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年の初めの『……』(カギカッコ)

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年の初めの『……』(カギカッコ)
年の初めの『……』(カギカッコ) 年の初めの『……』(カギカッコ)

リアクション


●チェスの駒(2)

 チェスの駒だ。
 黒のナイト。
 ソープストーン製。艶があって鈍い色で光を反射している。
 ラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)の指が駒を掴み、独特の動きで白のビショップを倒した。無論ビショップもソープストーンである。ころりと良い音を立て、盤上から取り除かれる。
「チェックメイト、だと思うんだ。もうここから挽回できる手だてはないと思うよ」
「ふむ。そうかの? ここでこう打つと」
「同じだよ。むしろ崩壊が早まる。ほら、ナイトがさらに動くから……こう。わかるか?」
 シュリュズベリィ著 『手記』(しゅりゅずべりぃちょ・しゅき)は溜息を吐き出し、自分のキングを横に倒した。
「……参った」
「そろそろ終わりにしないか? 昨日の晩からずっとぶっつづけで試合しているけど」
 ラムズは欠伸をかみ殺しながら、傍らで観戦しているクロ・ト・シロ(くろと・しろ)に問うた。
「何勝だったっけ、これで?」
 大欠伸してクロは手元のノートを見る。
「さんじゅう……なな? 37連勝。もちろん0敗だぜ。わかってると思うが」
「なあ、手記。もうわかったと思う。手記は私には勝てない。クイーン落としビショップ落としでも全然結果は変わらないじゃないか。もう諦めたらどうだ? ただ単に腕を上げたいのなら、棋譜でも見て学ぶのが一番だ」
 ラムズがここまで剣呑な口調と態度になっているのも理由あってのことだ。昨夜からほとんど睡眠も取らず、手記のせがむに任せひたすらチェスを指し続けているのだ。

 発端は手記にあった。昨夜、つまり大晦日の夜、手記はチェスのセットを持参して彼に告げたのである。
「主にとって、昨日も今日も昨年も来年も何も変わらぬじゃろう? ならば、少し我に付き合え」
「まあ、変わらないのは事実ではあるけれど……今日って何か記念日だったっけ?」
「それでこそ主じゃ。気にするな。腕の上達が目的ゆえ手加減せず指すが良い」

 このやりとりがすべての始まりだった。初戦はまさに瞬殺といった具合でラムズは手記に勝ち、以後、どれだけ手記が食い下がろうが、一切手加減せず叩き潰し続けたのだった。駒落ちしようが結果は同じ、手記はグウの音も出ない完敗ばかりだ。
「ふむ、普段ボーっとしとるわりにやるではないか。我もまったくの素人ではないつもりじゃが何故か勝てぬ。しかし諦めはせんぞ、あと一番じゃ」
「さっきからずっとそれだろ」
「いや、少しずつ学んでおる。そのつもりじゃ。それに、我が『ただ単に腕を上げたい』のではないことくらい主は気づいておろう」
 深く、深く息を吐き出してラムズは駒を並べ始めた。
「……あー、畜生、分かったよ、やれば良いんだろ」
「それでこそじゃ」
 完全に呆れた顔で、クロは立ち上がった。
「あーあー、まったく良くやるよ……」
 だが寝床へ行くわけでも出ていくつもりでもないのだ。クロはこの半日少々、何度目かわからないが珈琲を淹れに行くのである。
「カフェイン入れて頑張れ。あと何だ。適当に食うものも持ってきてやる。オレとしてはまったく真似したくない生き様ではあるが、とことんヤるというところだけは褒めてやらぁ」
 クロが台所へ去ったとほぼ同時に、38戦目が開始された。
 ポーンの応酬から本格的な盤面形成へ。二人は迅速にゲームを進める。
「どうして手記が駄目か教えてやろうか」
 ラムズはやや、苛立ちを含めた口調で告げた。
「手記の手からは勝つ気が感じられない。一見攻めの姿勢をしているように見えて、その実攻めるべき所で手を引く。結果、隙を突かれた王はあっさりと凶刃に倒れる。傍目らか見れば愚行極まりないが、こう何度も同じ事を繰り返されると、何か作為的なものを感じるな」
 すると手記はふと、手を止めてラムズの顔を見た。
「ふむ、続けよ」
 と述べてゲームを再開する。
「思うに、手記はチェスというゲームに置いて、優劣を付けたくないと思ってるんじゃないか? ゲームには当人の性格が出る。様々な心理的駆け引きも絡んでくる。しかし勝負事である以上、本質は戦力の奪い合い――潰し合いだ。手記はその本質を最初から破棄しているから、勝つ事ができない」
「的確なアドバイスじゃな。間違っておらぬよ」
「……投了して良いか?」
 さすがに眠い。頭がガンガンする。ラムズは頭をばりばりと掻いた。
「それは許さん。駒を進めよ」
「はぁ……すまないが、手記が何を考えてるかさっぱり分からない」
「昨日最初に言ったじゃろ。腕の上達じゃ」
「王も追わずに?」
「王を倒す必要などない。チェスの王は、時として他の王を受け入れる場合もあるじゃろう?」
「……ステールメイト(※)狙いか」
 すると手記は、チェス戦を初めてから最高の笑み(あるいはほくそ笑み)を見せた。
「御名答……と、リザイン(※※)じゃ。ようやく感覚がつかめてきた。次は遠慮なく攻めるとするかの」
「……やってみろ下手糞」
 白か、黒か。決着を付けるものがチェスである。二者択一、そう思われている。
 しかしチェスには、灰色の決着がある。
「潰しあいのゲームで、唯一の潰しあい以外の結末を見たいというのか」
 手記はなにも答えなかった。
 黙って、また駒を並べ始めた。
 ラムズもここからは無言だ。
「おいどうした。ずっと話し続けてたみたいだが、急に押し黙って……なんか気味悪いぞ」
 部屋に戻ったクロが眉をしかめた。
 それだけ、沈黙が訪れていたということだ。
 響くのは、駒が盤に置かれる音、それだけとなる。
 しかしこのときラムズと手記は、言葉を使わず盤と駒のやりとりだけで、高速の会話を繰り広げていたのだった。
 この戦い、日が傾こうが結末は見えない。
 永遠に続くかと思われた。


スティールメイト――日本においてしばしばチェスは『西洋将棋』と呼ばれ、実際に類似点が多いが、これは将棋にはないチェス独自のルールである。キング(王)は自殺するマスに動かすことを禁じられている。このため自分の手駒がキングのみとなった場合、相手の配置によってはまったく動かすことができなくなることがある。これをスティールメイトと言い、ゲーム結果は『引き分け』とされる。
※※リザイン――要するに投了のこと。