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リアクション
●中世ヨーロッパ 2
「〜〜〜〜 ♪ 」
エメリヤン・ロッソー(えめりやん・ろっそー)は鼻歌を歌いながら2頭のヤギとゆるやかな斜面を登っていた。2頭のヤギはいずれもポーターシェルターにくくりつけられた壺やさまざまな大きさの荷箱を背負っている。エメリヤンがまたがっているポニーの鞍にも少しくくりつけられているが、ロバたちほどではない。
斜面の道は、まっすぐ前方に広がる森につながっている。そこは魔の森と呼ばれ、周辺の村の者たちでもめったに踏み込まない森だ。家具に適したオークが生い茂っているため、木こりが勇気をふるい起こして入るときもあるが、せいぜい入り口周辺だという。
ここにさしかかってそのことを思い出すたび、不思議だな、とエメリヤンは思う。
たしかにこの森は木々が密接していて暗い場所が多いし、なかには真っ暗な場所もある。でもなかへ入れば光が差し込む場所はそれ以上にあるし、小さいけれど湖だってある。森は豊かで、動物たちだってたくさんいるのだ。決して魔の森とかいうおどろおどろしいイメージに似つかわしい場所じゃない。
「――おっと。忘れるとこだった」
動物から狼を連想して、エメリヤンは腰の剣の位置を調節した。普段は移動の邪魔で剣帯を長めにして吊るしているが、森に入るとなればそうもいかない。引っかかることなくなめらかに抜けるか確認し、うんとうなずく。
森には狼がいる。でもそれはどこの森でも同じだ。ここの森に限ったことではない。とすると、やはり例のうわさなのだろう。
森には魔女が住んでいる。
だれが最初にそんなことを口にしだしたりしたんだろう?
魔女が存在しないとは言わないけれど――魔女狩りだってあるし――少なくともこの森にはいない。
この森に住んでいるのは、魔女と呼ばれたがっているとてもかわいらしい女の子だ。
「おーい、魔女さーん。来たよー」
人工的に円形状に切り開かれた場所にある小さな平家の前でポニーを下りて、エメリヤンは呼びかけた。
小屋はしんと静まりかえって、ひとのいる気配がしない。もう一度呼びかけて待ってみたが、やはり反応はなかった。
「ありゃ。いないのかな」
湖だろうか? そう思案していると、右手の方から草を踏みしめて歩く足音がした。そちらへ目をやると同時に小屋を回って、この小屋の主人の高峰 結和(たかみね・ゆうわ)が現れる。
「あら、行商人さんだったんですか」
いつもながらののんびりとした話し方からは、ローランダー特有のアクセントがかすかにしていた。もしかするとスコットランドから流れてきた移民なのかもしれないと、エメリヤンはひそかに思っている。それで多分、この森に居ついたのだ。多分、当初は家族で。でないとここを開拓したり小屋を建てたりがこんな少女1人でできるはずがない。
「ごめんなさい。裏の作業小屋でハーブを乾かしていたんです。それでなかなか気がつけなくて」
申し訳なさそうに駆け寄ってきた結和は、エメリヤンの胸までもなかった。いろいろな村や町を回って、たくさんの人に出会うエメリヤンから見ても小さい。なにしろ初めて会ったときはてっきり森で迷子になった村の子どもとばかり思い込んで「お母さんのところへ連れ帰ってあげるからね」とヤギに乗せて連れ帰ろうとしたというエピソードがある。
「私、18歳です」
と聞かされて、自分より年上と知ったときは心底驚いた。
その意味では魔女かもしれない。
(でもやっぱり、普通の女の子だよねえ)
ひと目で人心を惑わすような妖艶さも、森に迷い込んだ人間を取って食うようなおどろおどろしさもない。はっきり言えば、美人の部類ではないと思う。でも十分かわいらしい女の子だ。
「どうかしたんですか?」
じーーーっと無言で見下ろしているエメリヤンの足元で、結和は不思議そうに小首を傾げた。
「ん? ううん。何でもない。あー…っと、だれか来る予定でもあったのかな? って」
「……え?」
一瞬で結和が身構えた。目に見えないカーテンが間に引かれたような気がしてエメリヤンはとまどう。
僕、そんなすごいこと言ったっけ?
「……どうしてそんなことを?」
「あー、いや、僕だったのか、って言ったから、それでなんとなく、だれか待ってたのかな? って…」
「気の回しすぎですよ。だれも来るはずないじゃないですか。
それより、今日は何を持ってきてくださったんですか? 見せてください」
結和はさっさとヤギたちの方へ向かう。そのほおがかすかに赤らんでいたような気がして、少し眉を寄せた。
(気付かれたかしら?)
ヤギの背負った壺の蓋を取り、なかを覗き込むふりをして、結和は背後のエメリヤンの様子を伺う。そして自分がつい口にしてしまった言葉を思い起こし、それからの会話を反すうしてみた。
(大丈夫。気付かれてないわ……多分)
どう気付きようがある? 近辺の村でこの森に踏み込む人はいない。こうやって訪れて、村との橋渡しをしてくれているのはエメリヤンだけだ。もうずっとそうだった。
だから結和だって、彼を見たときは驚いた。まさか森で自分以外の人と出会うなんて。
ハーブを摘みに出掛けて、しげみから飛び立った小鳥たちに驚いて足をくじいてしまった。それでも途中までは我慢して帰路についていたのだけれど、ついに我慢しきれずひと休みのつもりで倒木に腰かけていたら、ますます痛みが激しくなって。
「どうしよう…」
「何かお困りですか? お嬢さん」
そう声をかけてきたのが彼だった。
銀色の髪を三つ編みにして腰まで垂らした、目つきの凶悪そうな男性。笑顔でとりつくろってはいるが、反対にその笑顔が怖い。腰には長剣も佩いている。
彼を見た瞬間、結和の顔からさーっと血の気がひいた。逃げようにも足がこれでは逃げられない。ここで乱暴をされ、殺されて野ざらしにされてもだれも気付いてくれないだろう。
「……い、いえっ。な、何でもないんです…」
手を突き出し、必死に来ないでと抵抗する結和だったが、彼は全く意に介せず、すたすた彼女の元までやってきた。
「そうですか。実は私は困ってるんですよ、お嬢さん。仲間からはぐれてしまいまして。この先の村へ行きたいのに、森から全然抜けられないんです。よかったら助け合いませんか? 私があなたを村まで運びますので、あなたは私に村への道を教えてください」
ひょい、と結和を抱き上げる。
「ああ。申し遅れました、私はローラント・オルティス。オーランソート家に仕える騎士です」
「高峰、結和……です」
「結和さん」
そして彼は苦もなく歩き出した。
「あの……さっきは、すみませんでした」
「うん? ああ。気にしてませんよ。最初に会ったひとがああいう反応をするのはもう慣れっこですから。睨むのをやめろって言われたこともあります。いきなり殴りかかられたりとか。私としてはそんなつもりは全然ないんですが。
でもそういうひとが、次に会ったときは普通に気安く接してくれるのを見ると、うれしいですね。それを感じるのが好きなんです。だから結和さんも、そうしていただけるとうれしいですね」
笑うときつい印象だった目が細くなって、全く違う柔和な雰囲気になった。
やさしい人だ。やさしくて、おおらかで、まっすぐな人。
自分を抱き上げてもびくともしない、力強い腕と厚い胸が服越しに感じられて、どきどきする。
結和は村へは行けない。それで小屋まで運んでもらい、そこから道を教えてあげると、彼は礼を言い、手を振って去って行った…。
もしかして村からの帰り道に寄ってくれたんじゃないかと思うなんて。
(ばかね。きっと村へ行けば魔の森の魔女の話をされて、帰りには通らないですむ別ルートを教えてもらうに決まってるわ)
よく魔女に何もされずにあの森を抜けることができたものだと感心されたに違いない。その光景が目に見えるようだ。
自分だってその方がいい。森に入れば魔女に呪われる、その恐ろしいうわさが1人住まいの彼女の身を守っているのだから。
もう一度会いたいなんて考えるなんて、どうかしている。
エメリヤンが運んでくれた、森では手に入らない日用品やら食材などを吟味していると
「あ、そうだ。この前の花かごね、すごく好評だったよ」
と、思い出したようにエメリヤンが言った。
「本当?」
「うん。特にあの赤い花のやつ。あと10個ぐらい卸してほしいって頼まれた」
結和は乾燥小屋の棚に残っているドライフラワーの量を計算する。
「多分できます」
「よかった。なんでも今度お城で大きな宴会が催されるんだって。そこの飾りに使いたいらしいよ。村に来た騎士さんたちが言ってた」
抑える間もなく胸がどきりとした。
「……騎士さまが?」
「うん。それでこの辺の町や村にいろいろ調達に来てるんだって。1週間ぐらいしたらまた来るからって……あと、ろうそくも欲しがってた。あの、燃やしたらいい匂いのするやつ」
「ハーブを練り込んだやつですね」
「それそれ。質がよくて香りもすばらしいからすごく人気がある品だって雑貨屋さんが熱心に彼らにそれを薦めててね。でもこの前あそこに降ろした分だけじゃ全然足りないから、もっと欲しいって」
「……そう」
騎士さまが。
「分かりました。3日後にまた来てくれますか? 用意しておきますから」
うれしい気持ちを押し隠して、できるだけ素っ気なく聞こえるよう答える。その手は知らず知らずのうち、高鳴る胸へと押し当てられていた。
エメリヤンが帰ったあと、裏手にある作業小屋へ戻った。小屋の右半分は花かごを作る作業用のテーブルやかごがあり、左半分は乾燥させるためのテーブルがある。そこには今、騎士と出会ったときに摘んでいたハーブが並んでいた。
シートの上のそれを1つ、つまんで乾燥具合を見る。
「うん。これならきっと間に合うわ」
そして壁の棚に区分けされて並んでいるドライフラワーの在庫を確認した。必要な量を取って、さっそく作業テーブルへと向かう。
騎士さまにきれいと思っていただけるように、一生懸命、心を込めて作ろう。そう思って。
花かごとハーブのろうそくを同時作業で作るのは、ほぼ徹夜作業だった。それだけに集中し、食事も簡素な物ですぐ終わらせ、最低限の仮眠を作業小屋ですませる。
依頼されていた数をどうにか作り上げたのは、エメリヤンが来る直前だった。
エメリヤンは花かごを持ち返るため、ヤギに荷車を引かせていた。
「魔女さん? 大丈夫? 病気?」
見るからにやつれて、身づくろいにも気を配れていない様子の結和にエメリヤンは眉をしかめる。
「いえ。何でもないんです。少し無理をしてしまって……でも、眠れば治ります」
「そう?」
「ええ。それより、運ぶのを手伝っていただけませんか?」
ごまかすようにそう言って、そそくさと作業小屋へ案内しようと先に立つ。エメリヤンの不審そうな視線が背中にそそがれているのが分かったが、あえて気付かないふりをして、花かごを荷車へ運んだ。
ろうそくの入った最後の箱を運ぼうと持ち上げた彼に、ためらいつつも別にしてあった1本のろうそくを差し出す。
「行商人さん。これを……あの、ローラントっていう騎士さまに渡していただけますか? この前のお礼です、って…」
うつむきかげんに視線をそらし、恥ずかしげに差し出されたそれを見て、エメリヤンのなかで何かが大きく傾いた。
「魔女さん」
ろうそくを差し出している手首をとって、ぐいと腕のなかへ引き寄せる。
「ぎ、行商人さん?」
「ねえ、どうしてあの騎士さまの名前を知ってるの?」
「そ、それは…」
「ねえ、どうして騎士さまは名前で、僕は名前で呼んでくれないの?」
「え? だって……私…」
「うん。魔女さんは僕の名前知らないんだよね。いつか訊いてくれないかな、って思ってた。でも、決して訊いてくれなかった」
それは彼女なりの節度を保ちたいという意識の表れだと思っていた。彼女はとても真面目で、礼儀正しくて。だれにも誤解されることのないよう気を配っているのだと。
そしていつか、その距離を縮めてくれるようになると……その相手は自分だと、思っていたのに。
「アイツがいいの? 魔女さんは知らないだろうけど、アイツ女の子いるんだよ? いろいろ店を回ってて、僕のとこにも来て。どうしたんですかって訊いたら「ぜん息でつらい思いをしている子がいるから少しでも楽にしてあげたいんです」って言ってた。女の子だよ。ほかの騎士さんたちに冷やかされてた。とってもかわいくてやさしい子で、騎士さんが大事にしてる子なんだって」
「……そう…」
「妹だよ」と返していたのは、わざと話さなかった。でも、少しずつ目が光を失って、しぼんでいく花のような結和を見ると、胸が痛んだ。
このまま彼女を奪ってしまえ、頭のなかでもう1人のエメリヤンがそそのかす。
そうすれば彼女はおまえのものになる。純潔を奪われればどうしたって彼女はおまえと結婚せざるをえない。彼女は忠実な女性だから、きっと誓いをかわせば絶対におまえを裏切ったりしない。
「魔女さん、僕のものになってよ…」
小さくささやいて。そっとエメリヤンは彼女に唇を近づけた。
村へ戻ったエメリヤンを、騎士たちの一行が待っていた。
騎士たちはすでにほかの荷物も積んだ馬車を用意していて、あとはエメリヤンが仕入れてきた花かごとろうそくを積み込むだけになっている。
「ご苦労さま」
騎士の1人が近付いてきて、彼をねぎらう。それが例のローラントだと気付いたエメリヤンは、ばん! と胸にたたきつけるように袋を押しつけた。
「これ! 森のま……薬師さんがあんたにって。発作を起こしそうになったら、煎じて飲ませればいいって」
「これは……薬か」
最初、エメリヤンのけんか腰ともとれる態度に面食らったものの、ローラントは受け取った袋の中身にぱっと表情を明るくする。
「ありがたとうございます」
「それとこれ!」
突き出したのは1本のろうそく。
意味が分からないとまじまじとそれに見入る彼に、エメリヤンは強引に握らせた。
「たしかに渡したからね!」
「あ、ああ……でも、これは?」
「知らない! 僕は頼まれただけさ! それの意味が分からないならそれだけってことだろ? 好きにすればいいよ!」
やけを起こしたようにそう言うと、エメリヤンは荷車の後ろへ回って積荷を下ろそうとしているほかの騎士たちの元へ向かおうとする。でもすぐに思い直して、くるっと振り返った。
「これだけは言っておくよ! 彼女はとっても純粋な、いい子なんだ! 泣かせたりしたら承知しない!」
「……彼女?」
「いつまでもたった1人であんなさびしい場所で暮らしてるなんて、かわいそうだ! 早く連れ出してあげてよ! 連れて帰ってあげて! それで、お姫さまみたいに大切に大切にして、あんたの手で幸せにしてやってよ! ……僕には、できないから…」
いきなりろうそくを押しつけられたと思ったらわけの分からないことをまくしたてられて、ローラントはとまどってしまった。
「えーと……彼女ってだれです?」
「…! この、ばかっ!! もう知るもんか!」
そっぽを向いて、エメリヤンは今度こそ彼の前からいなくなってしまった。
何が何やら分からないでいるローラントだったが、ふうと息をついた直後、かすかに何かがにおってくるのを感じた。空気に溶けた、少し刺激的な香り。それは彼の体温で少し溶けた手元のろうそくからしていた。
「これは…」
嗅いだ覚えがある。たしかめようと胸いっぱい吸い込んだローラントのなかに、数日前、森のなかで出会った少女の姿がよみがえった。
足をくじいて座り込んでいた、かわいい少女。緑の天蓋を通してふりそそぐ光が彼女の周りできらきら踊っていて、とてもきれいだった。今まで見たこともない、めずらしい金色の目をしていて……彼女と目が合ったとき、一瞬森の妖精を見つけてしまったのかと思ったほどだった。実際、抱き上げたときもとても軽くて、本当に人間なのかどうかとまどってしまって…。
彼女を運んでいる間じゅう、この香りが彼女からしていた。
あんなかわいらしい女性が森のなかで1人で暮らしているのはたしかに心配だった。あのときもそう思って、ときどき様子を見に行くのもいいかもしれないと考えた。なんといっても、自分は騎士なのだし。主君の領民を気にかけるのは当然だ。全然おかしくない。だが今は任務中。訪ねて行くのはまた後日にしよう、そう思って我慢していたのだけれど、思い出してしまった今、どうしても彼女が気になって仕方がない。
「……こうして薬をいただいたのですから、その礼を言いに行くのは当然でしょう」
うん、おかしくない、とまるでだれかに言い訳するようにつぶやいたローラントは、つないでいる自分の馬に向かってきびすを返す。ローラントは気付いていなかったけれど、気が急いているようにその足取りはかなり軽い。
肩越しにそれを見て。
「魔女さん、うまくやりなよね…」
エメリヤンが少しさびしげな笑顔でつぶやいた。
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