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クレーメック・ジーベック

「あ〜、疲れた〜……」

 島津 ヴァルナ(しまづ・う゛ぁるな)は、まさに「精も根も尽き果てた」というカンジで、倒れ込むようにベッドに身体を投げ出した。
 スプリングの聞いたマットが彼女を優しく受け止め、ふんわりとした羽毛の掛け布団が、その身体を柔らかく包み込む。

 一日の仕事の後、こうしてベッドに身体を預けるこの時間が、最近のヴァルナにとっては何よりの癒しの時となっている。

 かつてこの部屋を埋め尽くしていた豪華な調度は、そのほとんどが姿を消してしまい、今ではこのベッドが往時を忍ばせる唯一の品となっている。
 クレーメックには随分と反対されたが、このベッドを守り通して本当に良かったと、ヴァルナは心底そう思う。

「随分とお疲れの様でございますね。今日の夜会は、大変だったのですか?」

 屋敷に残ったわずか二人の召使の一人、キャリア50年を誇る老メイドのハンナが、ヴァルナに訊ねた。
 ヴァルナと話をしつつも、片時も手を休めることなく、彼女の脱ぎ散らかしたドレスを畳んでいる。
 日付の変わる前に返さないといけない貸衣装だ。早く畳んで持って行かないと、延滞料金を取られてしまう。

「ええ……。今日は公爵様のご子息に、散々ダンスを付き合わされてしまって……。2時間も踊りっ放しだったのです……。もう、足が痛くて……」
「まぁ!それはようございました。公爵様のご子息に気に入られたのなら、きっと寄付が集まりますわ。公爵様の影響力は相当なモノですもの」
「どうかしら……。今日の舞踏会、公爵様はいらっしゃらなかったから……」
「大丈夫ですわ。こういうお話は、広まるのが早いですから。きっとすぐに、公爵様のお耳にも入ります」
「でも、公爵様に気に入って頂けるかどうか……」
「それは心配ありません。この国広しといえど、ヴァルナ様ほどのお嬢様は、片手の指に余るほどしかおりません。必ず、公爵様にも気に入って頂けますよ。この私が保証します」
「ありがとう、ハンナ」
「いいんですよ、そんな。本当の事ですもの――それでは私は、ドレスを返しに行ってまいります。何か、お飲み物でもご用意しましょうか?」
「大丈夫、自分で出来ます。ハンナは、早くドレスを返して来て下さい」
「かしこまりました」

 一礼し、慌ただしく部屋を出ていくハンナ。
 相変わらずベッドに身を預けたまま、ヴァルナは、遠ざかって行く足音を聞いていた。

「領主っていうのも、中々大変な仕事ね……」

 誰に言うでもなく、そうつぶやくヴァルナ。
 その脳裏を、これまでの出来事が、走馬灯の様によぎった。


 クレーメック・ジーベック(くれーめっく・じーべっく)が、先の会戦での目覚しい活躍をシャンバラ女王に認められ、貴族に取り立てられたのが、一年前。

 大方の貴族が領地に赴かず、代官にを派遣するのに対し、「何事も経験」と政務を執る事を選んだクレーメックは、その控えめな言葉とは裏腹に、高い理想を持って領地経営に臨んだ。

 その理想とは、領民の負担を少しでも軽くし、わずかでも恩恵を増やす事。平たく言えば、善政を敷くことである。

 クレーメックはまず、到着早々の挨拶で『穏健な改革』を標榜する事によって、領主交代に伴う領民の不満を和らげつつも、はっきりとした改革の意志を示し、領民の緩やかな指示を取り付ける事に成功した。
 そしてその後の一ヶ月間を、旧領主の施政の調査に費やした結果、その問題点が、領民への過度な課税に支えられた領主の放漫財政にあると判断したクレーメックは、徹底した財政の見直しを行った。
 特に力を入れたのは、公平な税制と公金の使途の透明化。
 租税については、貧困層の税負担を軽くする一方、富裕層からは収入に見合った税を徴収する累進課税制度を採用し、領民の間に蔓延していた不公平感を払拭。
 税金の使い道については、インフラ整備や開墾・農地改良など、公共部門への投資を増やす一方、自分たちの生活費や交際費の出費は極力切り詰めた。

 しかし、貴族社会の一員としての体面を保ち、社交界での円滑な人間関係を保つためには、ある程度の支出はどうしても必要になる。
 こうした内向きに費用の工面を担当したのが、ヴァルナである。
 ヴァルナは、前の領主が残していった調度品や、不要な不動産を売却した他、ドレスやアクセサリー、それに美術品は全て売り払い、貸衣装やイミテーションに替えた。それでも足りない分は、自分やクレーメックの私財を切り売りして調達したのである(特にヴァルナは、舞踏会などで言い寄ってくる男たちからのプレゼントは、進んで売却した)。

 しかしヴァルナの苦労は、こうした金銭面に留まらない。
 ヴァルナは夜遅くまで政務にかかりきりになっているクレーメックに代わり舞踏会やパーティといった社交面での活動の一切を、引き受けたのである。
 ヴァルナは連日の様に開かれる催しに必ず出席し、飲めもしないワインのグラスを片手に、紳士淑女たちの退屈なやり取りに耳を傾け、ソツのない笑顔を浮かべ、好きでもないダンスも、誘われれば嫌な顔ひとつせずに何時間でも付き合った。
 代わりに、新領主クレーメックの名前と手腕を売り込んで回り、「これは」と思う相手には、彼の改革への支援や寄付を頼んで回った。
 その甲斐あって、ヴァルナは徐々にではあるが、社交界での地位を確かなモノにしつつある。
 クレーメックの理想に賛同し、協力を申し出てくれる有力者も、ポツポツとではあるが、現れ始めたのである。
 
「確かに、上手くいってはいるんですよね……」

 自分一人が寝るにはあまりにも広い、寝室の高い天井をぼぉっと眺めながら、ヴァルナはまた呟いた。
 そういえばこのところ、気がつけば、こうしてベッドの上でぼぉっとしていることが多い気がする。

「……ううっ、もう舞踏会なんてうんざり。……お茶漬け、食べたいなぁ」

 ふとそんな言葉が、ヴァルナの口をついてでた。
 その時――。

「起きろ、ヴァルナ。お茶漬けが来たぞ」

 いつの間に、部屋に入って来たのだろう。
 聞き慣れたクレーメックの声に、ヴァルナは起き上がった。


「あ、アレ?クレーメック、仕事はどうしたんですか?今日は確か徹夜だって、言ってませんでしたっけ?」
「は?何を言ってるんだ?確かに今日は徹夜だが、忘年会は任務とは違うぞ?」
「え……。忘年会……?舞踏会じゃなくて……?」 
「舞踏会?お前、コレが舞踏会に見えるのか?」

 クレーメックはそう言って、周りを指し示す。
 そこでは、教導団の同僚たちが三々五々テーブルを囲んで、宴会の真っ最中だ。

「……見えません」
「見えないな。……全く、幾ら上官の勧めとはいえ、飲めもしない酒を飲むからだ。始まって早々に潰れやがって」
「……私、酔いつぶれてたんですか?」
「ああ。今の今までな。ホラ、お前が寝言で食べたがってた茶漬けだ」

 言われてテーブルを見ると、見慣れたいくら茶漬けが湯気を立てている。
 どうやら、自分は宴会が始まってすぐに酔い潰れ、ヘンな夢を見ていたらしい。
 しかし夢にしては、ヤケにリアルな夢だ。

「どうした?早く食べないと、冷めるぞ?」
「そんなコトより、クレーメック!!」

 何か思いつめた表情で、ガタッと立ち上がるヴァルナ。

「ど、どうした?気持ちでも悪いのか!?」
「もしクレーメックが出世して、『貴族に取り立てる』っていっても、絶対に断って下さいね!」
「は?」
「お願いです!絶対に、断って下さいね!絶対ですよ!!」
「あ、あぁ……」

 何の話かまるでわからず、取り敢えず曖昧な返事を返すクレーメック。

「ふぅ……、良かった〜。それじゃ、いただきま〜す!」

 クレーメックの返事を了解と判断したのか、ヴァルナはホッと溜息を吐くと、いくら茶漬けをほうばり始めた。

「ん〜!おいしい!!やっぱりコレよねー!あんなパーティの料理なんて、目じゃないわ!」
「な、なんなんだ、一体……」

 すっかり目が点になっているクレーメックを他所に、満面の笑みでお茶漬けを食べ続けるヴァルナ。
 その顔は、本当に幸せそうだった。