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第4章 クオルヴェルの集落 2

 集落は平和で、そして穏やかな時間が過ぎていた。契約者たちも、いまはリーズの帰りを待つのみで、しばしの慎ましやかな休息を得ている。
 だが森では、昏い影が蠢いていた。
「…………」
 その影は仮面を被っている。
 まるで己という存在を隠すように。己という存在を否定するかのように。
 仮面を被った異形の影は、足を引きずるように静かに歩みを進めていた。
 ――集落へと。


 集落のとある民家。そこは集落をおとずれる者に部屋を貸している宿屋のようなものだった。
 一人の少女が、椅子に座りながら自分の赤子をあやしていた。
 黒いショートヘア。小柄で見た目にも可愛らしい顔付き。優しげな印象を受けるその少女の名は、蓮見 朱里(はすみ・しゅり)という。
 彼女はいま、何かの気配に気付いて不安げに視線を揺らしていた。
「アイン、いまのは……」
「ああ。なにか、いやな予感がする」
 同じように椅子に座っていた青年が、険しい顔で言った。
 男性型の機晶姫にして、朱里の旦那。金髪と精悍な顔立ちが印象的な青年――アイン・ブラウ(あいん・ぶらう)は、すくっと立ち上がった。
「アイン……」
「ちょっと見てくる」
 部屋を出て行こうとするアイン。
 扉をくぐろうとする前に、彼は一度振り返った。
「……気をつけてね」
 朱里が心の底から心配しているのが痛いほど伝わった。
 その胸に抱かれる赤子を見つめる。。
 どちらも、なくしてはならない。大切なものがもう彼にはある。それをなくすことは絶対にしてはならないと、彼は自分の胸に刻んだ。
「ああ」
 そして彼は、不吉な気配のする森へと足を運んだ。


 真っ先に異変に気付いたのは、リネン・エルフト(りねん・えるふと)とその仲間だった。
 普段から『シャーウッドの森』空族団という自警団的役目を果たしているからだろうか。町や村の周囲で起こる不吉な気配には、敏感になっているのである。
 そしてその予感は、最悪の形で的中した。
 彼女たちはいま、森で見つけた異形の影と対峙している。
 そいつは、身体中のあちこちから魔物の一部と思しき醜悪な部位を生やしている。触手、大きな口、角、骨、鎖。統一感があるようで、歪な印象。これで明らかに魔物であれば、まだ良かったかもしれない。
 そいつは四肢を持ち、かつ人間としての姿をかろうじて取り留めている状態なのだった。
 エッツェル・アザトース(えっつぇる・あざとーす)――かつてはよう呼ばれていた男が、そこにいた。
「……また大変なことになってるみたいね」
「大変なことっていう限度を、越えてる気がするけどね」
 エッツェルの放つ圧倒的な魔のオーラに、ヘイリー・ウェイク(へいりー・うぇいく)は冷や汗を隠せなかった。
 何が彼をここまで変えたのだろう。契約者という枠にすら当てはまらない、異形の化け物。エッツェルという存在は、魔の淵たる領域にまで手を伸ばしていた。
「エッツェルさん……」
 ヘイリーたちと共にいた榊 朝斗(さかき・あさと)が唇をかみしめた。
 黒いショートヘア。黒い瞳。幼さを残した少年の顔立ち。いつもは明るく、元気なその表情も、いまとなっては苦虫を噛み潰したようなものとなっている。
 これまで彼とは――エッツェルとは、幾度となく冒険を繰り返してきた。時には、敵に回ることもあっただろう。だがそれは、確かな自分の理念と目的があってこそ。それが、エッツェルという人間だったのだ
 しかし、いまの彼にはそれすら感じられない。
 あの時――かつて自分が〈闇〉に覚醒したときの光景が、朝斗の脳裏を過ぎった。
 あの時と同じだ。〈闇〉が支配しているのだ。自分も、エッツェルすらも。
 彼は〈闇〉を求めていた。至高の闇を。自分が自分であるという意味を。証を。存在を。
「あなたは……それすら忘れてしまったというんですか……っ」
 ずっと抱えていた怒りが、それすら通り越して哀しみとなる。
 ならばせめて。止めてみせる。自分を〈闇〉へと引きずり込んだ、その責任は必ず果たさせる。僕が、壁となることでっ……!
「朝斗……」
 彼の隣で、ルシェン・グライシス(るしぇん・ぐらいしす)が心配そうに声をかけた。
 だが、朝斗は答えなかった。代わりに出た言葉は、次なる行動。
「ルシェン、アイビス、やるよ。止めるんだ。……集落を守るためにも」
 無言でこくっと、うなずくアイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)。ルシェンはほんの少し躊躇するように遅れた。
 だが、覚悟を決めたようだ。
 彼女もまた――力強くうなずいた。


 エッツェルの攻撃はすさまじかった。
 破壊と狂気のうねり。爆発と闇のエネルギーが生み出す衝撃波の奔流が、大地や木々をえぐって契約者たちを襲う。森が悲鳴をあげているような、そんなパワーが自然を破壊し尽くしていた。
「まったく、よくやりますねぇ」
 エッツェルの攻撃をかろやかに避けながら、青年がぼやく。
 名はラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)といった。わざわざ口にしたりはしなかったが、エッツェルの元担任でもある青年である。
 無造作に伸びた焦げ茶の黒髪を後ろで束ねた、線が細くて温和そうな顔だち。だがそれは、優しいというよりは、我関せずの飄然とした雰囲気を醸していた。
 すなわち、自らのパートナーに関しても静観を貫くということ。
 シュリュズベリィ著 『手記』(しゅりゅずべりぃちょ・しゅき)がエッツェルと戦闘を繰り広げる様を、彼は離れて見つめていた。
「…………」
 その手記とて、エッツェルに何か言うわけではなかった。
 ただ、苛立ちと諦めが同時に襲い、それが自分の心を惑わしている気分である。
「エッツェル……」
 誰にも聞こえないつぶやき。
「……堕ちたか」
 それは自分の心にか。それとも〈闇〉にか。
 手記にもわからない。ただ言えるのは、青年は前に進むことを止めたということだ。それだけは手記は断言できる。
(やはり人の身には過ぎるものじゃったか)
 理性を失くして何になる。記憶を失くして何になる。過去を失くして何になる。
 ただ災厄をまき散らしたいがために……人外の法に手を出したわけではあるまい!
 手記自身も、決して並の生き物であるとは言えないだろう。魔導書という存在の中でも、また異質な存在。その薄汚れたローブの中には、何十もの異形の触手が蠢いている。
「エッツェルよ……我は主が嫌いじゃ」
 異界の王笏たる武器を手に、エッツェルの放つ闇の衝撃波とぶつかり合う。
 自分でも知らずのうちに、彼女はつぶやいていた。
「人である事を止めた――我の理想を否定した主が大嫌いじゃ。故に、我は主を止める」
「…………」
 エッツェルの仮面は物言わない。
 だがその視線がこちらを見たような気がしたのは、気のせいか?
「我は、主を、止める。さあ――奇跡を起こしてみようかのっ」
 轟ッ。
 うなりをあげる異界の王笏――黄の聲。
 エッツェルの身体から生み出される怪奇の化け物が、触手と放電で応戦する。さらに彼は、まるで地獄の使者でも呼ぶように、モンスターや異形の化け物の尖兵を生み出した。
 それでもまだ、甘いほうだ。エッツェルの身体は死の風を呼ぶ。近付いた者はそれに吹き飛ばされ、跳ね上げられ、それだけで身体を無数に斬り裂かれる。しかも、応戦して放った攻撃は、異様な硬さの水晶翼に防がれるのだ。
 だが、それでも――
 ボロボロになりながらも、朝斗たちは諦めなかった。
「ルシェンっ!」
 エッツェルの攻撃を一手に引き受けて気を引き付けていた朝斗が呼ぶ。
「ええ、任せといて!」
 ルシェンは叡智の聖霊で溜め込んでいた魔力を、光の閃刃へと込めた。
 巨人の腕がたたき落とされるような、轟音と衝撃波。エッツェルはそれを水晶翼で受け止める。
 アイビスがその隙に接近した。バーストを噴き出して懐に入り込み、レゾナント・アームズの拳を叩き込む。
 機晶姫はエッツェルの姿に何を思ったのだろうか。
 アイビスは叩き込んだ拳を受け止められながらも、静かに彼に問いかけていた。
「エッツェル、貴方には少なくとも『人』としての『心』がある筈です。それを捨ててまで何を求めようとするのですか?」
「…………」
 アイビスにとって、エッツェルの行動は理解不能と言うに相応しかった。
 彼女は機晶姫だ。機晶技術によって作られた、人工的な命。人工的な身体。だがそれでも、彼女は『人』の心を求めている。元人間であった名残を、少しずつだが取り戻しつつある。
 あなたはそれを捨てるのか?
 自分には分からない。それが、どれだけ価値のあることなのか。そんなものに価値など、見出せないのだ。
「貴方には帰る所も帰りを待つ『家族』もいるのに……。それを……それすらも、捨てるのですか?」
 エッツェルはアイビスを弾き返すと、距離をとった。
 わずかに動揺の走ったような様子。小刻みに震える手が、何かを求めてさまよった。
 その隙に、ルシェンとアイビスは互いの溜め込んだ魔力を一心に集中させた。
 が、すでにエッツェルは再び動き始める。
「くっ、ま、間に合わないっ……!?」
 そのスピードとパワーについていけるのか。
 するとそのとき、エッツェルの背中と眼前から、数人の影が飛び込んだ。
「リネンさんっ! ヘイリーさんっ! それに……アインっ!」
「悪い、遅れたな」
 アインは正面からエッツェルを羽交い締めにする。
 それぞれ、ワイルドペガサスとワイバーンに乗ったリネンとヘイリーが、彼を後ろから矢と剣で貫いた。
 その目が、ルシェンとアイビスを見る。
「こういう時は助け合いでしょ?」
「そーゆーことっ。やって、二人とも!」
 うなずくアイビスとルシェン。
 二人の溜め込んだ魔力が、召喚獣――ノイ・フェニックスを呼び出した。
 それは巨大な鳥。破壊と創造を司るかのような、優しい色の炎に包まれた鳥だった。
「いけええええぇぇっ!」
 轟然と炎を散らして、ノイ・フェニックスはエッツェルを飲み込んでいった。
「ガッ……グアアアアアアァァァァッ!」


 エッツェルの断末魔のような悲鳴は確かに聞こえた。
 しかし、視界を覆っていた金色の炎が消えたあと、そこには彼の姿は見当たらなかった。
「まさか消滅させた、とか……」
 リネンが苦々しく言う。
「そ、そんなこと……」
「それはなさそうだ」
 ルシェンを安心させたのは、アインの一言だった。
「これを見てみろ」
「これって……」
 そこにあったのは、焼き切れた異形の化け物の切れ端だった。
 それは木々の間にも引っかかっている。
「逃げたんだろうな」
 アインは頭上を見上げる。朝斗は焼き切れた化け物の一部を見下ろして、つぶやいた。
「……大丈夫、だったかな」
「どういう意味でだ?」
「いや、それは……」
 思わず顔を伏せる朝斗。
 どんな理由があるにせよ、他人を殺してしまうということがあれば、辛いことになる。それは避けたいと思うところだった。
「まあ、そう簡単に死にはしないだろう。しばらくは再生するまで動けないかもしれないがな」
 エッツェルが何を望んでいるのか。
 それは誰にも分からない。ただそれが、哀しみだけを生む結果にならないことを、誰もが願っていた。