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【九 VIPルーム六連戦(其の一)】

 この日ふたり目のジェイダス指名客は、師王 アスカ(しおう・あすか)であった。
 最初の指名客である陽は、バラーハウス正門前でジェイダスから別れのキスを頬に受け、もう何度目かの卒倒を繰り返していたのだが、それ程までに緊張に緊張を重ねて、ジェイダスとふたりきりの時間を過ごしていたのである。
 翻ってアスカはといえば、玄関ホールでジェイダスが出迎えに現れた際に於いて、多少の緊張を見せはしたものの、あたふたと慌てるといったような仕草は見せなかった。
「やぁ、君も来てくれたのか」
 ピンク色の高級シャンパンのボトルを抱えたジェイダスが、形の良い唇に妖艶な笑みを浮かべてアスカの前に現れた。
「か、感激です、ジェイダス様! まさか、ジェイダス様ご自身がお出迎えに来て下さるなんて……!」
「ここはホストクラブさ……私が出迎えるのは、当然だろう?」
 かくして、アスカはジェイダスの案内で最上階へのVIPルームへと身を移した。
 その際、シャンパンタワーを構築する為に、態々悠司が呼び出された。
 どうやらリナリエッタの前で見事なシャンパンタワー構築術を披露したのが、ホスト達の間で話題になっていたらしく、あれ以来、VIPルームに客が入る度に悠司も呼び出されるということが、何度か続いていた。
 最早ルーチンワークと化したシャンパンタワー構築に、悠司は妙な職人魂を発揮して、ひとつ完成させる毎に腕を上げていくという如実な成長振りを披露するに至っていた。
「よぉし、こんなもんか。後はおふたりさんで、ゆっくり楽しんでくれ」
「ご苦労だったな」
 悠司を送り出してから、ジェイダスはアスカと並んでソファーに腰を下ろし、シャンパンタワーからピンク色の高級シャンパンがなみなみと注がれたグラスをふたつ抜き取って、そのうちの一方をアスカに手渡す。
「久々の再会に、乾杯といこう」
 ジェイダスに促され、アスカは目の前に掲げたグラスの縁を、ジェイダスの持つそれと軽く打ち鳴らした。
 ほんの一瞬だが、互いの視線が宙空で絡み合い、アスカは急に頬が上気するのを感じた。まだシャンパンには口をつけていないのだから、決してアルコールのせいではない。
 一方のジェイダスは、アスカの様子の変化などには全く気付いてない素振りで軽くシャンパンを呷り、次いでアスカがソファーの脇に置いた大きな鞄を指差した。
「それは何だい?」
「あ、これは……その、もし良かったら、ジェイダス様にも見て頂きたいな、って思いまして!」
 アスカが鞄の中から引っ張り出してきたのは、彼女の画集であった。一緒に、お守りとして持参した虹のタリスマンも添えてジェイダスに手渡す。
 ジェイダスは、タリスマンには然程の注意を払わなかったのだが、画集には相当な興味を抱いたらしく、手に取るや、最初の何枚かを熱心に鑑賞し始めたのである。
 一方のアスカは、ジェイダスがここまで真剣に自身の絵を見てくれたことに、驚きと戸惑い、そして幾分の気恥ずかしさを覚えてしまい、どうにかこの空気を一変させようと試みた。
「あ、そ、そうだジェイダス様。カクテル、如何ですか? 実は記念の創作カクテルを考えてきたんです」
「ほう……作れるのか?」
 ジェイダスが画集から面を上げた時には、既にアスカはバーカウンターに飛びつき、シェイクの準備に取り掛かっている。
「ローズ・マリーっていうんです。良かったら、ジェイダス様もご一緒に作ってみませんか〜?」
「うむ……どこか芸術の香りを感じるな。教えて貰おう」
 思いのほか、ジェイダスは乗り気であった。
 ふたりしてバーカウンター前に立ち、シェイカー下部のボディに氷と材料を入れながら、アスカは雑談を持ちかける。
「実は私、少し前に色々な方のご好意で個展を開くことが出来たんですよぉ」
「個展か……羨ましい限りだ。私など、日々の理事業務に追われるばかりで、芸術を愛でる暇も与えられん有様だ」
 心底羨ましそうに溜息を漏らすジェイダスに、アスカは意外な感想を抱いた。
 ジェイダス程の身分にもなれば、休日ぐらい自由に過ごせるものかと思っていたのだが、実際はそうでもないらしい。
「体は若くなっても、仕事は一向に減ってくれん。不公平な世の中だ」
 ジェイダスがぼやく姿など、なかなか見れるものではない。アスカはボディにストレーナーをかぶせてトップを締めながら、新鮮な気分でジェイダスの美貌を見詰めた。
 一方のジェイダスは、アスカが一瞬手を止めてしまったのを目ざとく指摘してきた。
「どうした? 早く見せてくれ。君が作るローズ・マリー、さぞや美しい色合いのカクテルに仕上がるのだろうな?」
 妙なプレッシャーをかけてくるジェイダスに、アスカは幾分引きつった笑みを浮かべながらも、流れるような手つきでシェイカーを振り始める。
 VIPルーム内で、アスカがテンポ良く振るシェイカーが、軽快なリズムを奏で始めた。

 ジェイダスと同じく、複数の指名を受ける者が他にも居る。
 但し、地下闘技場とバラーハウスの双方に於いて、という意味では、このアクリト・シーカー程、忙しく行ったり来たりしている者も居ないだろう。
 つい先程、ラルクを相手に廻しての再戦を終えたばかりのアクリトは、VIPルームで待ち受ける姫神 司(ひめがみ・つかさ)のもとへと、大急ぎで駆けてきた。
 司が気を利かせて、タキシードには着替えなくて良いといってくれたので、アクリトは純白のショートタイツに、同じく真っ白なレスラーガウンを羽織ったままの格好で、全身汗だくになりながらVIPルームに馳せ参じてきた。
「おうっ、アクリト教授。忙しいところ、済まない」
 出迎えた司は表面上は冷静な素振りを装っていたが、アクリトの汗まみれの厚い胸板をガウンの隙間から垣間見た瞬間、内心で小さな嬌声を上げていた。
「いや、構わんさ。お陰で、少し休憩出来るというものだ」
 全身から噴き出る熱気で眼鏡のレンズが曇るのか、アクリトは何度も眼鏡を外して手に取り、その都度、レンズをガウンの裾で拭き取っていた。
 この後もアクリトは試合を控えている為、シャンパンを一緒に空けよう、などとは流石に司はいうにいえなかった。
「それにしても、驚いたぞアクリト教授。一体、どういった経緯でプロレスなんぞに身を投じているのだ?」
「至極、簡単な話だ……拉致されたのだよ」
 見も蓋も無い程に、シンプルな説明であった。
 こうまで簡潔にいい切られると、司も、そうですかと答える以外に無い。
「しかし、まさかホストクラブの地下に闘技場などが造られていたとはな……しかしそれ以上に、アクリト教授が普通にプロレスで戦っていることの方が、もっと驚きではあったが」
「別に驚く程のものでもない。どのような競技も、数学の要素で満ちているものだ」
 プロレスと数学は全然関係ないとしか思えない司であったが、しかしアクリトがそこまでいい切るのだから、恐らく間違い無いのだろう。
 詳しく聞いて理解出来るとも思えなかったが、しかし司は、アクリトが今後の戦いに臨むに於いて、少しでも楽な展開に持っていけるのならと考え、敢えてその理論を聞いてみることにした。
「それではお聞きするが……プロレスには、どのような数学的要素が含まれているのかね?」
「簡単な理屈だ。力と力がぶつかる以上、そこには必ず物理的な法則が適用される。攻めるにしても受けるにしても、互いの力関係を計算すれば、受けるダメージは最小に抑え、与えるダメージには最大の効果を添えることが出来る」
 この後、アクリトは各種の技を例に出して細かく力学分析を述べ始めたのだが、もうこうなってくると司には何のことかさっぱり分からず、頭の中で幾つものクエスチョンマークが浮かんでは消え、浮かんでは消えの連続となってしまった。
 余り延々とプロレス力学の講義を続けられても困る為、司はある程度の時間を置いてから、白旗を揚げた。
「えぇと……要するに、アクリト教授の分析通りにやれば、試合に勝てるということで宜しいか?」
「端的にいえば、そういうことになる」
 アクリトにとっては、司が興味を持ったのかどうか、或いは理解出来たのかどうかは余り重要ではなかったらしく、ひと通り自分が喋りたいだけ喋って満足している様子であった。
「それで、アクリト教授……この後も当然、試合があるのだな?」
「うむ……実は、同じ選手に何度も挑戦されていてな。次で三回目だ」
 司は、モニター内でアクリトが戦っていた相手――ラルクの姿を咄嗟に思い浮かべた。あれ程の巨躯を誇る相手と何度も戦うというのは、それはそれで結構な消耗を強いられる筈であった。
 それでもアクリトは嫌な顔ひとつ見せず、淡々と勝負に臨もうとしているのだから、意外と律儀な性格なのかも知れない。
「アクリト教授……その、わたくしも精一杯応援させていただく故……是非、勝ち抜いてくれ」
 言葉を選びながら、やや照れ臭そうな表情でアクリトに声援を送る司。
 しかしアクリトは然程に感動した様子も無く、相変わらず淡々と頷き返すばかりである。
「悪いが、時間だ。戻らなければならない」
 それだけいい残すと、アクリトはVIPルームを辞してしまった。
 しかし、司もこれ以上、バラーハウスに残るつもりは無かった。彼女は折角のVIPルーム占有権を早々に放棄し、慌てて地下の薬局に走り、医療キットを購入してから地下闘技場へと向かった。
 無論、アクリトを応援し、必要なら控え室で傷の手当てなどもしてやるつもりであった。

 鋭峰がルカルカとリナリエッタの両名から指名を受けたように、英照もまた、複数の客からの指名を受けていた。
 この夜、英照がVIPルームへ二度足を運び、そこで顔を会わせたのは、同じく教導団員の董 蓮華(ただす・れんげ)であった。
 一瞬英照は、蓮華もまた、ルカルカ達と同じく、このバラーハウスに対して何らかの権限発動的行為を取ろうとしているのかと警戒したが、しかし彼女の様子から察するに、どうやらそれらしい雰囲気は無い。
 蓮華はただ純粋に、ひとりの客としてこのバラーハウスを訪れただけに過ぎなかった。
「あっ……さ、参謀長殿!」
 VIPルームに入出してきた英照の端整な面を認めた瞬間、蓮華はそれまで座していたソファーから慌てて立ち上がり、背筋を伸ばして敬礼を送った。
 このバラーハウスでは蓮華の方がもてなしを受ける側の客であるとはいえ、矢張り教導団内では絶対的な立場を誇る英照を前にして、横柄な態度を取ることなど出来る筈も無い。
「わ、私は、教導団員の、た、董蓮華と申します! こっ、この度は、わ……私のような者の為に貴重なお時間を割いて頂き、ま、誠に恐縮であります!」
「楽にしたまえ。ここでは、無礼講で構わん」
 英照はそういってくれるものの、矢張り蓮華としては、一歩引き下がった態度で接しなければ、却って自分がやり辛いということもあり、敢えて上官への礼を取ったまま、このVIPルームで過ごすことにした。
 対する英照も、それ以上は殊更に何もいわない。相手の心情を的確に察し、蓮華のしたいようにさせてやろうと判断したようである。
 とにかく、立ち話のままでは落ち着かないということで、蓮華は英照をソファーに案内したが、自身はシャンパンタワーが積み上げられたテーブル脇に直立不動の姿勢で佇んだままであった。
 これには流石に英照も苦笑を禁じ得ず、手招きして隣に座るよう指示を出した。
 当然、蓮華は尻込みする。
「で、ですが……」
「そんなところに立たれては、こちらが落ち着かん」
 かくしてようやく、蓮華と英照は客とホストという、それらしい位置に座を占めて相対するようになった。
 蓮華は未成年であるから、当然シャンパンもノンアルコールのものが出されている。英照はどちらでも良かったのだが、蓮華に合わせる形でノンアルコールを選び、まずは軽く乾杯して場を落ち着かせた。
「……私に何か、訊きたいことがあるようだな」
 流石に、全て見抜かれている――蓮華は一瞬、息が止まりそうになった。恐らくこの分では、彼女の鋭峰への想いも全て、英照にはお見通しといったところであろうか。
 だがここで黙り込んでしまっては、折角のチャンスを自ら破棄するようなものである。蓮華はひと呼吸置いてから、勇気を振り絞って英照の面を真正面から覗き込んだ。
「そ……それでは恐れながら……参謀長殿は、その、心がけていらっしゃることは何ですか?」
「今は、目の前の客を満足させることしか考えていない」
 迷いも何も無い即答に、蓮華は内心、しまった、と自身の頭を小突く思いだった。単純に、訊き方が拙かったのである。
 或いは英照が蓮華の心理を読んだ上で、わざとこういう返答を口にしたという可能性もあるが、こんなところで意地悪するような人物でないことは、蓮華も分かっている。ここは訊き方をしっかり考えなければ、と蓮華は密かに反省した。
「あの、それでは……国防への思いを、お聞かせ願えますか?」
「……完全なる国防こそがジンの理想である以上、叶えるのが当然だ」
 ここで英照は更に、言葉を重ねる。それは、蓮華が最も聞きたいと願っていた内容でもあった。
「私にとって、ジンこそが理想そのものだ。ジンが理想であるということは、ジンの願う理想もまた、私自身の理想である……少し、理想を連呼し過ぎてくどかったかも知れんが、つまりはそういうことだ」
 あぁ、そういうことなのか――蓮華は、鋭峰への想いは誰にも負けないという自負を抱いていたつもりだが、英照の覚悟にも似た一連の言葉に、己の想いがまだまだ甘いことを知った。
 蓮華は、鋭峰を想うだけで鼓動が早鐘のように高鳴る自分を、よく心得ている。しかし英照に至っては、己の存在そのものを鋭峰に奉げている。
 だが、想いの強さは勝ち負けではない。
 自分自身が納得出来るかどうか――ただ、それだけである。
「参謀長殿……私にも、参謀長殿の……そして、団長閣下のお役に立てる日が、いつか来るでしょうか?」
「それを決めるのは、私ではない。君自身の、想いの強さだ」
 このひと言で、蓮華は全てを察した。
 矢張り、英照は何もかも分かっている。分かった上で、蓮華に対してありのままを語ってくれていたのだ。
(決めるのは、自分自身の想い……)
 英照から与えられたそのひと言に、蓮華はどこか、吹っ切れたような爽やかさを覚えた。
 来て良かった、と心から思えた。英照は鋭峰にとって最高のパートナーだが、蓮華にとっても、最良のアドバイザーとなってくれたのである。