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第九章 遊佐堂円
「頼もう!頼もう!!」
永倉 八重(ながくら・やえ)はとある道場の門をくぐると、腹の底から響く声で、呼ばわった。
何事かと道場の奥から出てきた、道場生の顔色が、八重を見て一変する。
「お、お前は、この間の開国派のスパイ!?」
「――お待ち下さい」
殺気立つ道場生を、八重は手で制する。
「本日は、戦いに参ったのでも、こちらの内情を探りに参ったのでもありません」
「で、では一体何しに来た?」
「遊佐 堂円(ゆさ・どうえん)殿と、話がしたくて参ったのです」
「な、ナニ?堂円様と!?」
「ハイ。私の名は永倉八重。調査団に所属する侍です。堂円殿に、お取次ぎ願いたい」
数日前、親の仇である三道 六黒(みどう・むくろ)の行方を追っていた八重は、調査のため立ち寄った攘夷派の侍たちの講演会で、
遊佐堂円を名乗る男を見た。
堂円とは、かつて第一次二子島紛争を引き起こした、金鷲党の首魁にして、既に死んでいるはずの男の名である。
「何故、死んだはずの男がここにいるのか。そして、この四州で一体何をしようとしているのか」
あれから八重は幾度も考えてみたが、幾ら考えても答えは出ない。
ならば、「直接本人に問いただしてみよう」と、単身攘夷派の拠点に乗り込んできたのである。
パートナーのブラック ゴースト(ぶらっく・ごーすと)はもちろん「危険過ぎる」と言って止めたが、八重には八重なりの成案がある。
理を尽くし熱意を訴えた結果、最後はブラックゴーストも渋々ながら承知してくれた。
そうして、綿密な打ち合わせの上、この道場に乗り込んできたのである。
「わざわざ乗り込んできたその覚悟は褒めてやるが、残念だったな。今、堂円殿はここにはおらん」
八重の正面に座る、道場主と思しき初老の男は、身から出る敵意を隠そうともせずに言った。
「でしょうね。私も、そう簡単に堂円に会えるとは思っていないわ」
「何?」
「だから貴方たちに、私が堂円と会えるよう算段をつけてもらおうと思って」
「何故、我らがそのような事をせねばならん!」
あまりにも馬鹿馬鹿しい八重の言い分に、道場主が語気を荒げる。
「あの遊佐堂円と言う男が、どれ程危険な男であるか知れば、貴方たちもそうしたくなるわ」
「我らを謀ろうとしても、無田な事だぞ」
「私が貴方たちを騙そうとしているかどうか、まずは聞いてみてよ」
「それには、及びません」
開きかけた八重の口を制するかのように、涼やかな声が辺りに響き渡る。
聞き覚えのある、美声。
八重は、声のした方を見た。
「遊佐堂円!」
「堂円様、何故(なにゆえ)!?」
八重と道場主が、同時に驚きの声を上げる。
先日、講演会で見た男がそこに立っていた。
相変わらず、悠揚として胸の内が読めない表情をしている。
「堂円様、ここはお任せ下さいと、申し上げたではありませんか!」
「いえ、それほどまでに私に会いたいというのは一体どんな人なのか、気になって見に来たのですが……。この間、講演会に来ていた
女剣士ではないですか」
「遊佐堂円!貴方に、聞きたいことがある!」
「私に、聞きたいこと……?フッ……。いいでしょう。ついて来なさい」
「ど、堂円様!」
「大丈夫。心配ありません」
堂円は道場主を制すると、八重を屋敷の奥へと誘った。
「ここなら、人に話を聞かれる心配はありません。――それで、一体私に何を聞きたいのですか?」
屋敷の裏にある庭で、堂円は八重に向き合った。
「……あなたは、本物の堂円ではない」
「私が、本物の堂円ではない?」
「本物の遊佐堂円は、二子島で死んでいる。死んだはずの男が、何故ここにいるのです!」
「なるほど。確かに、『最初に』遊佐堂円を名乗った男は、死んだかもしれない。しかし、今は私が、遊佐堂円だ」
「つまり、遊佐堂円の名を継いだと?」
「そう。初め堂円ノ名は、あくまで攘夷派の侍たちの思想的指導者でしかなかった。しかし、彼が金鷲党(きんじゅとう)
を率いて戦い、そして散った事により、その名は、攘夷派にとっての英雄となったのだ。――捨てるには、あまりに惜しい名だ」
「それじゃ、ただの『騙(かた)り』じゃないの!」
八重の糾弾を、堂円を名乗る男を、一笑に付した。
「それは違う。私は、あくまで皆の求めに応じただけだ。攘夷派は今、英雄を必要としているだよ。例えそれが、偽りの名だとわかっていても。――クックック、なんとも皮肉な話じゃないか。愛娘の邪魔になる攘夷派を一掃するべく、正体を隠し、仲間を扇動して死地に追いやった男の名が、今では彼等の英雄だ。きっと『あの男』も、今頃ナラカでさぞかし喜んでいることだろう」
「あ、あなた……。何故その事を……」
金鷲党の指導者遊佐堂円の正体が、五十鈴宮 円華(いすずのみや・まどか)の実の父、由比 景信(ゆい・かげのぶ)だった事は、ごく一握りの人間しか知らない筈だ。
「知っているさ、もちろん。だが安心し給え。今それを公表する気はない。堂円の名に傷がつくからね。――さて。少しお喋りが過ぎたようだな。君が聞きたいのは、こんな話では無かった筈だ。早く用件をいい給え。こう見えて私は忙しい」
(こ、この男……)
さっきまでの慇懃な態度も何処へやら、すっかり人を小馬鹿にし切った態度に、思わず殴りかかりたい衝動をぐっとこらえて、
八重は訊ねた。
「あなた、一体何が狙いなの?あなたの協力者は一体誰?」
「わざわざ私に会いに来て、何を聞くのかと思えば……。そんな事ですか」
「そんな事?」
「そうでしょう?私は遊佐堂円なのですよ?私の狙いは、葦原島で叶わなかった攘夷の願いを、この島で果たすこと。
そして私の協力者は、同じ志を抱く同志たちですよ」
「私が聞きたいのは、そんな作り事では無いわ!」
尚も食い下がる八重に、堂円は、「仕様のないヤツだ」とでも言いたげに、肩を竦めた。
「やれやれ。推理作家に作品のオチを聞いて、教えてもらえるとでも?それを知りたければ、もう少しこの島にいることです。そうすれば、嫌でもわかりますよ」
「貴方のつまらない小説のために、罪のない人たちに塗炭の苦しみを味あわせる訳にはいかないの!」
そう言って、刀の鍔に手を掛ける八重。
「これは手厳しい。自画自賛するようで恐縮ですが、私はこれでも、先代の遊佐堂円よりはいい書き手だと思っているのですよ。
――少なくとも、戦力を一箇所に集めて全滅を待つような真似はしません」
「あなたと景信さんとでは、目的が違うわ」
「確かに。自分の娘のために、数百人もの人間を騙して道連れにするような真似は、私には出来ません」
「――貴様!!」
「さぁ、話は終わりです。先程も言いましたが、私はそれ程暇ではないのです。そこの木戸から、外に出るといい。早くしないと、あなたの大事な相棒が、スクラップになっているかもしれませんよ」
「な――!クロを!?」
「あなたにいつまでも居座られても迷惑なのでね。保険を掛けさせて頂きました。――あなたとて、敵地に一人で乗り込んでくる程、馬鹿じゃないでしょう?なら、必ず近くに仲間がいる筈です」
「こ、こいつ……!」
八重は悔しさのあまり歯噛みするが、どうにもならない。
やはり、こうして一人で乗り込んでくる事自体が無理だったのだ。
八重は、憎しみの篭った目で堂円を睨みつけると、身を翻した。
「ではまた、お会いしましょう。その時には、私の『小説』の感想を聞かせて下さい」
最早振り返る事もせず、クロの元へと急ぐ八重。
その耳に、堂円の耳障りな含み笑いが、いつまでも残っていた。
「ローズさん!」
「あ、御上先生!お疲れ様です!」
ベッドと看護婦の間を縫うようにしてこちらにやってくる御上 真之介(みかみ・しんのすけ)に、九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)は書きかけのカルテから顔を上げた。
治療器具の消毒をしていた冬月 学人(ふゆつき・がくと)も、一旦手を止めてこちらにやってくる。
印田(いんでん)で起きた武力衝突によって多数の死傷者が出たと知ったローズは、学人や馴染みとなった看護士を連れて、印田に駆けつけた。
今では、この急ごしらえの救護所の責任者となっている。
「どうですか、患者さんの様態は?」
「はい。重症の方ですが、今のところいずれも様態は安定してます。軽症の方は、もう治療も済んで、今事情聴取を受けてもらってます。それが済んだら帰って頂く予定です」
「そうですか、良かった……」
「学人や、看護士の皆さんが頑張ってくれたお陰です」
「そんな。僕なんて、ほとんど何も出来なくて……」
もちろん、これは学人の謙遜だ。
学人の《ヒール》や《命のうねり》のお陰で、随分沢山の患者が窮地を脱したのだ。
「ですが、重体の方2名は……たぶん、今夜が山かと」
「そうですか……」
一転して、顔を曇らせる御上。
「しかし皆さん、想像以上に協力的というか……、大人しいので、正直ビックリしました」
重苦しい雰囲気になりそうなのを敏感に察知して、ローズが話題を変える。
「大人しい?」
「はい。私も彼等から見たら外国人ですから、治療を拒否されたり、暴れられたりするんじゃないかと思ってたんですが、
ちっともそんな事は無くて……」
「そうですか……。確かに皆さん表情を見ると、怒っているというよりは呆けているようにも見えますね」
「そうなんですよ、先生」
学人も、ローズの話に賛同を示す。
「皆、治療には協力的ですし、中には『どうしてこんなことに』っていう方もいます。暴動を見ていた方の中には『まるで憑き物が落ちたようだ』なんていう方もいるくらいで……」
「憑き物……」
御上は、その言葉に、引っかかりを覚えた。
「それと、プロレスの試合中に死亡した方の検死解剖の結果ですけど――御上先生?」
「あ、す、すみません。ちょっと考え事を……」
「それで、試合中に死亡した方ですが、名前は増之助(ますのすけ)。身長2メートル12センチ、体重146キロ。推定年齢28歳。死因は、心臓発作」
「心臓発作?首の骨を折ったとかでなく?」
「はい。私もベリートゥバック――ああ、バックドロップの事です――で亡くなられたと聞いて、最初に頚椎損傷を考えたんですが、
頚椎に異常は見られませんでした」
ローズは、首のレントゲン写真を、御上に示す。
確かにその写真には、異常は見られなかった。
「死因が心臓発作では、佐那さんが殺した事にはならないんじゃないですか?」
「はい。心臓発作なら、それこそ歩いていても寝ていても起こる時には起きますから。確かに、激しいスポーツの最中には心臓発作が起こりやすいと言えますが、それは個人の責に問うべき問題ではありません」
「心臓発作に、何か他の原因がある可能性はありませんか?例えば、毒を盛られたとか――」
御上は、少し声を潜めていった。
東野公の事もあるので、暗殺の可能性は常に考慮する必要がある。
「それは、私も考えましたが……。少なくとも、解剖で判断できる範囲では、異常は見られません。後は、血液検査をしてみないと……」
「ここでは、無理ですね」
「はい。サンプルを取りましたので、これを検査に回します」
ローズが、小さなクーラーボックスを示した。
中には、血液の入った試験管が入っている。
「良いレスラーの条件に、『怪我をしない、させない』というのがあります。結城 奈津(ゆうき・なつ)さんも富永 佐那(とみなが・さな)さんも良いレスラーです。そんなお二人が、相手の選手を死なす筈は無いんです」
ローズは、力強く言った。
「ローズさん、随分、プロレスに詳しいんですね」
「ロゼはこう見えて、レスラーなんですよ」
「エエッ!ローズさんが!?」
「もう、学人ったら……。いえ、レスラーと言っても、ちょっとかじったくらいで……」
「『シャンバラ維新軍』という所で、ヒールをやってるんです」
「ヒールっていったら、悪役ですよね?とてもそんな風には見えないな〜」
「学人!だから内緒だって言ったでしょ!恥ずかしいじゃない!」
「そんな、恥ずかしがる事ないのに……」
「と、とにかくですね――」
一刻も早く話題を変えようと、ローズは一際大きな声を出した。
「佐那さんは、無実です。この私が保証します」
ローズは、御上の目を見て言った。
(あれ……?電話だ。誰からだろう……エヴァルト・マルトリッツ(えう゛ぁると・まるとりっつ)さん?)
着信画面に表示された、意外な名前に驚きながら、富永 佐那(とみなが・さな)は電話に出た。
この印田の工場敷地には、オーバスクラフト社の建てた基地局があるため、ケータイが普通に使用出来る。
「はい、富永ですけど」
『エヴァルトだ。今、電話大丈夫か?』
「はい。大丈夫です……どうしたんですか、急に?」
『いや、別に何かあったわけじゃないんだが……。事故の話をきいて、気を落としてるんじゃないかと思って』
「え、それでわざわざ!?」
『す、スマン……迷惑だったか?』
「そ、そんな事ないです!私の方こそスミマセン、わざわざ電話してくださったのに!」
『え?あ、いや、迷惑じゃないんなら良かった。なんだか、大変なことになっちまったな』
「はい。ちょっとして余興のつもりで始めたプロレスが、あんな事になるなんて……」
『余興とはいえ、真剣勝負だったのだろう?なら、事故が起きても仕方ない。悪いのは、それを材料にして対立を煽る者だ』
「は、はい……」
『それで、貴女はこれからどうするのだ。このままここにいるのは危険なんじゃないか?』
「はい。実は、ちょっと調べたいことがあって。帰るのは、それが終わってからにしようかと……」
『調べたいこと?』
「はい。実は……」
佐那は、対戦相手の大男の死が、単なる事故死ではなく、何者かの陰謀によるモノではないかと思っていること。
その事実を証明するために、目撃者を探していることを伝えた。
『確かに、単なる事故死と考えるには、タイミングが良すぎだとは思うが……』
「やっぱり、エヴァルトさんもそう思いますよね!」
『だが、貴女は彼等から見れば憎い仇だ。その仇に、すんなり話をしてくれるかどうか……』
「それは、確かにわかりません。でもこのままじゃ、私、納得出来ないんです!」
『そうか……。わかった!なら、俺の方でも、少し聞き込みをしてみよう』
「本当ですか!」
『警備の片手間だから、あまり役には立たないかもしれないぞ?』
「いえ、そう言って下さるだけで、嬉しいです!」
『そう言ってもらえると、助かる。それじゃ、また何かわかったら連絡するから――』
「はい!それじゃ、また後で!」
佐那は、元気よくそう言うと、ケータイを切る。
(良かった……。協力してくれる人がいて……)
ケータイを、両の手でギュッと握り締める佐那。
そうしていると、心の中から勇気が湧いてくるようだった。
「さて……。いよいよ、ゆっくりもしていられなくなったが……」
佐那に協力を約束したものの、自分は自分で工場の警備という仕事がある。
どう両立したものか、とエヴァルトが思い悩んでいると――。
「何を長々と電話しておるのじゃ!わらわを待たせるとは、相変わらず不届き千万なヤツじゃ!」
白姫岳の精 白姫(しろひめだけのせい・しろひめ)が、その甲高い声で、考え事の邪魔をする。
「あ?なんだウルセーな。こっちは今考え事の真っ最中だっつーの――って、何してんだお前。【翼の靴】なんか履いて?」
「ナニって、あの不埒者共の所に決まっておるのじゃ!」
ビシッ!と一揆勢の方を指差す白姫。
「ナニしに?」
「わらわは、あれから反省したのじゃ。『あの時、あの一揆の者たちにしっかりと互いの力量差を教えておけば、こんなことにはならなかった』と。
だから、これからもう一度あ奴らの所に行って、万が一にも同じ事をしでかさないよう、キツくお灸を据えてやるのじゃ!」
「どうだ、いいアイディアだろう!」と言わんばかりに、フフン♪と胸をそびやかす白姫。
エヴァルトは、思わず頭を抱えた。
(こ、こいつ……。前回ので少しは反省したかと思えば……まるで反省してねぇ……)
「さぁそんなトコロに座り込んでいる暇はないぞ!一刻も早く出発せねば――って、ちょ、な、ナニ?何をする!?」
「す、こ、し、は……大人しくしてろゴラーっ!!」
「い、いた!首が!腕が!!ギャー!!」
三分後――。
「うわーん!みかみー!助けてなのじゃー!あいつが、イジメるのじゃー!!」
たっぷりと関節技で締め上げられた白姫は、泣きながら御上のいるテントへと駆けていった。
「あーあー……。御上教諭先生のテントに行っちまったか……。ま、いいか。アソコなら人も多いし。先生たちには悪いが、
ちょっと白姫の面倒を見てもらうとするか」
エヴァルトは、手早く御上にメールを打つと、佐那と約束した聞き込みに向かった。
「じいさん、済まないがさっきの男の話、もう一度この女の人に話してくれないかな?」
「おお、良いとも良いとも」
老人は、エヴァルトの求めに笑顔で応じた。
老人は、武力衝突の際将棋倒しになって腰を激しく打ち、動けなくなっていた所を、調査団に救われた。
幸い怪我は軽いもので、軽傷者として事情聴取を受けていたトコロに、エヴァルトが改めて聞き込みをしたのである。
「実はあの時、一人気になる男がいたのじゃ」
「気になる男?」
老人は、まるで人目をはばかるように、そっと佐那に打ち明けた。
暴動のきっかけを作った筈の佐那に対しても、特に構える様子はない。
もっとも、リングに上がっていた時の佐那は、リングコスチュームを着てメイクもバリバリだったから、この老人が同一人物だと
気づいていない可能性もあるのだが。
「儂は目が悪いし、リングからだいぶ離れた所にいたから、選手がよう見えん。だから、自然とリングから目が離れがちになった。
その時、ふと視線を感じて横を見ると、笠を目深に被った男が、ジッ……とリングを見つめて、何か唱えておった。よく見るとその男、リングに向かって念仏を唱えておったのじゃよ」
「念仏?」
「そうじゃ、念仏じゃ。こう、両の手を合わせて、拝むようにしておったのだから、間違いない」
老人は、佐那に合掌してみせた。
「あれはもしかしたら、あの男には、これから増之助が死ぬのが、分かったいたのかもしれんのう。不思議な事じゃ……」
「おじいさん。それで、その男の人はその後どうしました?」
「どうしたって?」
「ホラ、何処かに行ったとか……」
「さぁのう。あの後すぐに増之助が死んで大騒ぎになったから、ようわからん。そういえば……」
「そういえば?」
「あの男を見たのも、あれが初めてじゃった気がするのう」
「今まで、見たことがなかった?」
「うむ……。そうじゃそうじゃ!確かに見たことはない。あの男を見たのは、あれが初めてじゃ!」
「おじいさん。この話、他の人にしましたか?」
「いいや、お前さんと、そこの若いのだけじゃよ」
「そうですか!有難う、おじいさん。今のお話、とってもためになりました!お体、大切にしてくださいね!!」
「お、おい!何処に行くんだ富永さん!」
「どうした、若いの。彼女の後を追わんでいいのか?」
「か、かの――!?そんなんじゃねえよ!と、とにかく、有難うな、じいさん!」
「いやいや、若いモンの役に立てて、儂も嬉しいよ」
礼もそこそこに、佐那の後を追うエヴァルト。
「ホッホッホ。いいのう、若いもんは」
老人は、駆けていく二人を目を細めて見送った。
「おい、富永さん!一体何処に行くんだ!」
「御上先生の所!今の話を伝えて、『念仏を唱えていた男』を探してもらうんです!その男、きっと、増之助さんを《呪詛》していたに違いないわ!」
(なんとしても、その男を探しだしださなきゃ!私が潔白だっていうことを、証明してみせる!)
本部のテントに急ぎながら、佐那は、そう固く決心するのだった。
「初めまして。四州開発調査団の、源 鉄心(みなもと・てっしん)と申します。2、3、伺いたいことがあって参りました」
「ティー・ティー(てぃー・てぃー)と申します」
疲れ切った顔をした、オーバスクラフト社の現地責任者は、鉄心の差し出した任命状に面白くもないような顔で目を通した。
「ふうん……。藩から委任されて来たのかい、あんた?」
「ええ。藩の方は、何分にも地球で一般的な『やり方』には不慣れなモノで……」
「まあ、変に時代錯誤な対応されるよりゃ、ウチとしても話の分かる人に来てもらった方が有難いけどね――任意なんだろ?」
「もちろん、あくまで任意の事情聴取です……というか、現場検証の方がメインでして」
鉄心は、相手の神経を逆撫でしないように、あくまで下手に徹する。
強制権が無い以上、相手を非協力的にする事は避けたい。
「ああ、さっさとやっちゃってくれ。あんな血だまりなんか、本当は早く片付けたくてしょうがないんだ」
「お気持ちは良くわかります」
「それで、何が聞きたいの?」
「まずは御社の関係者で、今四州島にいる方の名前と連絡先を」
「ああ。名簿な」
責任者の男が差し出す書類に目を通す鉄心。
「随分と、少ないんですね?」
海兵隊のマイク・カニンガム大佐から、「最低でも10名以上」と聞いていた鉄心は、あまりの少なさに拍子抜けした。
名簿のほとんどに横線が引かれていて、残っているのは責任者を含めてわずかに3人だ。
「前々から、この工場が狙われてるって話は聞いてたからな。本社からの指示もあって、少しずつ帰国させてたんだ」
「なるほど。これ、コピー頂きますね――ティー、頼むよ――でも、狙われてるって話は何処から?」
「それは、海兵隊からとか……まぁ、色々だよ」
「色々ですか……わかりました。――こちらでざっと調べた所によると、御社は精密機器の組立を主に行なってますが、こちらの工場では何をする予定なのですか?」
「ケータイの組立工場を建てる予定だったんだが……この調子じゃあなあ……。撤退するかもしれんよ」
「そうですか……それは、残念ですね……」
「ウチも、ここまで話を進めるのに色々と手間暇かけて、結構な金だってかかってんのに。訴訟もんだよ、こりゃ」
「そういえば、この工場の用地を取得する際に、色々といざこざがあったっていう話を聞いてますが……」
「いざこざ?ああ、例の地上げ云々とかいう話か。そりゃ、ウチは関係ない話だ。ウチは、藩が用意した土地に金を払っただけだからな。用地取得で何かあったってんなら、それは藩と農民の間でだ。はっきり言って、八つ当たりなんだよ、今回の件は。文句があるんなら、藩に言えってんだ」
責任者は、あからさまな不愉快そうな顔をした。
「藩?用地取得に当って地主の方と交渉したのは、藩なのですか?」
「あ?いや、正確に言えば、藩の家来――いや、家来の家来か?――とにかく、そいつだよ」
「家来の家来?名前はご存知ですか?」
「ああ、確か、長谷部 忠則(はせべ・ただのり)とか言ったかな――それがどうした?」
「いえ。家来の家来って、ちょっと面白い表現だと思ったもので――それで、あと工場の警備体制についてお聞きしたいのですが」
「ああ。それなら、SMSの連中に聞いてくれ。あそこの詰所にいるはずだ」
責任者は、敷地内のプレハブをアゴで示した。
「わかりました。お話、ためになりました」
「有難うございました」
「現場検証はどうするんだ?」
「SMSの話を聞いてからにします」
「そうか。ちゃっちゃと済ませてくれよ」
鉄心とティーは、もうウンザリ、というカンジで椅子にもたれかかっている責任者に頭を下げ、事務所を後にした。
「印田の領主については、すっかり失念してましたが――」
「まさか、あの長谷部 忠則(はせべ・ただのり)とはね」
鉄心たちも、長谷部の名前は仲間の報告から知っている。
『米国企業の用地取得に強権を発動した人物と、御狩場で馬賊を率いている人物が同じとは……予想外の組み合わせだな』
『きな臭いですね』
『そうだな』
周囲に聞かれぬように【テレパシー】で意思疎通しながら、二人は、SMSの詰所までやって来た。
安っぽいプレハブのドアをノックすると、ややあって頭の禿げ上がった中年の男が姿を現した。
一目で、軍人上がりと分かる男だ。
男は、値踏みするように鉄心を足の先から頭のてっぺんまで見回すと、ティーを一瞥し、口を開いた。
「調査団の人間だな。そろそろ来ると思っていた。責任者のルイ・ベケットだ。まぁ、入れ」
「源鉄心です。話が早くて助かります」
「ティー・ティーです。失礼します」
二人は、狭いプレハブに足を踏み入れた。
中は、まさに戦場と言ったカンジで、銃や装備がそこら中に転がっている。
「ご覧の通りの有様だが、まあ適当に座ってくれ」
「はい――今回は、色々と大変でしたね」
「ああ。オレもイラクやアフガンで働いてたんだが、久し振りだな、こういうのは」
「そうなのですか」
「ああ。丸腰の連中に銃を向けるってのは、何回やってもいい気はしない。例え込めてあるのが、ゴム弾だったとしてもな」
「実弾は、使わなかったそうですね」
その辺りの事は、鉄心も治療にあたった九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)から聞いて知っていた。
実際、負傷者の中に、ゴム弾によると思われる傷を持つ者は少なく、それが致命傷になって死んだ者も全くいなかった。
皆、パニックに陥った仲間に押し倒され、踏みつけにされて負傷し、命を落としたのである。
「銃を持たない相手にそれは、流石にやりすぎだからな」
「でも、催涙弾を使わなかったのは、何故ですか」
今まで黙って話を聞いていた、ティーが口を開く。
ずっと、疑問に思っていた事だった。
「催涙弾を使うには、あまりに距離が近過ぎた。連中、プロレスを観に門の前に殺到してたからな。あそこで使ったら、こっちまで巻き添えを食っちまう。全く、なんだってあんな所で、いきなりプロレスなんぞ始めたんだが……。まあ、確かに面白いっちゃあ面白かったが。アレ、あんたんトコの人間だろ?」
「ええ、まぁ……」
なんだか藪蛇のようになってしまい、口を濁すティー。
「まああのパニック具合だ。使ったのが催涙弾だろうがゴム弾だろうが、どっちにしろ同じ事になってたろうよ」
「……そうかもしれませんね」
ティーは、悲しげに言った。
そもそも、こんな一揆を起こすこと自体が無謀なのだ。
「事件の際の警備体制について、お聞きしたいのですが」
「それなら、ほら」
話題を変えた鉄心に、ベケットは、丸めた紙の束を放ってよこした。
鉄心が広げてみると、事件当日の警備体制や、人員・バリケードの配置などが、細かく書いてある。
実際の警備に使った資料のようだ。
「適当に、それを見てくれ――話すのは面倒だ。疲れててな」
「では、頂いていきます――現場を、見させてもらいます。あと、警備員の方にお話を聞いても?」
そろそろ潮時と思い、席を立つ鉄心。ティーが、それに続く。
「現場は、好きに見てってくれ。出来れば、早く頼む――とっと片付けろと、うるさいんでな。話の方は、手短に頼む。
みんな、疲れて気が立ってるんだ」
「わかりました」
「では、失礼します」
『どう思う?』
『そうですね……。特に怪しい所もありませんでしたが、見かけ通りの気さくな方、という訳でもありませんでしたね』
鉄心とティーは、再びテレパシーで会話しながら、現場検証に取り掛かった。
『随分と、こちらを警戒していたようでした』
ルイと話している間、ティーは【嘘発見】と【野生の勘】で、ずっと彼の様子を伺っていたのだ。
『まぁ、警戒するなという方が無理なのかもしれないが……ん?』
突然、現場から離れ、敷地の隅へと向かう鉄心。
「どうしたんですか?」
ティーが、その後を追う。
鉄心は、片隅に置かれたブルーシートの前で立ち止まると、それを剥いだ。
下から、資材の山が現れる。
「建設資材のようですけど……これが何か?」
「いや、ちょっとね……」
資材やブルーシートに手を触れながら、【サイコメトリー】して回る鉄心。
その手が、資材の載せられている木製のバレットの所で止まった。
『何か、わかりましたか?』
鉄心の異常に気づいたティーが、テレパシーで話しかける。
『ああ……。このバレット、つい最近まで違う物を載せてたみたいだ』
『違う物?』
『アサルトライフルに、携行ロケットランチャー……SAMミサイルもある。すごい量だ』
『それって……!』
『ああ。一体、この大量の武器弾薬が何処に行ったのか。調べる必要がある』
鉄心は、厳しい顔で言った。
「了解しました。くれぐれもお気をつけてお帰り下さい――お疲れ様でした」
イコナ・ユア・クックブック(いこな・ゆあくっくぶっく)は、ねぎらいの言葉で、通信を締めくくった。
「やっぱり、進行を阻止することは出来なかったそうです。今、馬賊が遠野に入ったのを確認しました」
「遠野は、ほとんどが九能 茂実(くのう・しげざね)の領地だ。あそこに入られては、もう手出しが出来ん」
宅美 浩靖(たくみ・ひろやす)が、悔しそうに言った。
宅美は、留守中の御上に代わり、本部に詰めている。
「皆さん、あんなに頑張ったのに……残念ですわ……」
目に見えてしょんぼりするイコナ。
「まあしかし、イコナちゃんがいてくれて良かったよ」
「え……?なんでですか?」
「そりゃあそうじゃろう。同じイヤな連絡でも、むさ苦しいジジイの声で告げられるのと、可愛らしい女の子に告げられるのとでは、
天と地の差がある」
「そ、そうですか……?」
「そうじゃ。大体、今の連絡を全てワシ一人でやるのかと思ったら、今すぐお迎えに来てもらった方がいい気にさえなる」
「そ、それはダメです!おじ様は、指示さえ出してくれればいいんです。おじ様の代わりに、わたくしが無線連絡の一切を務めさせて頂きますから!」
「ハッハッハ!有難う有難う!いやー、可愛いのう、イコナちゃんは!」
「……おじ様。もしかして、わたくしをからかってます?」
「ハッハッハ!」
「――もう!」
ジト目で睨むイコナを見て、より一層笑いを激しくする宅美。
無線の向こうの作戦の、一つ一つの成否に一喜一憂していては、通信員は仕事にならない。
宅美は、それを言って聴かせる代わりに、おどけてみせる方を選んだ。
(さて、この後九能がどう動くかじゃが……。今しばらくは、様子見かのう……)
イコナをからかいながらも、宅美の頭からは、常に軍事の事が離れなかった。
「さあ、もう逃げ場はないぞ、小僧」
刀を構えた男たちが、三方からジリジリと近づいて来る。
後退りした秦野 萌黄(はだの・もえぎ)の足が蹴りあげた小さな石が、カラカラと音を立てて、崖のしたに落ちていく。
振り向いた萌黄の視界一杯に、奈落が広がった。
(奈津!まだなの奈津!早く来てくれないと、僕……もう……)
萌黄は、結城 奈津(ゆうき・なつ)に心の中で必死に呼びかけた。
(萌黄!今ドコだ!)
奈津の返事が、【テレパシー】で送られてくる。
(奈津!今、崖の上だよ!このままじゃ、落ちるのが早いか、斬られるのが早いか……)
(わかった!崖の上だな!後少し、頑張れ!!)
(あ、後少しだね!頑張って見る!)
迫って来る三人に、改めて向き直る萌黄。
(後少し、時間を稼がなくちゃ……)
萌黄は、必死に考えを巡らせる。
「……諦めたか。往生際の良い事だ」
萌黄の様子を勘違いした男の一人が、近づいてきた。
逃げたしたいのをじっと我慢して、男が近づいて来るのを待つ。
「せめて、楽に死なせてやろう」
萌黄は、ギュッと、目を瞑る。
恐怖からではない。
自分の目を、守るためだ。
「これでも、喰らえっ!」
隠し持っていた《インフィニティ印の信号弾》を、男の目の前に向けて発射する萌黄。
地面に着弾した発光弾が、眩い光を放つ。
「な……ナニっ!」
「小僧!」
「グワッ……め、目がっ……!!」
目を押さえてうずくまる男たちのすぐ横を、萌黄は走り抜ける。
「誰が、諦めるものかっ!」
森に向かって走る、一本の道。
森に逃げ込めれば、まだ逃げる見込みはある。
萌黄は、必死にその道を目指した。
だが――。
不意に、横合いから襟首をものすごい力で、掴まれ、萌黄は抵抗する間もなく地面に引き倒された。
「か、かはっ!」
一瞬息が出来なくなり、目の前に星が散る。
そのまま、後ろ出に腕を捻り上げられた。
腕に、激痛が走る。
「ああっ!」
「残念だったな」
もう一人、森へ続く道を見張っていた男がいたのだ。
離れていたため、信号弾の発光を目の当たりにせずに済んだらしい。
「二度目はないぞ、小僧」
シャリ……と、刀が鞘走る音がする。
【鬼人力】で跳ね除けようにも、腕の痛みでそれもままならない。
「呪うのなら、あの場に居合わせた、お前の不運を呪うがいい――」
(な、奈津……!!)
その声が、奈津に届いたのかどうか――。
「せやぁ!」
背後からの声に、振り返ろうとする男。
だが、その暇もあらばこそ、いきなり万力のようなモノで、頭を挟まれた。
次の瞬間、天地がひっくり返り、全身に激しい衝撃が走る。
「待たせたな!萌黄!!」
「奈津っ!」
木の上から飛びかかった奈津が、男の頭を両脚で挟み込み、放り投げたのである。
奈津の得意とする空中殺法、ルチャ・リブレの妙技だ。
「もう大丈夫だぜ、萌黄。よく、頑張ったな!」
「奈津っ!」
目に涙を浮かべて、奈津の胸に飛び込む萌黄。
「泣くのは後だ。今は、こいつらをどうにかしないとな」
後ろから、めくらましから回復した3人がやって来て、奈津と萌黄を取り囲む。
奈津に投げられた男が、刀を杖代わりにして立ち上がった。
どうやらその男がリーダーなのか、3人は奈津に刀を向けたまま、男の様子を伺っている。
男は、奈津と萌黄を憎々しげに睨みつけると、低く、「引けっ」と命じた。
男たちは、奈津に刀を向けたまま後退ると、バラバラと走り去る。
「やけに、引き際がいいな。アイツら……」
男たちの去った方を見やり、奈津が呟く。
奈津の身体が一瞬光り輝くと、奈津にまとわれていたミスター バロン(みすたー・ばろん)が姿を現した。
バロンは、奈津が戦いに赴く際には、リング・コスチュームとなってその身を守っている。
「怪我はないか、萌黄」
「う、うん。有難う、バロンさん」
口ではそう言いながら、先程ひねられた腕を押さえ、痛そうに顔をしかめている。
「少し、冷やしたほうがいいな。それに、体中傷だらけだ。」
「救護所まで、運ぶよ――ほら、萌黄。乗りな」
しゃがみこんで、背中を向ける奈津。
「うん……有難う」
萌黄は、素直に奈津の背中におぶさった。
「萌黄君。一体、何があったのか、話してくれないか?」
救護所でひと通りの手当を受けた後――。
御上の差し出した、湯気を立てるミルクココアを受け取った萌黄は、自分の見たモノを訥々(とつとつ)と話し始めた。
萌黄は今夜、一揆の指導者だという遊佐 堂円(ゆさ・どうえん)の姿を求めて、一気の指導部の集会に忍び込んだ。
しかし、そこには堂円の姿は無く、代わりに今日萌黄を追いかけていた男たちが、何事か相談しあっていた。
「まさか、こうも早く術が解けるとはな」
「堂円様のお力も、万能ではないと言うところか」
「術といっても、あれは魔法や呪術の類ではない。ゆっくりと、時間を掛けて、意識に刷り込み、洗脳していく技だ。
相手が侍ならばともかく、百姓風情に命を危険にさらすような真似を強制する力はない」
「所詮、百姓は百姓ということか」
「それで、どうするのだ、これから?もうあの百姓どもは、使い物にならんぞ」
「堂円様は、なんと言ってきた?」
「『夷狄共との交渉が終わるまで待て』と。それだけだ」
「それだけ?では、あの百姓たちはどうするのだ?」
「さあな。適当に路銀でも与えて、生まれ故郷に返すつもりなのではないか?」
「せっかくここまで連れてきたのに、たった一度騒ぎを起こしただけでお払い箱とは……堂円様は、一体何を考えておられるのだ?」
「あの方は、我々など及びもつかない程、考えの深いお方だ。我々なぞ、考えるだけ無駄というものよ」
「全くだ」
「僕が聞けたのは、ここまでです。この後、うっかりくしゃみしちゃって、気づかれちゃって……」
「くしゃみって、お前!そのくしゃみのせいで、危うく死ぬトコだったんだぞ!」
「そ、そんなコト言ったって――」
「落ち着け奈津。素人の――しかもまだ子供の萌黄が、ここまでやっただけでも、大したものだ」
いきり立つ奈津をなだめるバロン。
「本当に、バロンさんの言う通りです。よくやってくれたね、萌黄君。君の持って帰ってくれた情報は、何物にも代えがたいものだ。お手柄だよ」
萌黄の肩を、ポン、と叩いてから、その健闘を称えるように、手をギュッと握り締める御上。
「は、ハイ!」
萌黄が、パッと花が咲いたような明るい笑顔を浮かべる。
眼鏡越しに御上の瞳を見て、その称賛が単なるお世辞ではないとわかったのだ。
「萌黄……」
心底嬉しそうな萌黄の顔を見て、思わず涙ぐむ奈津。
奈津は、萌黄と離れ離れになっていた間、心配で心配で仕方なかったのを、表に出すまいと、ずっと頑張ってきた。
それが、萌黄の笑顔を見た途端、緊張の糸が切れてしまったのだ。
「……奈津。お前、泣いてるのか?」
「だ、誰がっ!」
バロンに言われて、照れ隠しに後ろを向く奈津。
「涙は、決して悪しき物ではない。泣きたければ、好きなだけ泣くといい」
「泣いてなんかないって!うるせえなっ!」
口ではそう言いながら、奈津は、溢れ出る涙を止めようとしなかった。
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