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思い出のサマー

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●スプラッシュヘブン物語(3)

 うーん、と及川 翠(おいかわ・みどり)は伸びをする。
「やっぱり、暑い夏はプールに限るの!」
 施設にはスプラッシュヘブンという公式名称があるのだが、翠は単純に『プール』と呼ぶほうが好みだ。
「今日は一日、思いっきり遊ぶの〜!」
 更衣室から飛び出すようにして出てくるなり、翠は元気に声を上げた。
 そして振り返る。
「更紗さん、早く早く〜!」
「翠さんそんなに走っては……ってひ、引っ張らないでください〜!」
 翠に引っ張り出されるようにして椿 更紗(つばき・さらさ)が後に続いた。更紗はまだ着替えている途中だというのに、早々に着替え終わった翠に急かされ、大至急準備を終えたのでなんだかもうお疲れ気味である。
 しかし翠に、そんなことに頓着している余裕はなかった。
 翠の前には広大な水の宮殿、ワンダーランドが広がっているのだ。一分一秒だってじっとしているのが惜しいと、翠は突撃していく構えだ。
「さあ更紗さん、いっくよ〜! 目標は、ウォータースライダーから波の出るプールから、とにかく全アトラクションを制覇することなの〜!」
「そ……そんなに……!? あっ……」
 走り出したら止まらない猪のように翠が駆けると、ややあって大きなプールから水飛沫がふたつ上がった。その一つが翠であり、もう一つは更紗であるのは言うまでもないだろう。
「ふぇ〜、翠ちゃんたち行っちゃいましたねぇ〜……」
 目の上に手をかざし、スノゥ・ホワイトノート(すのぅ・ほわいとのーと)は詠じるように言った。
 すでに翠はプールから上がって、ずぶ濡れのまま今度は更紗をウォータースライダーに連れていこうとしている。いつぞやのショッピングモールのときのように、更紗を引っ張ってどこまでも突撃していく気らしい。翠だけは倍速早回しで時間が過ぎているようだ。
「まあ、おかげで翠は更紗さんにお任せってことになりそうね。私たちは私たちで楽しみましょうか、スノゥ?」
 ふふっとミリア・アンドレッティ(みりあ・あんどれってぃ)は笑んでみせた。
 翠なりに気を遣ってくれたのだろうか。だとしたら、ありたがくこの時間を過ごさせてもらおう。
「あっちに行ってみない?」
 ミリアが伸ばした手を、スノゥがそっと握る。
 ミリアがスノゥを誘ったのは、椰子の木が生えている静かなエリアだった。
 別に最初からそういう考えだったわけではないのだが、歩いているうちカップルの姿が目に付くようになってきた。
 どの顔も、幸せそうだ。
 自分たちは周囲の目にどう見えているのだろう――そんな気もした。
 
「ふむぅ……!」
 目の前を横切ったミリアとスノゥを見送って、葛城 吹雪(かつらぎ・ふぶき)は義憤に身を焦がしていた。
 いやミリアとスノゥに限らない。吹雪が気に入らないのはすべてのカップルだ。
 言い換えれば「リアルが充実している人」略して『リア充』のすべてに、吹雪は腹を立てている。
 声を大にして言いたい。
「この世にリア充がいる限り自分の戦いに終わりはないのであります!」
 と。
 実際には言わない。さすがにここで叫ぶのははばかられるから。
 でもだからといって、リア充と戦う吹雪の意志にいささかの曇りもないのだ。
「こうなったら水練の予定は切り上げて、リア充を追い出すための作戦行動に入るのであります!」
 吹雪の服装は水着というよりスウェットスーツに近い。
 隠密テロ作戦には最適の扮装といえよう。
 いざ……行動開始だ。

 さてそんな吹雪が見たら悶絶死するかもしれないほど充実したカップルが、ここにも一組、いるのであった。
 風馬 弾(ふうま・だん)アゾート・ワルプルギス(あぞーと・わるぷるぎす)だ。
 恋人を名乗れるようになって十ヶ月ほど、これは『もう十か月』と見るか、『まだ十か月』と見るべきか。いずれにせよ、まだまだ初々しいところが二人にはあった。手をつなぎ合うだけで、互いを意識せずにはいられない。触れあった手と手が、じいんと熱いほどである。
 ――ま、アゾートちゃんを『デート』に誘えただけでも、進歩しているとは言えるんじゃない?
 弾とアゾートには同行者がある。それが、エイカ・ハーヴェル(えいか・はーゔぇる)だった。
 といっても人間の姿で付いてくるほど野暮ではない。エイカは魔導書形態で防水の密閉袋に入り、荷物として弾に抱えられていた。
 エイカの体力は限りなく最低ランクに近く、防御力はほとんど紙(魔道書であることを元にしたジョークではない)だ。アトラクションに挑戦したらひとたまりもない……とは彼女の弁である。
 したがって、「アトラクションを安全に体験する」という名目で、エイカはこうして運搬されているのだった。
 さて弾はといえば、デートを意識しているせいもあるが、ちょっと表情が強張っていた。
「アトラクション、楽しみだね」
 と微笑みかけるアゾートに、
「そ、そうだね」
 と額に汗をかきながら答えている。
 ――スプラッシュヘブンには大変危険なアトラクションの数々があると聞いたことがある……。
 これは全部、エイカからの情報だ。
 こともあろうにエイカは、「スプラッシュヘブンは一人前の男になるためには避けて通れない道よ」といささか過剰にした情報を弾に教えていた。
 いわく、死傷者多数の恐ろしい飛び込み台があるとか。
 バンジージャンプはときどき綱が切れるとか。
 とりわけ、ウォータースライダーは恐怖度マックスで、幾人もの勇者がこの挑戦で若い命を散らしており、これを乗り換えることを大人への通過儀礼としている部族(どこの!?)があるなどという話を吹き込んでいたのである。
 弾としては静かにプールでアゾートと遊べたらそれでよかった。彼女の水着姿が拝めればそれで十分だった。むしろ勝手にアゾートの水着姿を想像して、煩悩に悶々としていたくらいなのである……誘うその寸前までは。
 それなのに誘いを受けたアゾートはまっさきに、
「スプラッシュヘブン? アトラクションが楽しみだね!」
 と言ったのだった。
 それでどうして、アトラクションを拒むことができよう。
 なので今、目の前に水着姿のアゾートがいるというのに、それを鑑賞することはおろか、まともに見ることすらできない今の弾なのだった。
 このとき、弾に氷混じりのフローズン冷水を浴びせるような発言があった。
 アゾートが、
「あれに行こうよ!」
 と言ったのだ。
「爆速ウォータースライダー! 最高時速102キロだって!? すんごいよね」
「やめてやめてやめてやめてーー!」
 と言えたらどれだけ良かったか。
 だが弾は精一杯のポーカーフェイスを作って、
「いいね」
 と言うほかなかった。誰だってガールフレンドの前では、強がるものではないだろうか。

 この夏までのフレンディス・ティラ(ふれんでぃす・てぃら)ベルク・ウェルナート(べるく・うぇるなーと)の事情について、ざっとおさらいしておこう。
 まず三月の某日、フレンディスはベルクとの同居について前向きな発言をし、やがて実現の流れであったが、それが発端で忍野 ポチの助(おしの・ぽちのすけ)の家出騒動が勃発、白紙撤回とはいかずとも、同居については保留となった。
 六月は結婚式の季節、模擬のウェディングでベルクは署名入り婚姻届を入手したものの、これについてフレンディスは気がついていない。それにこれを有効化させようにも、少なくともフレンディスが二十歳の誕生日を迎えるまでは待つ必要がある。
 そしてつい最近の夏祭りにおいて、フレンディスはついに、自分のコンプレックスをベルクに明かしていた。
 そういった経緯を踏まえた上での、この日この場所スプラッシュヘブンである。
「そういやぁフレイとは久々のプールだよな。新しい水着も似合ってるぜ?」
 ベルクはたくましい胸を張るようにして、更衣室から出てきたフレイを迎えた。
 シルク地のような、ごく淡い桃色彩の水着をフレイは着ている。ポイントポイントにあしらわれた黒いリボンが、いいアクセントとなって目に鮮やかだ。白い肌にもよく映える。
 しかし……ベルクはこれだけは言いたい。
 ――パーカーパレオが邪魔だが……。
 このやりきれぬ想いよ。
 昨年の水着よりずっと、フレイの露出は減ったのではないか。一般的には付き合いが深まれば露出は増えるものではないのか。
 ……なんとも悩ましい。
 夏祭りのフレイの告白、これによってベルクは彼女の悩みを受け止め、二人の距離は縮んだはずだ。
 それでも今日とて、フレイのぎこちなさは変わらないし、装甲いや武装(?)はますます厳重になってしまったように見える。
 ――だが……うう。
 そんな自分を省みて、ベルクはこう思わずにはいられない。
 ――俺って、自分勝手すぎないか……! 自分の欲望ばかり先行させてどうする!
 フレイの気持ちを考えているのか――ベルクは己が身をそう叱責していた。自分だけよければいいのか。それで愛していると……いえるのか!?
 おお、でも、愛しているからこそもっと近づきたい。その気持ちとて、嘘ではない!
 葛藤。まるで彼は現代のハムレットだ。
 といっても乱れる心は、は口にも表情にも出さないでおく。元々紳士なベルクなのだ。それに、フレイとの短くない付き合いで、悩むことには慣れている。
 といっても、ベルクは希望を捨てたわけではない。
 ――いやまだ時間はある!
 そう信じている。時間こそが、いずれ解決を導いてくれるだろう。そのはずだ。
「えぇと……ポチとジブリールさんがご一緒でないのが残念ですが……来た以上はマスターと…その、でーとを楽しみたく」
 後半は消え入りそうな声だったが、ちゃんと『デート』と認識している以上、フレイにだって恋情はあるものと、そう考えてベルクはうなずいた。
 その一方でまた彼女は、ベルクを『マスター』と呼ぶようになった。このほうが落ち着くのだろう。ベルクもそこは指摘しない。
 豆柴ポチの助が家出したことは先に書いた。家出してフレイとベルクの同居を妨害しておきながら、現在、こともあろうにポチ本人は、想い人ペトラと同居していたりする。
 一方でジブリール・ティラ(じぶりーる・てぃら)はこの日、
「オレ、章さんに借りた医学書読んでおきたいし。今日は留守番しておくよ。だから二人で楽しんできてほしいな」
 と殊勝に言って、フレイとベルクを送り出していた。
「犬も真面目にペトラって子のために天学目指してるしさ、負けられないってトコかな?」
 むろんこれはある程度、フレイとベルクのために気を利かせての発言だったのだが、ジブリールには本気で勉強する意思があったのも事実だ。
 ジブリールは高いレベルの医学と薬学を修めているが、それはすべて、暗殺技術にのみ特化しものであった。しかしジブリールはこれを表の世界、人を殺すためではなく人を生かし守るために学び直そうと決意し、先日知人の緒方章へ弟子入りしたばかりなのである。
 ということでベルクは、気分一新して明るく告げた。
「じゃ、まずは波のプールでも行ってみるか」
 ところがそれを聞いて、フレイの足はぴたりと止まってしまう。
 泳ぐ、となると、
 やはりパーカーは脱がねばならないのではないか。
 そうでないと彼女は、水に落ちた蝶のようになってしまうかもしれない。
 だがしかしフレイにも葛藤はあった。
 ――マスターは私の劣等感を受け入れてくれた……だったら私も、もっと歩み寄らなくては、勇気を出して肌を見せなくては……!
 それはベルクの葛藤と、質的にも劣るものではなかった。
 勢いよくパーカーを脱ぎ捨てればいい。それだけのことだ。
 覚悟してきたはずだ。今日こそはと。
 しかし内心の決意とはうらはらに、フレイはまるで人形になったかのように、硬直し動くことができなくなっていた。
 ――少なくともここでは……せめて、人目がないところでしたら……。
 急速に心はしおれていった。
 ほとんど呪いだ。フレイの母親がフレイにほどこしたもの、それはフレイとベルクのあいだに立ち塞がる分厚い壁であり、巨大な重鎮であった。
 それを察して、ベルクは笑顔を作った。
「あ、いや、いきなり泳がなくてもなあ……今日は休息しにきたんだから、わざわざ疲れることからする必要もねぇか」
 空間を埋めるようにしてフレイも笑った。
「マ、マスター……あいすが美味しそうですね!?」
「そうだな。じゃ、アイスクリームでも食べに行くとすっか。あそこのスタンドなんてどうかな?」
 うなずきあってベルクとフレイは連れだって歩き出した。
 ――いいんだ、それでも俺は。
 ベルクは半ば諦め、それでも理解している。
 ――壁は壊せばいい。入籍すりゃこっちのもんだからな。
 フレンディスが二十歳になるまで、もうさほど時間はかからない。