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リアクション
●Sea of Love (2)
碧く透明な波が、クロス・クロノス(くろす・くろのす)の手の甲、そこに羽ばたく蒼い蝶を洗う。光の加減で蝶は、水の中で羽ばたいているように見えた。
これもよかったかな――とクロスは思った。
本日彼女は、月下 香(つきのした・こう)と二人でビーチにいる。
届いた招待状の日程、そのタイミングはあまり良くなかった。彼女と香しか参加できないスケジュールだったのだ。
二人でもいいけど、できればみんなで行きたいなと――とクロスは思いパスも考慮していたのだが、
「うみにままといけるの! いきたいの!」
そう声を上げて香が、どうしても行きたいといって譲らなかったのだ。
まあそれならそれでいいとしよう。この招待状が届いたのもなにかの縁――そう決めて、結局クロスは二人での参加を決めたのだった。
旅の準備の段階で、何気なくクロスは香に尋ねた。泳げるのかどうか。
「たぶん、およげないとおもう? うみいったことないからわからないの?」
これが彼女の回答だ。
なので浮き輪を用意しておいた。泳げなくたってこれで楽しいはずだ。泳ぎの練習を本格的にやるのならプールでやればいい。いまはとりあえず楽しむことが大切だと思うので。
さて、このような経緯で二人は水着に着替え、浜の浅瀬で海を満喫していた。
クロスはすぐに波に揺られたが、香のほうは立ちつくしている。
「どうしたの?」
声をかけても動かない。
こぼれおちてしまうのではないかと思うほど目を大きく見開いて、ひたすら海の光景に圧倒されている様子だ。
それはそうだろう。これが香にとっては、自分の人生かつてなかったほど大きな『世界』に接した瞬間なのだから。
クロスは微笑した。ずっと観察していたくなる。香のことを。
……といってもこの炎天下、いつまでも砂浜にいさせるわけにもいくまい。
海水をしたたらせながらクロスは水より上がり、
「さあ、香。海に入ろうか?」
と彼女の手を取った。すると、
「ひろくておみずがどこまでもつづいてる! すごい! すごい!」
突然スイッチが入ったかのように香は上気した顔をクロスに向けた。
「うん、すごいね」
「あしもとのすなもすごくきれいで、まるでえのなかみたい」
「そうよ。ここは特別綺麗なビーチなの」
香は海に眼を戻した。
この色、どこかで見たことがある気がした。
そうだ、と思い至った。
――もうひとりのままがわるいひとからあたしをたすけてくれたときにみた、そらみたいにきれいでむねがきゅーとする。
この言葉は言わないでおいた。理由はうまく説明できないが、口に出すと嘘になってしまいそうな気がしたからだ。
寄せる波が香の足首に触れた。ちゃぷ、と音が立つ。
「わあ」
「面白いでしょう? これが『波』」
「なみ?」
「寄せては返すこの動きを言うのよ」
「なみ! なみ!」
香にとってはこれも驚異の対象だ。しゃがみこんで波に手を伸ばす。追うと波は逃げた。けれどすぐに、追ってきた。これがずっと繰り返される。不思議だ。
波打ち際でしばらく遊んでいたが、やがて香も海水に慣れてきたらしい。
「うみにはいってみたい」
殊勝にもそう言ったのだった。
「じゃあ、浮き輪をしようね」
てきぱきとクロスは準備した。
この日のために買った浮き輪だ。水兵さんの帽子をかぶった白ネコが数匹描かれたデザイン。これを香の胴にくぐらせて、波打ち際から少し深いほうへと向かう。
クロスは慎重に場所を選んで、香の足がつくかつかないかあたりの浅瀬に場所取りをした。そうしておいて、浮輪を付けた香を引っ張ったのである。優しく。
するっと水に入ると、香は「つめたくてきもちいい!」と笑顔になった。
波は穏やか、止まっているかのよう。
潮の香りを満喫しながら、透き通る海に浮かび、ゆっくりと泳ぐのは最高の贅沢だ。
「ぷかぷかういてとてもたのしい!」
香のはしゃぐ声を聞きながら仰向けに浮かび、クロスは目を閉じた。
――来て良かった。
心からそう思った。
カーネリアン・パークス(かーねりあん・ぱーくす)は不満であった。
こういう浮かれた場面を彼女は好まない。正確に言えば、慣れない。
ラズィーヤ・ヴァイシャリー(らずぃーや・う゛ぁいしゃりー)に来るように言われたときも、一秒たりとも迷わず「嫌だ」と言ったものだ。
すると傲慢なあの女(カーネリアンはそう思っている)は、くすくすと笑って、
「でもね、残念ながら拒否権はないの」
と語ったのである。
「カーネリアンさん、あなたには社会勉強が足りないわ。校外学習の単位、どうするつもりなの? 課外学習の点数にしてさしあげますから、一日過ごしなさいな」
「そんな単位、初耳だ」
「ありますのよ。データをいじって入学したあなたはご存じなかったようですけれど」
「……」
「別に、百合園を出ていっても生きては行けるでしょうけれど、今ほど居心地はよくないと思いますわよ」
というやりとりがあって、カーネリアンはこのように好まない場所に来ているのだった。
ちなみに、百合園女学院に校外学習の単位があるのは事実だが、これは別に必修でもなく、落としたところで放校になるはずもないのだが、それを彼女は知らない。
こうしてせっかく来たのだが、カーネリアンはあいにくと楽しむ気はなるでない。百合園の制服姿で、下を向いたまま波打ち際を歩いていた。
周囲では多数の招待客が遊んでおり、たいへんに賑わっているが彼女には聞こえない。聞かない。
――さっさと誰もいない場所を見つけて、あとは時間が来るまで寝て過ごすとしよう。
だが歩くうちブーツの中に砂が入り、それが彼女をさらにイライラさせている。
「あらあ、カーネちゃん、奇遇ねえ。こんなところで会うなんて」
背後から声をかけられても彼女は無視していた。
ところがその程度であきらめる雷霆 リナリエッタ(らいてい・りなりえった)ではないのだ。
「はーい、リナリエッタおねーさんですよ〜!」
ひょいと正面に回って、彼女の前で両腕を拡げた。
「うるさい!」
苛立ちを爆発させるようにしてカーネリアンは顔を上げた……が、ここでたじろいだ。
目の前にいたリナリエッタが、ガスマスクを装備していたからである。
「あっはー、驚いた〜?」
リナリエッタがマスクを取ると、さしものカーネもほっとしたように溜息をついたのだった。
「あらごめんなさい、驚かせたせいで濡れちゃったわねえ」
その通り。たたらを踏んだところでやや大きな波がきて、カーネリアンは腰まで濡れてしまっていた。制服のスカートが膝に張り付き、大変に具合が悪いことになっている。
「どうしましょ、カーネちゃんって水着とか持ってるのかしら?」
「ある」
と言い放つと、だしぬけに彼女はスカートを脱ぎ捨てた。つづいて上着にも手をかける。
今度はリナリエッタが驚く番だ。
「ええっ!? ちょっとまだ真っ昼間よ、大胆すぎないお嬢さん!? 着替えるにしたって人目が……」
「なにを勘違いしている?」
カーネリアンが制服を脱いだその下は……水着だった。百合園の指定スクール水着である。
実はこれ、ラズィーヤに「下は水着で来ること」と命じられて嫌々そうしたのだが、案外これが役立っていた。
「なんだー。ほっとしちゃった。ねえ、じゃあちょっと遊ばない? この間は、ちょっと言い方が悪かったわよね……でも私は、カーネちゃんが私や他の……ま、百合園を信頼してくれるのであれば仲良くしたいのよ。……ふふ、本当よ?」
先日の共闘の際は、ちょっときつく言い過ぎたかな――という考えがリナリエッタにはあった。彼女が、百合園生の可愛い後輩であることに変わりがない。なので仲良くなりたいと思って声をかけたのである。
ところが、
「断る」
冷たくそう言い放つとカーネリアンは制服を丸め、持参の鞄に押し込んで今度は波打ち際から離れようと九十度に進行方向を曲げて歩き出した。
ずかずかずか、と数歩進んだところで、
「あ…………」
浜に座っていた少女が、感情を押し殺したような声を一つ、口にした。
カーネリアンは足を止め、気づいた。自分が、少女の作っていた砂山を踏み抜いてしまったことに。
「あらら……」
驚いてリナリエッタは少女に駆け寄り、しゃがんで抱きしめた。
「大丈夫? こち? 泣いちゃだめよ? カーネちゃんだって悪気はないんだからね……」
ちょっと大げさな演技を交えて言いながら、ちらちらとカーネを見る。
カーネは大変、居心地の悪そうな顔をしていた。
「そうそう、紹介が遅くなったわね。この子は南西風 こち(やまじ・こち)、私のパートナーよ。海に来るのがはじめてで、せっかくだからカーネちゃんと遊んでもらおうかと思って連れてきたの。……でも、邪魔だったわよね? 悪かったわあ」
「はじめまして、私は、南西風こちと申します……」
こちは、ぺこっと頭を下げた。
カーネはますます居心地の悪い表情をしていたが、ついに意を決したか、
「カーネリアン・パークスだ」
名乗ると、ブーツを脱いで砂の上に座った。
「…………すまなかった。直す」
そうして、両腕を使って砂山を作りはじめる。
「……作り直す、なんて……そんな」
こちは無表情だが、となく嬉しそうな反応を見せて自分も砂を集めはじめた。
「……お姉様、一緒に、遊んでくださいまし」
砂のお城を作ってたんです、そんなことをこちは言った。
「わかった。城だな」
やってみると意外と楽しいのか、カーネリアンの表情も穏やかになっていた。(にこりともしないのは相変わらずだが、表情に乏しいというのはこちも同じなので、リナリエッタはその微妙な変化にちゃんと気がついている)
「カーネリアンお姉様……も、機晶姫……ですか」
「そうだ」
「……学校は、好き、ですか?」
「好きではない。だが、他に行く場所を知らない」
不思議なことに、珍しくカーネがよく話している。作りかけの城を壊してしまったことによる罪悪感からか、それともこちに親近感を覚えているのか。
どちらにせよ、悪いことではない。リナリエッタは満足そうに、二人の城作りを眺めるのである。
「うーん、雨降って地固まるといったところかしらん? 少しでも、百合園女学院、そして、皆と……楽しく過ごしたいって思ってくれればお姉さんはハッピーよ」
そう、どうせなら楽しくすごさねば。
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