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リアクション
善は急げと申します
それは何気なく、普段とさしてかわりなく。
七刀 切(しちとう・きり)がパティ・ブラウアヒメル(クランジ パイ(くらんじ・ぱい))を散歩に誘ったのはそのように、さしあたって特筆すべきこともない日常的な行動に見えた。少なくとも、パティにとっては。
だから、
「軽い散歩、って話じゃなかった?」
パティは怪訝な顔をした。
「変かな?」
頬を人差し指でかきながら切は言った。
待ち合わせ場所に切は飛空艇を用意していたのだ。すでに駆動機は回転をはじめており、パルルルルル……とシロフォンのような音を立てて空気が振動している。
「まあ別にいいけどね」
「なら、善は急げだ」
お嬢様お手を拝借、などと気取ってみせて切は、編み上げブーツのパティを機上に誘った。
「今日はどういう風の吹き回しだか」
くすくす笑いながらもパティは彼の手を取った。
使い込んだ文鎮のような色つやをした彼の飛空艇は、しかれどもブリキ製のトンボのオモチャのように軽やかに空に舞った。
好天。
夏の濃い青ではなく、秋冬の白みがかった青でもなく、春のこの時期特有の、水色のビー玉のように透明な青空だ。
たしかに空のデートには、これ以上ない日だったろう。
四分の一ほど開けた窓から、爽やかな風が流れ込んでくる。
「いい気持ち」
ブルネットのパティの髪が風を受けて踊った。空色の瞳も、その言葉を裏付けるように輝いている。
パリパリと乾いた駆動音こそ伝わってくるものの、それはかすかなものにすぎず機内は適度に静かだ。会話を楽しむには丁度いい。
ある程度飛んだところで、操縦桿を握ったまま切は振り返った。
「この場所、わかるか?」
「わかるって? スプラッシュヘブンの上でしょ」
パティは足元に目をやる。
眼下の巨大プール施設は、甲羅干ししている亀に似ていた。
スプラッシュヘブンは屋内型ゆえ今日も営業中だ。内部には、一足早い夏が訪れていることだろう。
「そう。パティと一緒に花火を見た思い出の場所だ。イルミンスールも思い出の場所だけど、それよりもこの場所のほうがロマンチックかと思ってこっちにした……」
「ロマンチック?」
雲一つなき蒼空にパティは顔を向けている。
「パティ」
突然、すぐ近くに切の気配を感じパティは飛び上がった。
「ユーリ、操縦は!?」
「自動操縦にした。当分は大丈夫」
「そ、そう……でも、驚かさないでよね……っていうか……そのポーズ…………!」
切の姿勢を見て、パティは驚きを新たにしたようだ。
さもありなん。切はパティの座席のすぐそばで、片膝をついて真剣な眼差しで彼女を見上げていたのだから。
パティには世事に疎いところがあるが、それでも彼のこの姿勢が、何を意味するかくらいは知っている。
機内の温度が上がった。体感温度に限らず、ふたりの発する熱量がこれをもたらしていた。
「俺はパティのことが大好きだ。一目惚れしてずっと追いかけて……かつてこの場所で言ったように、パティが重荷を背負うなら俺も背負う。パティが傷つくことがあれば……いや、傷つく前に俺が護る。んで、えっと……」
考えておいた台詞はあったのだが、切だってリハーサルをしてきたわけではない。
いわば一発撮りなのだ。そもそも、こんなことのリハーサルなんてどこでできるというのか。
締まらない――とは自分でも思うものの、緊張するなというほうが無理な話というものだ。
「えい、もう回りくどい表現はやめだ!」
そのほうがワイらしく、俺らしい――そう思った。
腹をくくるともう切に、躊躇も迷いもなくなっていた。
「パティを愛してる。パラミタに生きる七刀切として、本当の俺、ユーリウスとして、パティを愛し、一緒にいたいと思う。絶対に幸せにする。だから、結婚してほしい、パティ」
そして用意した指輪を捧げる。
薄紫の小箱に入った、ダイアモンドのエンゲージリング。
誇張ではなくまばゆい光があふれた。
数秒、いや、それよりはもう少し長いかもしれない。いずれにせよ、ただ待つには長すぎ、混線した思考の糸を解くには短すぎる長さの沈黙が流れた。
「えっ、と……これ、今、返事しなきゃ……よね? ま、まだ心の準備が……」
茹でられたみたいな頬をして、汗までかいてパティは視線をさまよわせていたが、その目が彼の目と合ったとき、ついに心を決したように、
こく、と小さくうなずいた。
そして彼女は、こわごわ両手で小箱を包み込み指輪をつまんだものの、
「あ、それ、俺が」
と、やはり林檎色の頬をした切に言われて、
「そ、そうだっけ?」
「……多分」
というように、いささか不慣れなやりとりを演じたのだった。
切は指輪を手に取り、パティの細い薬指にはめた。
頭の中で花火が爆発するとか、千の鎧武者が暴れ回るとか、そういった過激な興奮は彼の中にはなかった。
むしろ逆だ。
静謐な、それでいて、じわじわと胸に広がっていくような喜びがあった。
緊張の瞬間が終わった。切とパティはほぼ同時に、深く深呼吸している。
「まったく、サプライズもほどほどにしてよね」
左腕を伸ばして指輪を眺め、精一杯の強がりを言いながらも、パティは頬が緩んでくるのを我慢できない様子だ。
「じゃあサプライズついでに、もう一つ」
「まだ驚かされるわけ!? 今日ビーフジャーキー持ってきてないんだけど!?」
なんだか言うことが頓珍漢なのは、やはりパティも気が動転しているからのようだ。
「これまた善は急げ……ということで!」
「だからなによ!」
「今から戻って結婚式をしないか?」
「ああなんだそんなこと……ってエエーッ!」
もちろん切は、ジョークでそんなことを言ったわけではなかった。
切の自宅では黒之衣 音穏(くろのい・ねおん)とイトリティ・オメガクロンズ(いとりてぃ・おめがくろんず)が、大わらわで部屋の片付けを行っていた。
パティにこれからプロポーズする、そして自宅で結婚式を挙げる! と切が宣言したのは昨夜のこと。これは音穏とイトリティにとっても寝耳に水だった。明日シベリアへ引っ越す、と言われたとしても、これほど驚きはしなかっただろう。
だが切との生活でサプライズに見舞われるのはある意味慣れっこ、二人はなんとか対応している。
床も壁も、透明なパラフィン紙を貼り付けたようにぴかぴかになっていた。
テーブルは動かして、中央に祭壇をしつらえた。
祭壇の背後にはミュシャ風のステンドグラスを立てかけ、照明も落とし気味にして、ちょっとしたチャペルのようにする。
こんなものだな、とひとりごち、箒を杖がわりにして音穏は息をついた。
「とうとうこの日が、と思うし、あんなに人前でもイチャイチャしてて今更かと思いもする……か」
対するイトリティといえば、「グルゥ」と唸り声を発するばかりである。
だがイトリティとて、感慨深いのは音穏と同様なのだ。
ずっと切を見てきた音穏と比べれば、かかわってきた時間はずっと短いとはいえ、イトリティも十二分に関係者といっていい。それにパティとはいわば兄弟姉妹の関係でもある。晴れやかな気持ちにもなろうというものだ。
――切もパティも今じゃ家族なんだから、その二人が幸せになるってんならいいことだ。
そう思ってイトリティは鼻を鳴らした。子鹿よろしく小躍りしたい衝動にも駆られた。このとき、
「しかし」
と音穏が言った。
「部屋の中を整えはしたが、断られて戻ってきたらどうするつもりだったんだろうか」
ここでイトリティが「ググゥ!」と声を上げたのは、「それは考えてなかった!」という意味である。
その声が合図だというかのように、このときさっと部屋のドアが開いた。
「ふむ」
振り返って、音穏は腕組みをした。
切とパティが並んで立っていた。
二人とも普段着、ただ、出発時と比べると、切の胸には真っ赤な薔薇が飾られ、パティの頭には白いウェディングベールが乗り、手にはブーケがあるという違いはあったが。
「良かったな、切」
友人や仲間を集めての正式な披露宴は、いずれ開催する予定である。
だけど結婚式は自宅で。
参列者も音穏とイトリティだけで、ささやかに行われた。
「ごめんな、もっと盛大にしてもよかったんだがそれは披露宴で、ってことで……」
切は申し訳なさげに言うも、パティはほほえみを返した。
「いいよ。私もね、あんまりド派手なのは得意じゃないから。それに、ユーリにはちゃんと考えがあってのことでしょ?」
お見通しか、というように切は照れくさげに、
「そういうこと。最初に愛を誓うときはユーリウスとして誓いたかったから……」
「さて、その『誓い』をするべきときがきたわけだが」
牧師役の音穏が咳払いした。なお、彼女は「こんなこともあろうかと」事前に通信制で牧師の資格を取得しておいたということだ。
「あー……その健やかなるときも病めるときも……まあ、このへんはお決まりの文句だが黙って聞くように」
と一通りやって音穏はふたりに誓いを求めた。
もう跪くことはない。切は立ったまま誓約した。
「誓います」
パティの夫となることを。
そして、パティも誓った。
「誓います」
彼の妻となることを。
「パティが幸せになってくれれば俺も幸せだ。だから、これから二人で幸せになっていこう」
「よしそれでは二人を夫婦として認め……」
音穏が言いかけたとき「グルル」とイトリティが声を上げた。「なにか忘れてないか?」そう言っているかのようだった。
「ああそうか。誓いの接吻だったな。するがいい」
情緒も何もあったものではない口吻だが、それが逆に音穏らしくていい。
「じゃあ……」
胸を高鳴らせながら、彼は彼女と向かい合った。
切は、ユーリウスとして、パティの夫になる人物として、新婦の両肩に手をのせた。
もう、一方的に『パイ』を追いかけていた自分ではない。
護ると宣言して、騎士になると誓った自分とも、違う。
目を見つめて、同じ立場で、同じように愛し合う二人として――彼は彼女の顔に唇を寄せた。
近くで眺めれば、ますます美しいパティの微笑みだ。
彼女は目を閉じた。
彼は、口付けた。
「パティよ、これから切のことをよろしく頼む。いろいろ苦労もあるだろうが、支えてやってくれ」
そして音穏は、厳かにふたりの婚姻を認めたのだった。
イトリティはうなずきつつも、言えなかった言葉を心で反芻している。
――指輪の交換は? って訊くつもりだったんだがな。
まあ、いいか。
この後のことまでは考えていなかった切である。ただ、祭壇の前にずっといるのも変なので、パティと腕を組みチャペル(こと自宅)のドアに向かって歩き出した。
器用に籠を加えて花を撒くイトリティに、会釈してまっすぐの通路を進む。
パティが切の耳に口を寄せた。
「なんだかトントン拍子よね。今朝はこんなことになるなんて、思いもよらなかった」
「悪い。勝手に決めちゃって……気に入らなかったか?」
ううん、とパティは首を振った。
「そんなことないわ。これからもよろしく、ダンナ様…………私、この日のために生まれてきたって気がする」
顔から火が出るなんて生やさしいものではなく、アフターバーナーに着火したんじゃないかというくらい紅潮して、切はパティの横顔を見た。
パティも、やはり真っ赤になっていた。けれど新妻にはまだ言いたいことがあるようである。
「それで……このまま新婚旅行に行っちゃう?」
「えっ!?」
切は言葉を失った。正直、そこまでは考えていなかったのだ。
「あの飛空艇さえあればなんとかなるでしょ? 行き先は風任せ、荷物は現地調達、それでいいんじゃない?」
パティは彼の腕に身を預け、こう言ったのである。
「善は急げと言うでしょ?」