐の目は、驚きに丸くなっている。
「それは……」
 遙遠の『特別』であること。
 もし運命がほんのちょっとずれていたら、それは霞憐であったかもしれなかったという後ろめたさだった。
 もしかしたら……遥遠ではなくて霞憐こそ、遙遠の『特別』になれていたのかもしれない。離れ離れになることなく、ずっと一緒にいることができていたなら……。
 でも、だからといってこの場所を譲ることもできない。
 唇を噛む彼女に、霞憐はくすっと笑った。
「僕ね、遥遠にはすごく感謝してるんだ。遙遠を救ってくれて。僕には無理だった。きっと、離れずにあのままずっと一緒にいられたとしてもね」
 再会を果たしたとき、遙遠のかたわらにはすでに遥遠がいた。そして遙遠は……霞憐が出会ったときの遙遠ではなくなっていた。もっと温かく、もっといきいきとした、自由な存在に変わっていた。
 そんな彼を見て、ああ、と思ったのだ。ああ、彼は救われたんだと……。
 それをしたのが自分じゃないことへの悲しみ、つらさはあった。けれど、泣き出したいぐらいうれしくもあったのだ。神様に感謝した。この世のすべてに。そのなかでも一番に、遥遠に。「彼を救ってくれてありがとう」と。
 そのことに比べたら、胸を締めつけるこんな思いなどちっぽけなものだ。
 それに、たとえ遙遠との別離がなくてずっと一緒にいたとしても、遥遠と出会った瞬間から遙遠は彼女以外目に入らなくなっていただろう。2人は別ちがたき一対の翼。それはだれの目にもあきらかだから。
 だからそのとき霞憐が受ける衝撃は、きっと今とは比較にならないほどつらいものだったに違いない。
 離れ離れになっていたのは、決して間違いではない。
 そう納得できて、霞憐は一歩退いた。遙遠のとなりは遥遠のものだ。
 今ではこの状況に満足している。遙遠のことは本当に、心から好きだったけれど、あのころの遙遠よりも今の遥遠を好きな遙遠の方がずっとずっと好きだから。
「霞憐……」
「んね? 今思ったんだけど、遥遠もここで一緒に式挙げちゃわない?」
「えっ!?」
「せっかくここにいるんだし。こんなきれいな場所、ほかではそうそう見つけられないよ?」
 先までのしめっぽい空気をはねとばすように、ことさらちゃめっけたっぷりにおどけてくる霞憐に、最初遥遠はぱちぱちと目をしぱたいた。が、その意図が悟れてくるにつれて、笑みが口元に広がった。
「そうですね。ここは本当にすてきな場所です。でも、今回はだめですね」
「ちぇっ、だめかぁ。
 ま、しかたないよな、今日の主役は別にいるし」
 くすくす笑う遥遠を見上げて、霞憐はこう言った。
「でも、いつかな」
「ええ、いつか」
 2人は、そうして2人だけに通じる思いを受け取り合ったのだった。