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8.大切な人のお見舞い。5


 伊礼 悠(いらい・ゆう)に下された診断は、虫垂炎。
 いわゆる盲腸である。
 薬だけでも軽快する程度ではあったが、
「悠おねーちゃんさ、最近疲れてるでしょ。休んでよ」
 という、マリア・伊礼(まりあ・いらい)を筆頭に説得を受け、数日入院することになった。
 そして現在、悠が抱いている感情。それは、不甲斐なさだった。
 ――全然、大したことないのになぁ……。
 入院する羽目になって、皆に迷惑や心配をかけてしまって。
 申し訳ないと思う。
 情けないと思う。
 個室病室のベッドの中で、悠は寝返りを打った。
 休まなきゃ、と思うと却って眠気は飛んでいって。
 それすらままならない。もどかしくて、胸が苦しい。
 困ったなあ、と何度目かの寝返りを打ったとき、病室のドアが開かれた。
「おねーちゃん、お見舞いに来たよー!」
 元気な声と同時に、マリアが飛び掛ろうとしてくる。それを、著者不明 『或る争いの記録』(ちょしゃふめい・あるあらそいのきろく)――通称ルアラが引き止めるのを見た。
「マリアさん、病人に抱きついてはいけませんよ」
「えー……でも、おねーちゃんが心配だし」
「ならなおさらです。早く良くなってもらうために、身体を労わらないと」
 ね、とルアラが悠に微笑む。悠は曖昧に笑った。
 ――早く。
 早く、良くならないと。
 表情が曇りそうになった。そんな顔を見せたらまた心配させてしまう。掛け布団を引き上げて顔を隠した。
「マリアさん。飲み物を買いに行きましょう」
「へ? 何、いきなり」
「まあまあ。悠さんのためですから」
「悠おねーちゃんの? ……よくわからないけど、悠おねーちゃんのためなら仕方ないね」
 という会話を聞いて、ちらり、視線を向けた。
 ルアラが、ディートハルト・ゾルガー(でぃーとはると・ぞるがー)の肩を叩く瞬間が見える。何かを耳打ちしたらしいが、聞き取れない。
「……?」
 疑問符を浮かべている間に、マリアとルアラは病室を去っていった。
 ディートハルトと二人きりとなった病室に、沈黙が落ちる。サイドテーブルに置かれた時計の秒針が時を刻む音だけが響いた。
「悠、具合はどうだ?」
 不意に尋ねられ、顔を出した。
「だ、大丈夫です。このとおりっ」
 にこ、と笑ってみる。
 申し訳なさだとか不甲斐なさだとかがぐるぐると心の中で渦巻いていて、大丈夫とは言い難かったけど。
 空元気の作り笑いは、けれどディートハルトには見破られてしまったらしい。
「……無理はするな」
 ぽん、と頭に置かれる手。
 そのまま優しく撫でられて、かぁっと頬が赤くなるのを感じた。
 ――あ、あれ? どうしてこんなに恥ずかしいんだろ……。
 過去にも頭を撫でられたことはある。けれどその時は、こんなに恥ずかしく思わなかった。
 どきどきして、さっきまでとは違った感じで胸が苦しくなる。
「……ディートさん」
「何だ?」
「……ごめんなさい」
「どうして悠が謝る? 何かあったのか?」
 ディートハルトの心配そうな声。悠は声を聞いて、また心の中でごめんなさいと呟く。
「わざわざお見舞いにまで来てもらってますし……ほんと、大したことないのに……」
「悠、」
「私、自分が本当に情けないです。周りに心配かけて、迷惑もかけて……そんなことばっかり。あはは、どうしようもないです、ね……?」
 言葉を紡いでいく最中に、ディートハルトの表情が曇ったことに気付いた。
「……ディート、さん?」
「悠。どうかそんな悲しい顔はしないで欲しい……」
 悲しい顔?
 悲しい顔をしているのは、
「ディートさんこそ……」
「私は、悠がそんな顔をしているから……辛くなったのだ」
 どうか笑ってくれないか。
 そう、小さな声でディートハルトが言った。
「笑う?」
「ああ。悠の笑顔が好きなんだ」
「……え、と……」
 その言葉の意味を考えて、考えて。
 ――ど、どうしよう……すごく恥ずかしい……。
 ――けど、嬉しい……かも。
 自分の笑顔を望んでもらえた。
 それは、こんな自分でも傍に居ていいということなのだろう。
 心配ばっかり、迷惑ばっかり、かけたとしても?
「ディートさん」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしてないのだが。……けれど、悠が元気になったなら私はそれで十分だ」
 この人の言葉は天然なのか。
 悠はたびたび疑問に思う。
「? どうした、悠」
「なんでもないです」
「顔が赤い。熱が出たのかもしれないな、横になったほうが良い」
「……誰のせいだと」
「?」
「いえ、なんでもないです。寝ます、はい」


 二人の会話を、ドアからこっそり覗く影二つ。
 マリアとルアラである。
「やはり二人きりにして正解でしたね」
「むー。オッサンばっかりずるい……」
「そんなこと言わないで。ほら。悠さん、さっきよりも自然に笑えていますし、ね?」
「……まあ、そうだけどー。悠おねーちゃん、嬉しそうだもんなー……むー……でもオッサン、ずるい。あたしも悠おねーちゃんの頭わしゃーしたい」
「それは悠さんが元気になったらですかね」
「ちぇー。しょーがないなー我慢するよ」
 その後もマリアとルアラは病室に入らず二人のまったりとした会話を見守った。
 病室に入ることになるのは、悠が「二人とも、遅いですね……」といぶかしみ始めた十分後のこと。


*...***...*


 要・ハーヴェンス(かなめ・はーべんす)が貧血で倒れた。
「ど、どうしよう……まずはお見舞い? お見舞いだよね」
 おろおろとうろたえつつ、東雲 秋日子(しののめ・あきひこ)は見舞いに行く支度を始める。
 最中、奈月 真尋(なつき・まひろ)も落ち着かない様子で部屋をうろうろしていたから。
 ――……真尋ちゃんも要のこと気になってるのかな?
 思い至って、秋日子は声をかけることにした。
「真尋ちゃん! 真尋ちゃんも一緒に要のお見舞いに行こう〜」
 二人でお見舞いに行けば、きっと要もすぐに元気になる。


 そういうわけでやって来ました空京・聖アトラーテ病院。
 広い病院なので、多少迷いかけたりしつつも要が入院している個室に到着。
「こんにちはー」
「来てやりましたよ、こんもやしっ子」
 見舞いの花とケーキをそれぞれ持って、病室のドアを開けて声をかける。
「秋日子くん。真尋くんも」
 ベッドの上に身体を起こした要が、いくらか驚いたように秋日子と真尋を見た。それからはにかむように笑った。その顔を見て、秋日子はほっとする。
「要、元気そうでよかった」
 ナースステーションで借りた花瓶に花を活け、飾りながら話しかける。
「急に倒れてさ。心配したんだよ?」
「ほんにもう。秋日子さんを心配させるやなんて、万死に値する行為です。まずはお説教やき、そこに直りんさい! ベッドの上でなら正座も苦やあらへんでしょ?」
 びしり、指を突きつけて真尋。病人でも容赦のない、揺るぎない様子に秋日子は苦笑する。要は要で言われるままに正座しているし。病人には寝ていてほしいけれど、いつも通りに接することで早く良くなるかもしれないので止めない。病は気からというし。
 花を飾り終え、窓を開けて換気を始めた頃に真尋のお説教が終わった。
「皆さんにはご心配おかけして……本当にすみません」
 要がぺこりと頭を下げる。
「なっ!? べ、別にウチはあんさんのこと心配なんてしでまへんよ!?」
 真尋は否定するけれど、
「心配してない相手のお見舞いするような子じゃないでしょ、真尋ちゃん」
「…………」
 秋日子の追撃に黙ってしまった。言葉を探すようにあっちを見たり、こっちを見たり。
 その様子がおかしくて、秋日子は要と同時に笑った。
「な! あんさんら、ウチで笑わんといてつかぁーさい! ほんま、ウチ心配とかしとりませんからね! ただ、要さんはウチの兄さんに似とるけん、ちょっと……まあ、複雑なだけやし! それだけのことやし!」
 ムキになって否定する様子が可愛らしくて笑いを止められずに居ると、
「ああもう、秋日子さんはともかく要さんうっつぁしい! もう見舞いは済んだけん、ウチは帰らせてもらいます! 早う治してくんなっせ!」
 足音荒く、病室を出て行ってしまった。
 ひとしきり笑った後で、
「……ちょっと、笑いすぎちゃいましたか?」
 要が言った。若干、今更な気がする。けれど秋日子は首を横に振った。
「安心したと思うよ」
「安心……ですか」
「うん。要が笑えるくらい元気だったからね。……あんな態度とってたけど、真尋ちゃんは真尋ちゃんなりにキミのことすごく心配してたから」
 真尋にも言ったが、心配もしてないのに見舞いに来るとは思えない。男性嫌いとあらばなおさらだ。
「真尋ちゃんはお兄さんのこと、すごく好きだったんじゃないかな」
 要によく似た、もう亡くなっていない誉という名の兄のことを思い浮かべる。
「キミは誉さんとは違うけど、やっぱりちょっと似てるとこあるし……ね」
「早く治さないといけませんね」
「そうだよ。要がいない日常って、なんだかつまらないんだ」
 もしも要が居なくなったら、とかも考えてしまって。
 ただの貧血なのに。
「……なんてね、あはは」
 照れ隠しに笑って見せると、
「すみません」
 真面目な顔で、謝られた。
「倒れたこと? そんなに気にしなくても――」
「自分はあなたのためにもっと強くならないといけないのに」
 秋日子の言葉を遮って言われた言葉に、ぼっ、と顔が熱くなる。火でも着いたんじゃないかと一瞬疑うほどに。
 ――私のためにって、それはつまり……え、……。
 考えると混乱してしまい、ますます顔に熱が集まる。
 深い意図はないんだ。そう思う。思っても、どうしても、言葉の意味を勘繰ってしまって、考えてしまって。
 ――ああ、もうっ。
「あれ? 秋日子くん。顔赤くないですか?」
「かっ、要が変なこと言うからだよ!」
「変なことを言ったつもりは……本心ですし」
「ななななにを言ってるかなあもう、さっきから!!」
 不意に視線を感じた。視線の主を探すと、帰ると宣言して病室を出て行った真尋がドアの隙間からこっちを見ていた。
 ――に、睨んでる!! 真尋ちゃんが物凄い形相で要を睨んでる……!!
 これ以上は修羅場になってしまう。そう思った秋日子は、すちゃりと右手を上げた。
「それじゃあ! 私はそろそろ帰るよ!」
「え? そんな真っ赤な顔で……熱でもあるんじゃ? 先生に診てもらったほうが……」
 額に手を伸ばされ、熱を計られた。その行為のせいで熱が上がっていることに、要は気付いていないのだろう。秋日子は飛び退いて手を振った。
「だっだだだだだ大丈夫! だから要もはは、早く良くなってね! 食事とかしっかり摂るようにね! もう倒れたりしないでね、それじゃっ!!」
 半ば逃げるように、病室を飛び出した。
 要に触れられた額は、まだ熱い。