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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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魔道書はアレクサンドリアの夢を見るか

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第5章 危険区画


 ひときわ大きな咆哮が響き、図書館中の壁と窓がびりびりと震えた。
「急がないと、本格的に書龍が暴れ出すかも知れないわ」
 震えの残響の残る天井を見上げ、セレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)が呟いた。
 虚無の手に対抗して闘志を燃やす書龍が、行き過ぎた敵意で暴走すれば内部からの自己崩壊をきたして最悪この図書館までもが消滅する可能性がある――とは聞いている。
 その最悪の事態を回避するには。
(元凶となっているらしい『万象の諱』を捜し出さないと)
 そう考えて、セレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)とともに、先行して図書館内に入ったというパレットとの合流を目指しつつ、〈西の塔〉の方へと向かっていた。
「それにしても、どっちもなかなか見つからないわね」
 セレアナは、蔵書の詰まった部屋の真ん中で立ち止まり、辺りを見回した。
 目指す『万象の諱』を、この山なす蔵書の中から見つけるのが至難の業だとは分かっている。だからこそ、相手をよく知るパレットと合流したいと思うのだが、あいにくパレットの方もなかなか見付からないということで、捜索は難航している。
 館内に満ちている書物たちの感情の波は、2人が館内に入ってすぐよりも大きく、そして不穏にざわめきだしている。あるいは、書龍の活性化によるものなのかもしれないが。『歴史』という絶対的な者から放たれた刺客に対する恐怖、そして敵意と憎悪が絡み合ったものが満ちている。
 気が立っている書物が多いからと予めクラヴァートから注意を受けていた〈西の塔〉のゾーンに、最初からセレンフィリティらが向かったのには訳があった。

「『万象の諱』の存在のせいで自分たちが脅かされている……と感じた他の蔵書が、『万象の諱』を殺して、それをもって虚無の手から自分たちだけでも生き延びようと……したりしてないかしら……?」
 そんな懸念を、セレンフィリティは抱いていた。
 書が書を殺す(?)、というのがどんな状態なのかは分からない。が、仲間内にいる誰かのせいで自分の身の危険が迫るのを感じたら、それを排除することで保身を図る――そんなのは人間の間でもあることだ。
 物騒な感情が渦巻いている方に注意が向くのは、その可能性が具体化したような事態が起こっていないかと気になるからだ。

 セレアナは、話ができそうな書物を探す。あまりに強い感情の波動が出ている本は避ける。激情に駆られているものは、まともに話ができないかもしれない。
 けれど、静かにしているものも、話ができるほどの能力がないのか、もしくは人と話したくないのか、セレアナにまともに答える本は少ない。
「私たちは、この図書館の敵ではないわ。司書のクラヴァートの許可を得て入って来てる。
 『万象の諱』って本を捜してるんだけど、知らない?」
 細かい説明の苦手なセレンフィリティに代わって、セレアナは、なるべく注意深く、思わぬ形で刺激したりしないよう、出来るだけ静かな声音で尋ねてみる。セレンフィリティの言っていた懸念が当たっていないか、探るために周囲の雰囲気の変化にも注意する。彼女の言ったようなことが起こっていたなら、感情の波に何かの変化が出るかもしれない。
 細かな泡がぴちぴちとはぜるような、小さなそっけない声の答えが書棚の隅からぶっきらぼうに幾つか、返ってきた。

『知らない』
『ここにはいない』
『誰?』
『クラヴァートって誰?』

「え!?」
 思わず、2人は顔を見合わせる。
 ――『万象の諱』はともかく、蔵書の「総意」によって司書に任じられたはずのクラヴァートを知らない蔵書がいるのだろうか?

『そっち、違う世界』
 2人の逡巡を見抜いたかのようなタイミングで、別の小さな声が飛んできた。
「え、何? 違う世界って」
『クラヴァートがいなかった世界』
「どういうこと?」
『そこに在る本は同じでも世界が変わってる』
 小さな声は、蔵書の詰まった棚から聞こえてくるが、どの本のものなのかは判然としない。
 セレンフィリティが、その短い端的な言葉に却って混乱している間に、彼女同様やはり意味が分からないまでも何とか会話を続けて情報を得ようと判断したセレアナは、敢えて声の主に誰何はせず(されたくないのだろうと見当を付けた)声を返した。
「この部屋のどこかに違う世界があるの?」
『あちこちにある。今は館内のあちこち。近付いちゃだめだよ』
「どうして?」
『元いた場所に戻れなくなるかもしれない』
 2人は息を飲んだ。――意味は分からない。部屋の中は、書棚が並び蔵書がぎっしり詰まってはいるが、見た目には何もおかしなところはない。なのに「戻れなくなる」とは。
 意味が分からないだけに、何となくぞっとしない響きがあった。
「『万象の諱』は、その違う世界にあるのかしら」
『その本は知らない。でも、別の本が捜してた』
「別の本って?」
『よそから来た魔道書。人の姿をした』
「パレット!?」
 セレンフィリティが、思い当たったように声を上げる。セレアナは頷き、なおも尋ねた。
「その魔道書、どこに行ったか分かる?」
『階段を昇っていった。階段の上は危険。違う世界がたくさんあるのに』
 2人は顔を見合わせ、頷いた。
「ありがとう」
『危ないよー。司書を知らない本には近寄っちゃだめだよー』
 謎の忠告に送り出されて、2人は階段を昇り始めた。
「正直、よく意味が分からないけど……何だか気持ち悪いわね、『戻れなくなる』って」
 セレンフィリティは呟き、それから首を振った。得体のしれない怖気を身から振るい落とそうというかのように。
「怯んでる場合じゃないわね。最悪の結果だけは避けなきゃいけないもの」 




 館内には事実、奇妙な異変が起こっていた。
「……?」
 館内の書棚で【サイコメトリ】を使って情報収集していたダリルが首を傾げる。
「ダリル? 何か分かった?」
 ルカルカに問われて、ダリルは呟くように答えた。
「どうもおかしい。情報が二重にぶれるようなイメージが投影されている」
「二重にぶれる……?」
 つられたように首を傾げたルカルカの隣で、突然白颯が歯をむき出して唸るような声を立てた。人化した姿で犬の仕草を取ると、周りはちょっとぎょっとする。
「どうしたの、白颯」
「ここはおかしい。この棚の向こうとこっちで、空気が全く違う」
「え!?」
「あっち側には行かない方がいい。何だか……異質……」
 白颯はそこまで言って、ふと口を結ぶ。
「……薬、切れる」
 擬人化液の効果が切れると言っているのだった。慌てて鷹勢が、ルカルカから預かっているもう1本の薬瓶を出そうとすると、白颯はそれを片手で押しとどめた。
「いい」
「え」
「しばらく、元の姿で。また、違うところで必要になるかもしれないから」
 そう言われて鷹勢はまじまじと白颯を見、それからルカルカを見た。姿の薄れかけた白颯が再び口を開く。
「異質な場所、危険な場所……犬のままでも分かるから」
 最後まで言い終わる前に、白颯の姿は山犬に戻っていた。
「白颯がそう言ってるし、この薬はしばらく持ったままにしておくよ。
 どんな風に異質なのか分からないけど、白颯は危険には敏感だから。要注意の場所は教えてくれると思う」
「野生の感覚ってことね。分かった」
 ルカルカは頷いた。

 また、書龍の咆哮が轟いてきた。




「聞いてほしいんだ。僕たちは君らの味方だよ」
 泰輔の隣に立つフランツも、いかにも館の上から地平の果てに飛び出していきそうにいきり立っている書龍に語りかけた。
「禁書諸君、君たちはいつ、書かれたのか、覚えているかい?」

 音楽の発達が、その前に存在したものを礎にして進んできたように「禁書」もそのような進化をしてきたことだろう。
 ……抹消されるべきもの、とされたにせよ、時代の精神を映す。
 それを取り締まりうるもの、に都合の悪い真実を突くから「禁書」となる。
 有名なオペラになった物語にもまた、時代によっては発禁処分となって失われたであろうものがあったのをフランツは知っている。

 いつ書かれたのか。そこから出発だ。
 なぜ君たちが消されようとするのかのヒントはそこからだ。

 アイゼンティティの断片を掴んで、自己を確実に取り戻し、冷静な判断力に返るのだ。

「忘れられた歌は、もっともっと沢山ある……」





 空気が、しんと静まり返る、渡り廊下の一角。
 階下の部屋には蔵書が溢れ返っていたが、この階まで来るとほとんどそれがない。
 おそらくこれから書物を迎え入れるのだろう、いくつもの空の本棚が置かれている部屋の入口に、パレットは立っていた。
 固い表情で前を向いている。

「いた! パレット!!」
 後ろからかかった声と足音に、パレットが振り返ると、駆け寄ってくるセレンフィリティとセレアナが見えた。
「! あなたがたは……」
 驚いているパレットに、セレアナが手短にここまでの経緯を説明した。
「……そう、か……契約者の方々が……」
 説明を聞いて、パレットは頷いた。詳細は知らないまでも、建物の内外で何か動きがあったようだということは何となく察していた。
「それで、『万象の諱』は見つかった?」
 一番気になっていることをセレンフィリティが訊くと、パレットの表情が微かに締まった。
「まだ。けど……場所は分かった、と思う」
 パレットが前を向く。つられるように、2人も前方に目をやった。
 書物はない、空の書棚ばかりが並ぶ、いささか殺風景な室内。その向こうに扉がある。恐らく廊下に続いているだろう。この部屋を越え、廊下を渡ったさらに向こう。
「ここから先は、危ない」
 パレットが、きっぱりした口調で断言した。
「危ない?」
「どうやら、今この館内には、目に見えない『空間の断絶』が生じているみたいだ」
 セレンフィリティとセレアナは、先に蔵書から受けた警告を思い出した。『違う世界』。
「何が起こってるのかは分からない。見た所は、何も変わりがないように見えるけどね。
 そこに迂闊に踏み込めば、隔たった空間に迷い込んで、戻れなく恐れがある」
「じゃあ、どうするの」
「――それでも、俺は行かなくちゃ」
 パレットの口調には迷いがなかった。その横顔を、セレンフィリティはじっと見た。
「……。何か、策があるのね?」
「確実では、ないけどね」
 言いながら、パレットは右手で自分の左腕を抱くような格好をした。彼の服装はいつものジーンズとTシャツで、両腕に包帯が巻かれているのもいつものことだ。
「あたしたちも行くわ。危険な場所に、あなた一人だけ行かせられない」
 セレンフィリティが言うと、セレアナも頷いた。
「何が起こっているのか分からないというのなら、この先それこそ未知の脅威があるかもしれない。
 『万象の諱』を無事保護するための切り札が貴方なのだから、その貴方を私たちが護衛するわ」
 2人の言葉に、パレットは口を開けて何か言いかけた。……多分反駁するつもりだったのだろう、が、声にする前に口を閉じた。
 今までにもさまざまな局面で助けられた契約者の実力はよく知っている。彼としては他者を危険に巻き込みたくない気持ちもあるのだろうが、その一方で確実に『万象の諱』のもとへ辿り着きたいという気持ちがあり、葛藤しているようだった。
「……俺から、あまり離れないでね。危ないから」
 そうとだけ言うと、おもむろにパレットは、左腕の包帯を外し始めた。下から現れた腕の地肌は、傷はないが虫食い状態に灰色に浸食されていた。その灰色の部分は、実際細かい灰の粉に塗れている。
 焚書に遭いかけた時燃やされた跡を、灰が零れないよう、ずっと包帯で庇っていたのだった。
「大丈夫……なの?」
 セレンフィリティが恐る恐る訊くと、パレットは頷いた。
「まぁ、怪我じゃないし、どうせもう、灰が紙に戻ることはないんだし。ただの感傷だったんだ」
 そして、その包帯の端を、戸口の柱に結びつけた。

「それじゃ、行こう」
 包帯がほろほろ解け、3人は奥へと進んでいった。